古来征戦幾人回 〜タラス河畔の戦い〜

四谷軒

前編


葡萄美酒夜光杯

欲飲琵琶馬上催

酔臥沙場莫笑

古来征戦幾人回

王翰「涼州詞」






 タムガチが荒らし回っている。

 アブー・ムスリムがそれを聞いた時、かれは愁眉しゅうびをひらいた。


「愚かなるタムガチの、それも先遣の者どもだが、どうやららしい」


 時に、西暦七五〇年。

 勃興したばかりの黒衣大食アッバース朝のホラーサーン総督、アブー・ムスリムはその建国の功臣として知られ、英邁えいまいさではかつてのアレクサンドロス大王に匹敵されるといわれる。



 元は奴隷だったアブー・ムスリムは、ゆえあって投獄されていたところを、ウマイヤ朝の勢族、アッバース家の力によって救われる。

 やがてアッバース家が、アッバース革命と呼ばれる、イスラム世界の天下取りに動き出した時、アブー・ムスリムはホラーサーンに潜入し、不満分子を組織し、蜂起する。

 この時、ウマイヤ朝の色である白に対抗して、アッバース家の黒を用いた旗を掲げ、戦ったと言われる。

 アブー・ムスリムは瞬く間にホラーサーンを制し、やがてウマイヤ朝を倒して開かれた、アッバース朝のカリフの選出に影響を及ぼすまでになった。

 いわゆる建国の功臣となった彼が警戒するのは、粛清である。


「ホラーサーンにる。って東方を守る。交易の道を獲得する。しこうして、東方の文物を手に入れる」


 アブー・ムスリムは、そういう名目で、ホラーサーン地方のメルヴに総督府を置き、ウマイヤ朝の残敵を掃討しつつ、領地経営に心血を注いだ。

 そうしてようやくにしてホラーサーンが安定したところで─―


タムガチが荒らし回っている?」


 その報が入った。

 これだ、とアブー・ムスリムは思った。

 今、ホラーサーン地方は落ち着いてきている。

 つまりは、それを理由に、どこか他の地方への移転を命じられる可能性がある。

 現に、ウマイヤ朝の公子、アブド・アッラフマーンはシリアからモロッコにまで逃げ、そこで勢力をたくわえているらしい。

 後年、このアブド・アッラフマーンはジブラルタルを越えて、イベリア半島に渡って、こうウマイヤ朝という王朝をてることになるのだが、それだけ、アッバース朝は西方への不安を抱えており、「今こそ建国の功臣、アブー・ムスリムに難敵を討伐させるべき」という声があった。



「冗談ではない」


 アブー・ムスリムとしては、奴隷上がりの成り上がりの自分が、そういう風に使われて、最後にはどうなるかが目に見えている。

 現に、カリフの密命で、宰相のアブー・サラマを暗殺したばかりである。


「そういえばタムガチには、狡兎こうと死して走狗そうくらる、という言葉があったな」


 アブー・ムスリムはかつてホラーサーンで挙兵し、今は総督として治めている。

 この地を離れれば、何をされるか、わかったものではない。

 だからこそ、この地に盤踞し、かつ、「その必要がある」と思わせることが肝要だ。

 アブー・ムスリムはそう信じ、そんな彼に、唐の侵略行動は、格好の口実だった。


絹の道シルクロードを制する意味合いもある。タムガチと戦う」


 アブー・ムスリムは、麾下の将軍、ズィヤード・イブン・サーリフに十万の軍を与え、唐の討伐を命じた。

 ズィヤード・イブン・サーリフは、アッバース朝最初の叛乱といわれる、ブハラで起こった叛乱を鎮圧したことで知られる。

 ただしその鎮圧行動は苛烈を極め、ブハラ城内の住民の大半を殺し、捕虜も城門の上につるし上げるという見せしめをした。

 そのズィヤードが、不安そうな表情を浮かべた。


「しかし総督」


「何だ」


「ブハラの叛乱鎮圧は治安の一環だからいいですが、こたびのタムガチとの戦いは、いわば侵略。カリフがうべなうかどうか」


 ズィヤードは、アブー・ムスリムが勝手な行動をして、のちに責められることを危惧した。

 アブー・ムスリムは首を振った。


「かまわぬ。そのカリフに、富と文物をもたらしてやる。文句は言わせぬ。それに」


 アッバース朝の君主は、「千夜一夜物語アルフライラ・ワ・ライラ」のハールーン・アル・ラシードに代表されるとおり、富と文化に重きを置いている。

 アブー・ムスリムは卓上に手を伸ばした。

 そこには、唐から渡って来た商人から買った、「紙」による書があった。


「それに、この『紙』というものは、パピルスや羊皮紙よりも優れている。こたびの戦いに勝利し、タムガチから、この『紙』の職工を手に入れよう」


 アブー・ムスリムはその「紙」の書をズィヤードに手渡した。

 ズィヤードはためつすがめつして「紙」の書を見る。

 軽い。

 手触りもよく、何かを書くには最適と思われる。

 表面には、唐の文字で、何か書かれているようだった。


「これは……詩ですかな?」


「さすがにさといな」


 アブー・ムスリムは、唐の商人から聞いた、その詩――王翰おうかんの「涼州詞」をズィヤードに教えた。



 葡萄の美酒 夜光やこうはい

 飲まんと欲すれば琵琶馬上にもよお

 うて沙場さじょうすとも 君笑うことかれ

 古来征戦せいせん幾人かかえ



「古来征戦せいせん幾人かかえる……」


「なかなかの詩情だ。このようなもの、タムガチにだけしておくのは惜しい」


 アブー・ムスリムはアラビア語、ペルシア語の両方をあやつり、その声はうつくしかったと言われる。

 また、詩を好み、その声で朗々と読み上げると、誰もが聞きほれた。

 そういう意味でも、唐への道――絹の道は、アブー・ムスリムにとって、宝の道だった。


「ではけズィヤード。われら黒衣大食アッバース朝に栄光と、富と、そして詩をもたらすのだ」


 ……こうして、イスラム世界と東方世界の激突が始まる。

 

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