虹の神殿
若菜紫
第1話 虹の神殿
『薔薇と雨』
社の前に佇む時 思い出してほしい
神木に捧げられ 今も芳しく咲いているであろう赤い薔薇のことを
雨に晒された薔薇は 悦びとなって私の元へ還る
幼さの残る息子に 背を向けられた淋しさを
あなたには言い尽くせなかった
そして約束の前夜 「息子に会うため早く帰りたい」などと
あなたを悲しませてしまった
心苦しさと後悔の翌日 抱擁と共に薔薇は届けられ
愛の悦びのシンボルとなった
戻るがよい 私の胸に
赤々と燃えて香り高き薔薇よ
そしてあなたも思い出すだろう
たとえ流されてしまっていても
如何にして薔薇が私に贈られそして雨の中
今なお咲き誇っているのかを
『花束のベンチ』
電車から降り立つと
花束のベンチが
見知らぬ人に占領されているのが見えた
幾筋もの物語が
プラットフォームに満ち溢れた
T線のN駅
Y駅方面に向かって
特急の最前車両を降りたところに置かれている
このベンチに名前がついた
ーRちゃんの薔薇です。今N駅のベンチですー
ー庭の紫陽花を届けます。花束のベンチで待っていますー
自宅の最寄り駅に降りるため
各駅停車に乗り換えるたび
ベンチの方を確認する
オレンジ色の無機質な椅子に
今までに見た彼の姿や
今までに届けられた花束が
虹のように刻々と現れては色を変える
彼と私だけの
花束のベンチ
何も知らずにこの場所を占領している人たち
この人たちの目には
何が映っているのだろう
ぼんやりとスマートフォンを弄る女性の目には
幼かった我が子との手遊びが
重そうな皮の鞄を抱えた男性の目には
野球の道具を抱えていた数ヶ月前の帰り道が
映っては消えているのかもしれない
人知れず
無数の名を持っているであろうベンチに
もう一度目を向ける
これから見るであろう彼の姿や
これから届けられるであろう花束が
虹のように刻々と現れては色を放つ
『逢引きの時刻』
「花言葉は〈逢引きの時刻〉。庭で育てたんだよ」
彼のために作り始めて日の浅いお弁当を広げた
テラス席のテーブルを
華やかに彩る黄色のグラジオラス
早く彼に逢いたい
これ以上咲かないで
これ以上蕾が開き
花の数が増えると
逢引きの時刻が遅くなってしまう
けれど
これ以上咲いて
一つまた一つ蕾が開き
花の数が十二 十三 十四
逢引きの時刻が遅くなれば
朝まで彼といられるかもしれない
「帰ったらグラジオラスが迎えてくれるね」
初めてこの花を贈られてから何年経っただろうか
旅行の帰り道
彼がふと口にする懐かしい花の名前
どうか早く咲いていて
七 八 九
花が開いて
逢引きの時刻を報せて
明日の朝も逢いたいから
『カササギ』
「神田明神の七夕祭に行きましょう」
「楽しみにしています」
昨夜のメールを読み返して
メールの作成画面を開く
「息子が体調を崩したので今日は家にいます。」
先日彼から贈られたグラジオラスとアガパンサス
薄紫 薄紅 白 黄色
淡い花びらはほとんど散り
台の上を点々と彩っている
天の川を思わせるような
夏の逢引に相応しい
涼しげな色
泣いたら天の川の水嵩が増え
逢う日が余計に遠のいてしまう
そんな他愛もない七夕伝説を思い出した
彼に逢うため降りていくはずだった坂道
普段着に着替えて買い物袋を提げ
その坂道を降りながらふと思う
散り敷いていた花々はカササギとなって
今日逢うはずだった彦星を今度
こちらに渡してくれるだろうか
『百日紅ー『神曲』「煉獄篇」よりー』
一つになり
天国のような恍惚の後
再び二人になり
真夏日の陽炎の中を
歩き続ける
彼の住む町
滅多に来ないね
とからかわれてしまう
見上げれば百日紅の花
訪れた瞬間の悦びと
帰り際の涙を含む
懐かしく不穏な炎の色
ー今度いつ逢える?
ーうーん、息子の勉強次第かなあ
ーなるほど
ー逢える日が少ないと淋しい?
