古来征戦幾人回 〜タラス河畔の戦い〜
四谷軒
前編
葡萄美酒夜光杯
欲飲琵琶馬上催
酔臥沙場莫笑
古来征戦幾人回
王翰「涼州詞」
アブー・ムスリムがそれを聞いた時、かれは
「愚かなる
時に、西暦七五〇年。
勃興したばかりの
*
元は奴隷だったアブー・ムスリムは、ゆえあって投獄されていたところを、ウマイヤ朝の勢族、アッバース家の力によって救われる。
やがてアッバース家が、アッバース革命と呼ばれる、イスラム世界の天下取りに動き出した時、アブー・ムスリムはホラーサーンに潜入し、不満分子を組織し、蜂起する。
この時、ウマイヤ朝の色である白に対抗して、アッバース家の黒を用いた旗を掲げ、戦ったと言われる。
アブー・ムスリムは瞬く間にホラーサーンを制し、やがてウマイヤ朝を倒して開かれた、アッバース朝のカリフの選出に影響を及ぼすまでになった。
いわゆる建国の功臣となった彼が警戒するのは、粛清である。
「ホラーサーンに
アブー・ムスリムは、そういう名目で、ホラーサーン地方のメルヴに総督府を置き、ウマイヤ朝の残敵を掃討しつつ、領地経営に心血を注いだ。
そうしてようやくにしてホラーサーンが安定したところで─―
「
その報が入った。
これだ、とアブー・ムスリムは思った。
今、ホラーサーン地方は落ち着いてきている。
つまりは、それを理由に、どこか他の地方への移転を命じられる可能性がある。
現に、ウマイヤ朝の公子、アブド・アッラフマーンはシリアからモロッコにまで逃げ、そこで勢力をたくわえているらしい。
後年、このアブド・アッラフマーンはジブラルタルを越えて、イベリア半島に渡って、
*
「冗談ではない」
アブー・ムスリムとしては、奴隷上がりの成り上がりの自分が、そういう風に使われて、最後にはどうなるかが目に見えている。
現に、カリフの密命で、宰相のアブー・サラマを暗殺したばかりである。
「そういえば
アブー・ムスリムはかつてホラーサーンで挙兵し、今は総督として治めている。
この地を離れれば、何をされるか、わかったものではない。
だからこそ、この地に盤踞し、かつ、「その必要がある」と思わせることが肝要だ。
アブー・ムスリムはそう信じ、そんな彼に、唐の侵略行動は、格好の口実だった。
「
アブー・ムスリムは、麾下の将軍、ズィヤード・イブン・サーリフに十万の軍を与え、唐の討伐を命じた。
ズィヤード・イブン・サーリフは、アッバース朝最初の叛乱といわれる、ブハラで起こった叛乱を鎮圧したことで知られる。
ただしその鎮圧行動は苛烈を極め、ブハラ城内の住民の大半を殺し、捕虜も城門の上につるし上げるという見せしめをした。
そのズィヤードが、不安そうな表情を浮かべた。
「しかし総督」
「何だ」
「ブハラの叛乱鎮圧は治安の一環だからいいですが、こたびの
ズィヤードは、アブー・ムスリムが勝手な行動をして、のちに責められることを危惧した。
アブー・ムスリムは首を振った。
「かまわぬ。そのカリフに、富と文物をもたらしてやる。文句は言わせぬ。それに」
アッバース朝の君主は、「
アブー・ムスリムは卓上に手を伸ばした。
そこには、唐から渡って来た商人から買った、「紙」による書があった。
「それに、この『紙』というものは、パピルスや羊皮紙よりも優れている。こたびの戦いに勝利し、
アブー・ムスリムはその「紙」の書をズィヤードに手渡した。
ズィヤードはためつすがめつして「紙」の書を見る。
軽い。
手触りもよく、何かを書くには最適と思われる。
表面には、唐の文字で、何か書かれているようだった。
「これは……詩ですかな?」
「さすがに
アブー・ムスリムは、唐の商人から聞いた、その詩――
葡萄の美酒
飲まんと欲すれば琵琶馬上に
古来
「古来
「なかなかの詩情だ。このようなもの、
アブー・ムスリムはアラビア語、ペルシア語の両方をあやつり、その声はうつくしかったと言われる。
また、詩を好み、その声で朗々と読み上げると、誰もが聞きほれた。
そういう意味でも、唐への道――絹の道は、アブー・ムスリムにとって、宝の道だった。
「では
……こうして、イスラム世界と東方世界の激突が始まる。
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