Episode11. 塩レモン
私の力加減が弱かったのか、先生が集中していたからなのか。
1度のノックでは聞こえなかったようで、2度目に少し強めにコツコツとノックすると、雨野先生がふっと顔を上げた。
「な に し て る ん で す か」
こちらを見たのを確認してから、口パクでそう尋ねる。
音の出所が分かったからか、ホッとしたような顔を見せると立ち上がって窓をカラカラと開けてくれた。
わずかな風が入り込んで、片側に引かれたカーテンがふわりとふくらむ。
「急に音してビビったわ、ホラーかよ」
「なにしてるんですか?」
開口一番、崩れた口調が飛び出したところを見ると、やはり1人のようだ。私は窓のサッシに肘をつき部屋の中を覗き込んだ。
「実習日誌書いてんの」
「あ、日誌」
なるほど、と呟いて机の上の開かれたままのノートを見る。
黒々としたそのページには、きっと1日の出来事や振り返りが書かれているのだろう。
「この部屋、どこですか?」
「は? 社会科準備室だけど。通ってんのに知らねぇの?」
「こんなところ入ったことないですもん。用事ないし」
社会科準備室、なんて部屋があるのか。初めて知った。
6畳ほどの広さで、壁際の書棚には参考書などの他、大きめの地球儀が置かれている。
中央にデスクが4つ向かい合うように置かれていて、その上には開きっぱなしになったパソコンやら、付箋が貼られた資料集やら、誰かの飲みかけであろうマグカップやら。
窓に1番近い席が先生のデスクなのか、ここだけは整理整頓されていた。
「あ、そっか。先生、日本史担当だから……」
何度目かのホームルームの時に、担任が言っていた。雨野先生は日本史担当で、いつか模擬授業をB組でやってもらうことになる予定だと。
ということはここが先生の拠点なのか。朝、学校に着いたらここに鞄を置いて、昼休みもここで昼ご飯を食べているのだ、きっと。
「他の先生は?」
「この時間はみんな部活とかで出払ってるから、俺ひとり」
のびのびできるわぁ、と腕を伸ばして笑う。
「それに普段は俺以外の先生もいる部屋だし、さすがにここまでは誰も安易に入ってこねぇの。集中するのにうってつけなんだよ」
明言はしなかったけれど、まとわりついている女子生徒たちのことを指していることが窺えた。
普段、校舎内を歩けばすぐ誰かしらに捕まってしまうから。迷惑そうな顔はしていなくとも、内心では疲弊していたのだろう。
(そりゃそうか)
いつどんな時も話しかけられれば笑顔で穏やかに接する必要があり、〝完璧なイケメン雨野先生〟としてネガティブな面は見せられない。生徒はもちろん、他の先生の前でさえ。
自身で決めた設定とはいえ、なかなかハードなミッションだ。
「モテる人は大変ですね」
「かっこいいからね俺」
さらりと言って窓から私の方に身を乗り出した先生は、外あっちーなあ、と目を細める。不意に目線の横に来た白シャツから、またふわりと柔軟剤の香りがした。
その距離感に、くらりと目眩がする。
誰も来ないから集中できる、と言っていた場所に私が来て、その上どう見ても日誌を書いている最中だったのに会話を切り上げようともせず、「梅雨どこいった?」なんて空を見上げて笑っている。
私は先生にとって、他の生徒たちとは別の枠にいると思っても、自惚れてしまっても、良いのだろうか。
ふと、頬を微かな冷気が掠めて部屋の中へ視線を向けた。
「もしかして、この中クーラーついてます?」
「ああ、いろんな資料やら本やらがわんさかある部屋だから湿気追い出すのにつけてるんだってさ。俺が来た時から基本午後はずっとついてるよ」
「へえ」
外が相当暑かったのか、空を眩しそうに見上げたままシャツのボタンを外す。
その拍子に普段は見えない鎖骨がくっきりと浮き出て、不意打ちに呼吸が止まった。そろり、と目を逸らす。
あまりにも無防備に、先生の隙が眼前に晒されて。喉の奥が小さく鳴ってしまい、抑えようとして呼吸が震えた。
「ここ涼しいから外出るの辛いんだよなぁ」
「……いま、からそんなんじゃこれから大変ですよ」
「ねー。俺、夏マジで苦手なんだわ。あっちいし汗で髪型くずれるし、冬みたいに着込めばいいってもんじゃねぇし」
どうにか立て直すも、先生の顔を直視できなかった。
鎖骨から伸び、首筋にかけてスッと走るしなやかなライン。見てはいけないものを見てしまったような後ろめたさに視線を落とすと、今度は窓枠に置かれた手が目に入り、トントンと小さくリズムを刻んでいた。
まるで誘うように動いた指先に、ゾワッと背筋を何かが這う。
「あ、先生! あのっ」
何かに呑まれそうで断ち切るように声を上げるも、思ったより大きな声量に自分で驚く。
突然で先生も驚いたのか、目を丸くしていた。
「どした?」
「あ、えっと……」
咄嗟に声を上げただけでその先の話題が見つからず、視線を彷徨わせる。手元でガサリと音を立てたビニール袋にハッとした。
「あの、これ! あげます」
ガサガサと袋を探り、購買で買ったクッキーの小袋をひとつ取り出した。先ほど見つけた新作、塩レモン味。
「倒れないように夏乗り越えてください」
そう言って差し出したら、「塩レモン? 珍しいもん見つけたね」と窓越しに受け取ってくれた。
空にかざすようにして爽やかな黄色のパッケージを眺め、ピリッと封を開ける。
「夏バテ対策の塩レモンです」
「逆に水分持ってかれそうだけど」
「……まあ、確かに」
「あ、でもうまい」
さっそくひとつつまんで口に入れると、ザクッと響いたいい音。お気に召したようで、いつもより目を少しだけ開いて意外そうに呟かれた感想は、きっと本心から出たものだと感じられた。
私が作ったわけではないのに、勝手に誇らしくなる。
「新作なんです、この味。さっき初めて見つけて珍しいなって」
「ふぅん。新作ってことはスタンダードなのもあんの?」
「ありますよ。プレーンとチョコと、アーモンドだったかな」
「へえー、詳しいね。このクッキー好きなんだ?」
何気ない問いかけに、私は「はい」と答える。
「……好きです」
次の言葉には、密かに自分の気持ちを混ぜた。
ただそれが自分の耳に届いた途端、自身の中で燻る熱が彼に伝わってしまったような気がして「ザクザクで美味しいんです!」と急いで付け足す。
対する先生は「うん、マジでうまいこれ」と特に気づいていないようで、ほっと胸を撫で下ろした。
気づいてほしいのか、気づいてほしくないのか。自分でもわからない。
「ありがと、残りの仕事も頑張れるわ」
そう笑ってもうひとつ摘み、ひょいと口の中に放り込む。
その拍子にわずかに見えた赤い舌にドキリとしてしまう自分、本当にどうにかしたい。
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