玉座の男、あるいは空虚の器
帝との謁見の日は、雲一つない晴天だった。
陽光が降り注ぐ紫宸殿(ししんでん)は、この世のものとは思えぬほどの荘厳さに満ちていた。磨き上げられた床板は鏡のように天井の極彩色の絵図を映し、居並ぶ公卿たちの衣(きぬ)擦れの音だけが、非現実的な静寂の中を漂っている。
彼らの視線が、私という異物に突き刺さる。値踏み、嘲り、好奇、そして僅かな恐怖。武骨な狩衣(かりぎぬ)に太刀を佩(は)いた姿は、この雅(みやび)を極めた空間においては、あまりにも不釣り合いだった。構うものか。俺は彼らに媚びるためにここへ来たのではない。
やがて、御簾(みす)の向こうに人影が動いた。玉座に座る、この国の頂点。当代の帝。
御簾が静かに巻き上げられ、その姿が露わになる。
私は、息を呑んだ。
帝は、驚くほど若く、そして、人間離れした美貌の持ち主だった。女と見紛うほどに白い肌、長く切れ長の瞳、薄い唇。しかし、その完璧な美貌とは裏腹に、その双眸はまるで光を吸い込まない夜の湖のように、昏(くら)く、虚ろだった。全てに倦み、全てに飽いている。そんな色をしていた。
その瞳を見て、私は奇妙な感覚に襲われた。
――同じだ。
この男の瞳の奥に広がっている虚無は、かつて私が抱えていた、あのどうしようもない退屈と渇望と同質のものだ。この男もまた、その器を持て余している。規格外の地位という器を。
「面(おもて)を上げよ。お主が、橘嵐か」
声は、その見た目通り、涼やかで、感情の起伏を感じさせないものだった。
「はっ。帝の命を受け、参上つかまつりました」
帝はしばらく私を無言で見つめていたが、やがてその薄い唇を開いた。
「物の怪を退治したそうだな」
「はっ」
「余の問いに、ただ『はっ』とだけ答えるか。面白い。では問う、嵐よ。そなたにとって、物の怪とは何か」
公卿たちが息を呑むのが分かった。帝が臣下に直接問いを投げかけるなど、異例中の異例だったからだ。摂政が何かを言いかけたが、帝はそれを手で制した。
私は、一瞬だけ思考を巡らせ、そして、ありのままを口にした。
「人の欲望が生み出す、影にございます」
「影、だと?」
「はっ。光が強ければ影が濃くなるように、地位、富、権力、恋情、あらゆる人の望みが、その裏側に等しい大きさの影を生み出します。その影が形を持ち、人の手に負えなくなったもの。それが物の怪の正体であると、臣は考えます」
私の言葉に、帝の虚ろな瞳が、ほんの僅かに揺らめいた。
「ならば、そなたが斬ったのは何だ。影は、斬れぬものであろう」
「仰せの通り。故に、私が斬ったのは物の怪そのものにあらず。それを生み出し、利用しようとした人の心の闇。そして、帝の御世を乱すという、その行いでございます。影を生む人の心がこの世からなくならぬ限り、物の怪は生まれ続けましょう。ならば、現れる度に、ただ斬るのみ」
沈黙が、場を支配した。
公卿たちは私の不遜とも取れる答えに呆気に取られ、摂政に至っては怒りで顔を赤黒くさせている。
だが、帝は――笑った。
声には出さず、ただ、その唇の端を微かに吊り上げたのだ。そして、その瞳に、初めて明確な光が宿った。それは、面白い玩具を見つけた子供のような、純粋な好奇心の光だった。
「良い。気に入った。嵐、そなた、今日より余の側に仕えよ」
「なっ……!帝!」
摂政がたまらず声を上げたが、帝はもはや彼の方を見ようともしなかった。
「北面の武士に非ず。帝である、この余に直接仕える近衛とする。異論は許さぬ」
こうして、私はその日のうちに、帝直属の近衛兵という、前代未聞の地位を与えられた。坂東の田舎武士が、一足飛びに天子の守護者となった瞬間だった。
紫宸殿を退出する私の背中に、数え切れぬほどの嫉妬と憎悪の視線が突き刺さる。面白い。実に面白い。この退屈な都で、ようやく骨のある遊戯が始まりそうだ。
宮中での日々は、戦場とはまた違った意味での闘争の連続だった。
私が帝の近衛となったことを、公家たちが快く思うはずもない。「武士風情が」「成り上がり者め」。陰口は日常茶飯事。私の食事に毒が盛られたことも一度や二度ではない。夜中に寝所へ刺客が放たれたこともあった。
「橘殿、少々、懲らしめてやる必要がある、とは思いませんか? あのような田舎者を帝の側近くに置いておくなど、国の恥にございますぞ」
ある日、摂政派の公卿の一人が、そう言って私に接触してきた。言葉とは裏腹に、その目は笑っていない。彼らが裏で何を画策しているか、私には手に取るように分かった。
「懲らしめる、ですか。結構なこと。ですが、貴殿方の遊戯は、どうにも手が込みすぎていていけませんな。俺の退屈を紛らわせるには、少々、複雑すぎる」
私はわざとらしくため息をついて見せた。
「もっと単純で良い。例えば――そう、命の奪い合いのような、もっと単純(シンプル)で、分かりやすいものが、俺は好きなのですが」
私の言葉に、公卿の顔から血の気が引いた。私は彼の肩に手を置き、にこりともせずに続けた。
「次に俺の前に刺客を寄越すなら、もう少し腕の立つ者をお選びください。昨夜の者たちは、寝起きに相手をするにはあまりに弱すぎた」
それ以来、私に表立って手出しをしようとする者はいなくなった。彼らは気づいたのだ。この橘嵐という男は、自分たちの常識や権謀術数が一切通用しない、全く異質な生き物なのだと。私の圧倒的な実力と、彼らの策謀をまるで子供の遊びのようにあしらう態度は、やがて彼らの心に、侮蔑や嫉妬ではなく、純粋な恐怖を植え付けた。
帝は、そんな宮中の暗闘を楽しんでいるようだった。
私が公家たちの企みをどう切り抜け、どう叩き潰すのかを、特等席で観劇しているかのようだった。
「嵐よ、そなたは面白い男だな。誰もが余の地位を求め、顔色を窺う。だがそなただけは、余自身を見ている。余が抱える、この虚しさを」
ある夜、二人きりで月を見ながら、帝はぽつりと言った。
「そなたの器も、空であろう。だから分かるのだ。満たされぬ者の渇きが」
私は何も答えなかった。この聡明すぎる若き帝の前では、どんな言葉も無意味に思えた。
彼もまた、鬼なのだ。玉座という孤独な玉座に縛られた、美しき鬼。私とは違う種類の、しかし根は同じ虚無を抱えた、同類の。
私たちは、言葉を交わさずとも、互いの魂の形を理解していた。
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