ーうん、それはもう
逢いたい
逢いたい
こんな
鏡のようなやり取りを
心の中ではしているのだから
仕方ない
彼が
逢いたい
気持ちになったのだから
私が
逢いたい
気持ちになって
もっと一緒に
いたい
と思って
だから
こうして一緒に歩いている
百日紅の咲く小路を過ぎ
電車を乗り継ぎ
私の住む町まで
真夏日の陽炎の中を
延々と歩いている
重すぎる荷物を受け取り
自宅に置いてきたお土産を取りに行って
荷物を置いて
家の近くでお土産を渡し
長すぎる散歩の
すべての言い訳を下ろした
キスを交わして別れ
四つ辻の紅い百日紅が咲いているのを眺め
また見に行こう
と思う
『両手を広げてあなたのもとに』
「そんなに走って来なくてもいいのに」
穏やかに笑いながらあなたが言う
いつもの道
いつもの光景
お庭で育てた向日葵と茗荷を届けに
家の近くまであなたが来てくれて
私が向日葵と茗荷を受け取り
花瓶に向日葵を生けて
茗荷を冷蔵庫にしまって
坂の下で待つあなたの元へと向かう
お庭で育てた向日葵と茗荷を届けに
家の近くまであなたが来てくれる
数回目の夏を一緒に迎える中で
いつもの光景となった
特別な光景の中で私は想う
時には
「両手を広げて私のもとへと 喜びの表情を示しながら 駆け寄って」来てほしい
とかつてあなたが願った
言葉通りの私になってみたい
と
恋人とお互いを呼び表し始めた頃から
慣れ親しんできた
この道で
しかしながら
両手を広げることはできない
人通りを憚るわけでも
照れ隠しでもない
両手が塞がってしまっているのだもの
今しがた生けてきたばかりの
溢れんばかりの向日葵の分身で
『輝き』
「向日葵、いつ持って行ってあげようか。」
「嬉しい!あ、でも明日は朝早いし、明後日は病院だし、どうしよう。予定調整するね。」
家の近くで別れる前の会話
その会話の答えを決めようと
手帳を開き
スマートフォンから病院の予約サイトを開く
次に逢う日を約束したら
二日間
二人で写した写真や
彼に写してもらった写真を眺めて
本を読んで感想をメールして
そんなふうに過ごしたいのに
二人で過ごした今日という日が
容赦なく暮れてゆく
窓の外に目を向ければ
薔薇色の雲が甘く香るように
薄青い秋の光へと溶けて
空全体が金色に燃える
今日一日の
最後の輝き
『日陰』
日差しが次第に陰を追いつめる
海から吹き上げる風は
透きとおった光に彩られて
蜃気楼のように遠ざかる
「暑くない?」
「ちょっとだけ。」
「こっちに来る?」
目眩く燦き
青地に白い糸で飾られた
波の裳裾の揺らめきが
めくれては
流れるような砂浜を
なめらかに濡れた岩肌を隠し
また露わにする
日陰が
グラスの氷のように
溶けて小さくなる
「もっとこっちに来る?」
テーブルの下
相合傘に似た
日差しからの雨宿り
『秋風と共に』
秋風と共に舞い降りた日々
貴方に逢うため
公園に向かう歩みを重ね
時を重ね
日々を重ね
唇を重ねて
秋風と共に深まる日々
私に贈られるための花々
ホトトギス
彼岸花
今年最後の向日葵も
黄色く
また紫に色づき
球根を買いに
ラッピングペーパーを買いに
花束を届けるために
貴方が通った道を彩る
秋風と共に満ちてゆく日々
「庭で育てたのはRちゃんの笑顔です」
そんな想いは
私の家の花瓶に咲き
淋しい時も
私の元へと還る
『コート一枚分の』
「Kくん、きっとママがしょんぼりしていると思っているよ。まさか、クリスマスツリーを見て浮かれているとは思っていないでしょう」
彼が微笑んで言う
私はいつものように微笑み返し
彼の指に自分の指を絡めたまま腕に寄りかかる
温かい
コート一枚分ずつを通した
お互いの温もり
コンクール審査会場のロビーに貼り出された
先程の結果発表
最下位の入選者名の
一行下に記された私の名前
「ダメだった。あと一人の差だった」
少し離れて見守っていた彼の元に駆け寄って告げ
唇を噛んで俯いた
数日前
私を励ますために
庭で育てたお花を届けてくれて
今日も
こんなに遠くまで聴きに来てくれて
楽しいデートを計画してくれて
だから私も
それまで以上に練習を頑張って
今日も心を込めて歌った
チェックインを済ませてから
きらびやかなイルミネーションを眺めて歩いて
クリスマスツリーを見ながら食事をして
またイルミネーションを眺めて歩いている
悔しさに負けそうな気持ちを
コート一枚分の温もりに包みながら
優しさに
今日も笑顔で応えたい気持ちを
彼にそっと掛けながら
『花の参道』
「M駅で降りて歩いて行こう」
木々のトンネルをくぐり
廃校舍の側を通り過ぎ
私の住む町へと続く道
「長い時間一緒にいたから、今日は帰るのが淋しいな」
「でも楽しかったじゃん」
この道を通るたびに思い出す
彼の一言
淋しくなる帰り道
楽しかった想い出を植え
何食わぬ顔をしていつものように
彼の指に私の指を絡めて歩いた夏の日
あの日交わした
何気ない会話が今
この道に咲き
次に逢う日へと二人を連れてゆく
虹の神殿 若菜紫 @violettarei
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