凪、あるいは破滅への序曲

貴族となり、橘嵐という名は一つの権威となった。

帝は私を傍らに置き、政治の根幹に関わる判断さえ、私の意見を求めるようになった。摂政藤原氏ですら、今や私の前では下手な策謀を弄しようとはしない。五人の妻はそれぞれに私を敬い、愛し、二十一人いる子供たちは健やかに育っている。屋敷は常に人の活気に満ち、富は使い切れぬほどに蓄えられた。


父、橘景虎が夢見た風景がそこにあった。いや、彼が夢見た以上のものが。

武士が、その力と才覚によって国の頂点に立つ。それを私は一代で成し遂げた。

全てを手に入れた。そう、誰もが言う。私自身も、そう思おうと努めていた。


だが、違った。


広大な屋敷の縁側で、月を見上げる。背後では妻たちが琴を奏で、子供たちが無邪気に笑いさざめいている。完璧な幸福の絵図。しかし、私の耳にはそのどれもが、どこか遠い世界の音のようにしか聞こえなかった。


――足りない。


この手の中にある全てを合わせても、私の魂の器に穿たれた巨大な虚ろを埋めるには、一滴の水にも満たない。帝と交わす魂の応酬も、妻たちへの誠実な愛も、子供たちへの慈しみも、全ては本物だ。嘘偽りはない。だがそれは、乾ききった大地に撒かれた、ほんのわずかな水滴のようなものだった。一瞬で蒸発し、渇きを癒すには至らない。


むしろ、幸福であればあるほど、栄光を手にすればするほど、私の内なる渇きは、その輪郭をよりはっきりとさせていくようだった。まるで、光が強まれば影が濃くなるように。


「嵐様。また、物の怪の噂が」


そんなある日、側近の一人が苦々しい顔で報告を持ってきた。

今度の舞台は、私がかつて海賊を討伐した西の海。そのさらに沖合だという。


「曰く、沖に出た船が、霧の中で美しい歌声を聞く。その歌に魂を抜かれた船乗りたちは、二度と岸には戻らぬ、と」

「また、歌声に惑わされず戻ってきた者たちも、原因不明の病に罹り、肌が魚の鱗のように爛れて死んでいくとか。沿岸の村々では、『人魚の呪い』だと恐れ、漁に出る者もいなくなったと」


人魚。

その言葉を聞いた瞬間、私の心に微かな疼きが走ったのを、自分でも不思議に思った。

物の怪退治は、今や私の役目の一つだった。人魚は、その中でも特に忌むべき存在とされている。陸に上がれば疫病を蔓延させ、国を亡ぼすほどの厄災となる。故に、見つけ次第、狩り殺すのが古くからの習わし。その死体は穢れを撒き散らさぬよう、念入りに焼却せねばならないと定められていた。


「帝も、ご心痛であられる。またしても、そなたの力を借りることになりそうだ」

摂政が、慇懃無礼な態度でそう告げてきた。貴族たちは、穢れ仕事とばかりに、この件を私に押し付けてきたのだ。


「承知した」

私は、二つ返事で引き受けた。

面白い。退屈しのぎにはなるだろう。人魚であろうと何であろうと、帝の世を乱すというのであれば、斬る。ただそれだけのこと。これまで私がやってきたことと、何ら変わりはない。


私は自ら選りすぐった兵を率いて、再び西の海へと向かった。

妻たちや子供たちが見送る中、私はいつもと同じように「すぐに戻る」とだけ告げた。この任務もまた、私の輝かしい武勲の、新たな一行となるだけだ。そう、信じて疑わなかった。

私の魂を根こそぎ覆すような破滅が、あの海の向こうで待っているなど、この時の私には、まだ知る由もなかったのだ。


第七章:歌声、あるいは魂の亀裂


噂の海域は、不気味なほどに静かだった。

空は晴れ渡り、海は鏡のように凪いでいる。風はなく、船は潮の流れに乗って、ただゆっくりと漂うだけだった。


「嵐様、本当にこのような場所に、物の怪などいるのでしょうか」

部下の一人が、退屈そうに呟いた。無理もない。ここへ着いて、もう五日が過ぎる。しかし、噂にあったような霧も、歌声も、その気配すら感じられない。ただ、時間が無為に過ぎていくだけだ。


「油断するな。凪とは、嵐の前の静けさのことだ」

私はそう言って彼らを窘めたが、内心では同じように感じていた。これもまた、貴族どもの空騒ぎだったのではないか。手応えのない任務ほど、退屈なものはない。

早くこの茶番を終わらせて、京へ戻りたい。そのはずなのに、なぜか私の心の一部は、この海に留まることを望んでいた。あの海賊討M罰の時に感じた、海の深淵に潜む「何か」への、奇妙な予感が消えずにいた。


そして、六日目の夜。

天には、満月が皓々(こうこう)と輝いていた。海面は銀色の光を反射し、幻想的な光景を作り出している。部下たちのほとんどは、交代で見張りにつく者以外、眠りについていた。


私は一人、船の舳先(へさき)に立ち、月光に照らされた海を眺めていた。

すると、その時だった。


―――ア……ァ……


どこからか、歌が聞こえた。

人間の声ではなかった。いや、人間が出せる音域を、その清らかさを、遥かに超えていた。それは、魂を直接揺さぶるような音色。喜びでも、怒りでもない。歓待でも、誘惑でもない。ただ、ひたすらに純粋な、千年の孤独と諦念を紡ぎ上げたような、哀しみの旋律。


その歌声を聞いた瞬間、私の世界は、音を立てて崩れた。

全身を、見えない稲妻が貫く。心の奥底で、乾ききっていたはずの空虚な器が、初めて、びりびりと震えた。全身の血が逆流し、脳が沸騰するような感覚。これは、何だ。


懐かしい。なぜ?

愛しい。どうして?

そして、胸が張り裂けそうなほど、痛い。


これまで築き上げてきた全てが、意味を失った。貴族の地位も、五人の妻も、二十一人の子供たちも、帝との絆さえも。それら全てが、ひどく色褪せた、偽物の世界のように感じられた。


――あそこに行かなければ。


理屈ではなかった。本能が、魂が、絶叫していた。

あの歌声の主の元へ。


「嵐様!? いけません、どちらへ!」

部下の制止する声が聞こえる。だが、私の耳にはもう届いていなかった。私はまるで何かに操られるように、船に備え付けてあった小舟を海に下ろし、それに飛び乗っていた。


「お待ちください! それは、人魚の誘いの歌に違いありませぬ! 魂を抜かれますぞ!」


魂など、とうに抜かれていた。

いや、違う。今まで空っぽだったこの魂に、今まさに、中心となるべき何かが注ぎ込まれようとしているのだ。私はただ、その引力に逆らうことができなかった。櫂(かい)を手に取り、夢中で、歌声が聞こえる方角へと漕ぎ出した。


月の光が道しるべだった。

歌声は、私だけを呼んでいるように思えた。


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