ユメの物語

空歩勘助

第1話 図書館にて

 春の陽射しが、プロテクタントの町を淡く照らしていた。

 柔らかな光は街路樹の若葉を透かし、風に揺れる影を舗道の上に優しく落としている。

 昼下がりの空気はどこかゆるやかで、仕事の合間にふと歩いてきた僕の足取りも、自然とゆっくりしたものになっていた。


 図書館へ来るのは、ずいぶん久しぶりだった。

 忙しさにかまけて足が遠のいていたが、今日はなぜか心が静かな場所を求めていた。

 木製の分厚い押し扉をゆっくりと押し開けると、ぎぃ……という古い蝶番の音とともに、ひんやりとした空気が僕を迎え入れた。

 外の陽射しが一瞬だけ背中に残り、すぐに静寂が包み込む。


「こんにちは」


 澄んだ、けれどどこか柔らかい声が、静寂に溶けるように響いた。

 胸の奥がわずかに震えるのを感じながら顔を向けると、カウンターに一人の女性が立っていた。


 控えめに微笑みを浮かべたその人は、落ち着いた紺色の司書制服に身を包み、長い黒髪をゆったりと束ねている。図書館の空気よりもさらにしんと佇む姿で、輪郭の柔らかさだけが光の中で浮かび上がっていた。


 ネームプレートには “ユメ・アスタルト” とある。

(ユメ……?こんな人、いたっけ)


 図書館には昔から時々来ていたが、記憶のどこにも彼女の姿はなかった。なのに、初めて見るはずのその笑顔は、不思議なほど心に自然に溶け込んでくる。


「こんにちは」


 僕も軽く会釈を返した。声がどこかぎこちなく聞こえたのは、きっと彼女の雰囲気に圧倒されたせいだ。


 書棚のほうへ歩き出すと、ひっそりとした空気の中で本の匂いが懐かしく満ちていた。紙の乾いた匂い、インクの残り香、誰かがそっとページをめくる音。それらが混ざり合う図書館の空間は、日常の喧騒から切り離された小さな避難所のようだった。


 ふと、視線を引く一冊の本があった。

 古びた背表紙の哲学書で、長い時間を経た紙の匂いがかすかに漂っている。なんとなく、その本に触れるべきだと直感が告げた。

 ページをめくると、ある問いが視界に飛び込んできた。


 ——こどもたちの未来をいかにして守るべきか?


 その一文が、僕の思考を深いところでとらえた。

 法律の世界で長く働いてきたものの、最近、こうした根源的な問いに心が動くようになっていた。制度の隙間に落ちこぼれ、声を上げられないまま泣いているこどもたちを、僕はこれまで何度も見てきた。


 何が彼らを守るのか。

 法なのか、人なのか。

 それとも——。


 答えの見えない問いを抱えたまま、本をしっかりと手に取った。


 カウンターへ戻ると、ユメが穏やかにこちらを見つめた。

 深い海の底のような静けさが彼女の瞳には宿っていて、一瞬だけ、言葉が出なかった。


「この本を借りたいのですが」


「図書カードはお持ちですか?」


 声は先ほどと同じく柔らかく、澄み切っていた。心がすっと整えられるような響きだった。


「今日はカードを持ってなくて」


「では、こちらにご記入ください」


 差し出された用紙に住所と名前を書き込む。

 彼女の細い指がその紙を受け取り、丁寧に扱う所作には不思議な品があった。


「ケント・スカイウォーカーさん……ですね」


 僕の名前を小さく読み上げるその声は、不思議と耳に残った。ほんの短い時間なのに、どこか遠い昔から知っているような錯覚さえ覚える。


 ユメは奥へ消え、しばらくして本を抱えて戻ってきた。


「貸出期間は2週間になります」


「ありがとう」


 本を受け取ると、彼女は優しく微笑んだ。その微笑みは、まるで春の日差しがそのまま形になったかのように温かく、心の重さをそっと溶かしていく。


 図書館を出る前に、もう一度振り返る。

 ユメは別の利用者に何かを案内しながら、変わらぬ穏やかさでそこにいた。


 暖かな陽光が差し込むカウンター。

 その光の中で立つ彼女は、まるで違う時間に属しているかのように、現実の輪郭からわずかに浮き上がって見えた。


(本当に……こんな人、いたっけ)


 胸の奥に小さなざわめきが残るのを感じながら、僕は図書館をあとにした。

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