最後の謁見、あるいは決別の刃
私には、もはや選択肢が一つしか残されていなかった。
その夜、私は誰にも告げず、屋敷を抜け出した。向かう先は、宮中。帝の寝所だ。厳重な警備が敷かれているが、今の私にとっては無きに等しい。闇に紛れ、影のように忍び込み、私は病に伏せる主君の枕辺に立った。
月明かりに照らされた帝の顔は、驚くほど痩せこけ、血の気を失っていた。浅く、苦しげな呼吸を繰り返している。だが、私がそこに立っていることに気づくと、その虚ろな瞳が、ゆっくりと私を捉えた。
「……嵐か」
か細い、囁くような声だった。
「戻ったのだな……。余は、もう……」
「帝。お気を確かに」
私は彼の傍らに膝をつき、声を潜めて言った。
「帝、お願いがございます。今すぐ、人魚討伐の中止をご命令ください。あれは、摂政の策略。帝を癒すためなどではありませぬ」
だが、帝は力なく首を振った。
「……無駄だ、嵐。もう、誰も余の言うことなど聞きはせぬ。皆、次の帝は誰か、藤原の世がどうなるか、それしか考えておらぬ」
その瞳には、かつての光はなく、ただ深い絶望だけが広がっていた。玉座の鬼は、その虚無に、今や飲み込まれようとしていた。
「それに……」
帝は、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「それに、嵐よ。そなた……変わったな。その眼……。人のものではない。そなた、西の海で……何に出会った……?」
見抜かれていた。この聡明すぎる主君には、私の魂が、もはや人間のものではないことが分かっていたのだ。
「嵐……余の、最後の頼みだ……。この国を、守って……くれ……。藤原の好きには……」
帝の声は、そこで途切れた。彼の体が大きく痙攣し、意識が再び混濁していく。
私は、彼の冷たい手を握りしめた。
国を守れ、と。彼はそう言った。それは、帝として、私に与える最後の『命令』だったのかもしれない。
だが、今の私には、もはやその命令を遂行することはできない。私の守るべきものは、国ではない。帝でもない。ただ一人、エリーだけなのだ。
すまない、我が主よ。
あんたと同じ、空っぽの器を持った、唯一の友よ。
俺は、あんたの最後の願いさえ、裏切る。
私は静かに立ち上がった。そして、寝所の隅に置かれていた、帝が愛用していた短刀を手に取った。
警備の武士たちが、私の気配に気づき、部屋へとなだれ込んでくる。
「何奴!」
「橘嵐!? なぜここに! 帝に何をする気だ!」
私は彼らに目もくれず、短刀の刃を、自らの左腕に深々と突き立てた。
激痛が走る。だが、それすらもが、今の私には心地よかった。この痛みが、私の決意を、より強固なものにしてくれる。
「これを見よ!」
私は、血のしたたる腕を掲げ、叫んだ。
「帝を害そうとした賊と斬り結び、この橘嵐、深手を負った! もはや、軍を率いることは能わぬ! 人魚討伐の任、これより辞退致す! 全ては、摂政殿にお任せいたす所存!」
武士たちが、私の狂気に満ちた行動に、言葉を失って立ち尽くす。
これは、最後の芝居だった。
帝を守ろうとして負傷した、忠義の武士。その姿を演じることで、討伐隊に参加せずとも、誰の疑いも招かぬようにするための。そして、全ての責任と『手柄』を摂政に押し付けることで、彼らの油断を誘うための。
私は彼らに背を向け、闇の中へと消えた。
さらばだ、京。
さらばだ、俺の栄光と、偽りの日々よ。
屋敷には戻らなかった。妻や子供たちに、別れを告げることもしなかった。彼らは、橘嵐という偶像を愛していたに過ぎない。その偶像が消え去る今、私が何を言ったところで、それは感傷以上の意味を持たないだろう。彼らは、俺がいなくとも、強く生きていける。そう、信じるしかなかった。
私は、手負いの体を隠しながら、夜通し西へと走った。
目指すは、西の海。エリーの元へ。討伐隊よりも、一日でも、半日でも早く。
この腕の痛みは、エリーを想う心の痛みに比べれば、物の数ではなかった。
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