父の背と、空になった器

転機は、私が十二になった年に訪れた。

地方で大規模な反乱が起き、父は朝廷からその鎮圧を命じられた。橘景虎の名は、既に坂東の武士たちにまで轟いていた。彼が率いる一団は少数精鋭でありながら、向かうところ敵なしと謳われていた。


出陣の朝。屋敷の門前には、父が選りすぐった兵(つわもの)たちが鎧兜に身を固め、静かに出発の刻を待っていた。父は、真新しい大鎧を身に纏い、いつもよりずっと大きく見えた。


「嵐、こちらへ来い」


父に呼ばれ、私は母の手を離れてその前に立った。父は馬上から私を見下ろし、その厳つい貌を少しだけ和らげた。


「俺が留守の間、母上とこの家を頼むぞ。お前は橘の次期当主だ。そのことを片時も忘れるな」

「承知しております」

「良いか、嵐。本当の強さとは、力のことではない。誰かを、何かを守ろうとする、その意志のことだ。いつか、お前にも守りたいものができる。その時、お前は本当の武士になれるだろう」


父はそう言って、馬首を巡らせた。母は顔を袖で覆い、嗚咽を漏らしている。集まった家臣たちは、皆一様に頭を下げていた。


私は、ただ黙って、遠ざかっていく父の背中を見つめていた。

土煙の向こうに小さくなっていく、父と彼の部下たちの姿。守りたいもの、か。私には、その言葉の意味がやはり理解できなかった。守るとは、つまり、現状を維持することだ。だが、この退屈な現状を維持して、一体何になるというのか。


私の器は、空っぽのままだった。規格外の大きさをした、しかし空虚な器。父の言葉も、母の涙も、その中を満たすことはできず、ただ表面を滑り落ちていくだけだった。


それから三月(みつき)が過ぎた。

戦の状況は、断片的にしか伝わってこない。初めは橘軍の連戦連勝を伝える知らせが届いていたが、やがてその間隔は長くなり、最後にはぷっつりと途絶えた。


そして、ある雨の降る夜。

一人の血塗れの武者が、命からがら屋敷に辿り着いた。彼は、父の側近の一人だった。片腕を失い、顔には深い刀傷があった。


「景虎様は……景虎様は、討ち死に遊ばされました」


その言葉が、広間に集まった一族の者たちに、どのような衝撃を与えたか。

母は、糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。家臣たちは誰もが顔面蒼白になり、あるいは怒りに震え、あるいは絶望に打ちひしがれた。


だが、私は違った。


悲しくは、なかった。

少なくとも、彼らが想像するような形では。


ただ、ふと、脳裏に父の最後の言葉が蘇ったのだ。

『お前は、この橘家、いや、すべての武士の希望となれ』

『いつか、お前にも守りたいものができる』


その瞬間、空っぽだった私の器に、何かが音を立てて流れ込んできた。

それは、悲しみではない。怒りでもない。

もっと冷たく、もっと硬質で、絶対的な何か。


――父は、死んだ。

あの鬼神と呼ばれた父が、戦場で死んだ。つまり、父は負けたのだ。父の信じた『武士の誉れ』は、父自身を守ることさえできなかった。父の目指した場所は、その程度のものだったのか?


違う。


父が弱かったのではない。父が届かなかっただけだ。ならば、私が行く。

父が目指した場所の、さらに先へ。

武士の頂点。力の頂点。誰にも、何にも脅かされることのない、絶対的な高みへ。


それが、私の『守りたいもの』なのかもしれない。

いや、違うな。これは守るというより、証明だ。

父の夢が、ただの夢ではなかったことの。そして、その夢を遥かに超えていく私という存在の、絶対的な証明。


その夜を境に、私は豹変した。

笑うことをやめた。無駄口を一切叩かなくなった。遊びも、悪戯も、全てを捨てた。

ただひたすらに、剣を振るった。馬を駆り、弓を射た。兵法書を読み漁り、政(まつりごと)の仕組みを学んだ。


かつて退屈しのぎの遊戯だった全てのことが、今や私にとって、頂へ至るための階(きざはし)となった。眠る時間さえ惜しんで、私は己を鍛え上げた。周りの者は、父の死の悲しみで私が変わってしまったのだと思ったらしい。憐れみ、同情し、そして、私の放つ凄まじい気迫に畏怖した。


空虚な神童は死んだ。

そして、冷徹な鬼が生まれた。

全ては、父が死んだ、あの雨の夜のことだった。


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