Episode1. あこがれ



 しとしとと、雨が降っていた。


 頬杖をついたまま、鉛色の空をぼんやりと見上げる。無数の雫がただ落ちていくのを飽きもせず見つめていると、ふわりと眠気が近付いてくる。

 どうやら私は、窓際の席に縁があるらしい。

 中学校に入学して最初の席替えでもそう、そしてその後も3年間、クジで決めるというのに高確率で引き当てた。

 そして、高校生最初の席替えでもこれだ。しかも一番後ろ。幸先の良い大当たりだった。

 晴れた日に、青空と校舎に沿って植えられた植栽が色鮮やかに窓を彩るのも、風がカーテンをさらりと揺らす音が聞けるのも。雨の日に、窓越しに滲む景色をぼんやりと眺め、細やかな雨音を最も近いところで感じられるのも。これ以上の特等席はないだろう。

 梅雨に入ったばかりの今は、重たくべったりと広がった雲に覆われ青空はもちろん太陽も気配はない。鬱々となりそうなこんな日が、私は子どもの頃から好きだった。

 ひんやりとした空気を乗せて、ただ雨が静かに降っている。それだけで、なぜか心がふんわりとほどけていくのだ。


「亜湖! おはよ、ねえちょっと聞いて!」


 そんな、心地よい雨音をBGMに一瞬夢の世界へ飛びかけていたとき。

 雷鳴の如く落ちてきた興奮気味の声に、ぱちりと目を開けた。


「んぇ?」

「え、寝てた?」


 椅子の背もたれを掴んで、後ろから私を覗き込む。入学早々仲良くなった舞果まいかが、ボブの髪を揺らしながら「まだ朝だよ?」と私のぼんやりした目を見て笑った。


「舞果……おはよ。雨見てたら眠たくなってきちゃって」

「なんだそれ」


 出会って2ヶ月。

 初めは五十音順で指定されていた席で、「領家りょうけ亜湖」である私の前に座っていたのが、「吉野よしの舞果」だった。

 あはっ、と楽しそうに声をあげ、「あのね! さっきねぇ、ミナト先輩に会ったの」とニコニコしながら報告してきた。


「ミナト先輩……。へえ、下駄箱で?」

「そうなの! ね、珍しくない? この時間に会うことなんてなかったのにさ」


 ミナト先輩、というのは舞果が密かに想いを寄せる3年生の先輩のことだ。

 雨の日の教室の窓際で、朝いちばんに友達から恋の話を聞く。このシチュエーション、前にもあったな。

 デジャヴ、という言葉が私の頭の中をよぎった。

 あの時よりかは、うまく相手の話に乗りながら反応を返せるようになった。

 残念ながらまだ、誰かに恋をする気持ちも、遠くから「あの人いいなあ」なんて思う気持ちも、付き合いたいと願う気持ちも、私は知らない。だから共感はできないけれど。

 好きだと胸を張って彼女が口にするそれに、未だどこか異国の言葉を聞いている感覚はあれど。単純に「今日は姿見れた!」「今日は休みかな……」と一喜一憂する姿は、かわいいなと思う。


「いつも勝手に遅刻ギリギリなのかなって思ってたの。運良ければ明日もこの時間に会えるかなあ」


 きっと、遠巻きに姿を見つめるだけで舞果はミナト先輩のことをほぼ何も知らないはずだ。それでも「遅刻ギリギリ」という、真面目とは離れたところのイメージが結びつくのには、理由がある。


「……人を見た目で判断しちゃダメって分かってるんだけどね」


 そう言って苦笑した舞果に、「いや勝手に私もそう思ってたよ」と、何の慰めにもならないフォローを入れた。

 そう、全てはその外見。

 彼女が憧れるミナト先輩は、わりと校則が厳しめなこの高校ではおよそ許されるはずのない、金に近い茶髪なのだ。

 何故私が知っているかというと、この1年B組の窓から見える渡り廊下に、たまにその先輩が現れるから。

 晴れの日、昼休みになるとふらりとやってきて、パックジュースを片手にぼんやりとグラウンドの方を見つめている。その姿はまるで日向ぼっこをする猫さながら。

 私は1ヶ月前の席替えでこの席になってからその存在に気づいたが、とっくに新入生の間では「怖そうなヤンキーが昼休みに渡り廊下を支配している」として噂になっていたらしい。

 入学当初から結構有名な話だったのに知らなかったのか、と舞果には呆れられた。

 そして数週間前、その怖そうなヤンキーに、舞果は自身の前方不注意で階段でぶつかりかけたのだとか。相手の顔を見るより先に明らかに着崩した制服が目に飛び込んできて慌てて謝ったら、「大丈夫? ごめんね」と派手な見た目とは裏腹な優しい笑顔で微笑まれたらしい。

 渡り廊下の主だ、と気づくのと同時に、一瞬でそのギャップに堕ちたようだ。


「笑顔が可愛いんだよ、外から見てるイメージと全然違うの!」


 その日の放課後、帰ろうとした時に呼び止められ、ひとり盛り上がる彼女になかなか解放してもらえなかったことを思い出して遠い目になった。

 あれから、舞果の話題はミナト先輩のことばかり。よくもまあ、一度言葉を交わしただけの人のことをそこまで熱く語れるものだと、ある種尊敬すらしてしまう。


「舞果ってほんとに、先輩のこと好きだねえ」


 そう言うと、決まっていつも顔を綻ばせて「うん!」と頷くのだ。

 それが恋愛と呼べる類の「好き」なのか、私には分からなかったけれど。「姿を見れて幸せ」と目を輝かせる舞果の話を聞くのは、こちらまで幸せになれるようで気分が良かった。

 人の悪口や陰口で盛り上がるより、ずっと良い。


「はあ、私も……」


 いつか、そんな風に誰かを好きになってみたい。

 その人を見るために学校に通うのが楽しくて、朝早く起きるのだってへっちゃらで、その人と会えたらその日は1日ハッピーで。

 どんな風に世界が見えるのだろう。

 その感覚をすでに知っている舞果が、羨ましかった。

 ただ、テレビで芸能人を見ても、校内で同級生や先輩を見ても、全く心が揺れ動いたことのない私にはまだまだ遠い世界だろうなと、そう思ってもいた。

 


 そんな梅雨の始まりから、1週間が経った頃。

 風は、突然吹く。

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