侵食
黒嶺イブキ
侵食
「ここには入っちゃいけないよ」
まだ幼かった頃、私の手を引いた祖母が言った。
村の外れにある祠だ。入り口は扉で閉ざされているが、実際には洞窟のようなつくりになっているらしかった。
それ以来、その祠を通るときには無意識に歩みを早めてしまう。昼間でも薄暗く、腐った木と錆びた錠前で閉じられた扉の隙間からは、うっすらと黒い影が滲み出ているように見えた。
今日も中学校からの帰り道、その祠の前を通りかかった。夕暮れの空は鈍色に沈み、祠はますます陰鬱に見えた。
「カサ、カサ……」
始めは、風の音かと思った。でもなぜかこの日は足を止めてしまった。
扉に近づき耳を澄ますと、その音はかすかな女の人の囁きのようにに聞こえた。
ふと扉の隙間を覗くと、一瞬影がうつり、それが不自然に歪んだように見えた。私は思わず背筋が硬直し、足早にその場を離れた。
家に帰っても不安が胸の奥でじわじわと広がっていた。母はいつも通りに笑っていたけど、その笑顔がどこかぎこちなくて、私には何か隠しているように思えた。
夕食が終わってから、勇気を出して祖母に聞いてみた。
「ねぇ、おばあちゃん……あの祠ってなんなの?どういう場所?」
まだ夕食の最中であった祖母は箸を止めて、遠くを見つめるようにして答えた。
「昔は村を守るための場所だった」
そう言ってから、祖母は小さく息を吐いた。
「でも……もう違うのかもしれん」
私はもっと詳しく聞きたかったけど、祖母の目が一瞬だけ黒く沈んだ気がして聞くのを止めてしまった。
その夜、祖母の部屋の方から、かすかに呻き声のようなものが聞こえた。
私は思わずドアを開け、
「おばあちゃん?」
返事はなかった。ただ、暗闇の中で振り返った祖母の瞳だけがじっと私を見ていて、その目がとても冷たく感じられた。心臓が激しく打ち、急いで部屋に戻って布団に潜った。
翌日も学校からの帰り道、風に揺れる古木の隙間にあの歪んだ姿がちらりと見えた気がした。
夕食のとき、祖母は何も言わなかったけど、私を見る目がいつもと違って冷たく光っていた。
「おばあちゃんがおかしい…」
証拠はないが、あの祠が原因であることはわかっていた。
私の胸に冷たい決意が湧いた。
祠は、冷たい月明かりにぼんやりと照らされていた。私はこっそり持ち出してきたバールを錆びついた錠前に叩きつけた。おそらく相当昔のものであろう錠前は、意外にも頑丈で、壊すのに時間が掛かってしまった。
痺れた腕で祠の扉を押し開け、祠の中に足を踏み入れる。
その床にはひび割れた皮膚のようなものが広がっていた。そこからは生臭く、少し腐敗したような酸っぱい匂いが立ち上っている。濡れた土や朽ちた木のような湿気に混じり、古い魚の内蔵ような匂いが空間にまとわりついていた。思わず息を止めたくなるほど不快で、生々しい嫌悪感が全身を包んだ。
−逃げ出したい。恐怖と嫌悪との葛藤の中、ゆっくりを歩みを進めた。
不意に闇の中から、目だけが真っ黒に光る異形の者たちがゆっくりと姿を現し始めた。彼らの輪郭はぼやけていて、どこまでが肉体でどこからが影なのか分からなかった。一見人間にも見えるが、一本の長く細い腕は不自然に曲がり、関節が逆向きに折れているようだった。別の者は人間の顔に似ているが、口は耳まで裂けていて、笑っているのか叫んでいるのか判別できなかった。彼らの動きに合わせて皮膚は波打ち、形は霧の中で揺らめくように絶えず変わっていた。濡れた羽音やかすかな囁き声が聞こえ、それは私の中に直接語りかけてくるようだった。
視界の端に、ひときわ大きな影がじっと私を見つめていた。その瞳は深い闇の底に沈み、心臓の鼓動に合わせてゆっくりと脈打っているように感じた。異形の女性にも見えるソレは微かに震え、その身体は無数の黒い瘴気に絡め取られてもがくように歪んでいる。まるで自らが引き裂かれるのを拒むように、長い腕で自分を抱きしめている。
苦痛に表情を歪ませながら、ソレはゆっくりとこちらに近づいてくる。
「封じたはずのものを…!」
その言葉は、冷たく震えるような低い女性の声で、まるで地の底から這い上がるように響いた。怒りに喚くような、しかし悲しみに満ちた恐ろしい声は、次第に遠ざかりながらも私の脳内で無限に反芻する。
遂に耐えられなくなり、私は祠を飛び出した。
家に戻ると、祖母の様子が明らかにおかしかった。目は真っ黒に沈み、今までの祖母とは別人のようだった。僅かに面影が残ったような、優しげ口元から漏れる声もかすれて遠くから聞こえるようだった。
「もう……だめみたいだね」
祖母の顔がゆっくりと歪んでいく。祠の異形の者たちと同じように。
私は恐怖と悲しみで震えた。
「おばあちゃん……」
祖母はもう戻らなかった。
……もうすべてが変わってしまった。
家族も友達も、どこかおかしい。
顔のどこかが歪み、瞳は黒く、鈍く光っている。
「あぁ…みんな飲み込まれちゃった……」
私は絶望の淵で呟いた。
そして気づいた。
私ももう、逃げられない……。
侵食 黒嶺イブキ @nanatsumi0330
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