教科書が魔境だとは知りませんでした。
淡野こはく
第1話 冬馬との再会
「おばさーん。恵子おばさーん。穂花ですー。今、着きましたー!」
穂花はJR大分駅から九大本線に乗り、12駅先の由布院で降りた。
そこからバスを乗り継ぎ、ようやく小さなペンションにたどり着いた。
このペンションの名前は「刻々館」という。
おしゃれとは程遠い名前だと穂花は思ったが、もともとは民宿だったのだから、それも悪くないのかもしれない。
「刻々館」は大手旅行雑誌に載るような華やかな宿ではなく、
こぢんまりとした、ほんのりおしゃれな小さな民宿、そんな感じだった。
「はーい、はーい」と、奥からスリッパの音を立てて現れたのは、少しふくよかな中年の女性。穂花の母の姉、恵子おばさんだった。
恵子は穂花を見ると、細い目をさらに細めてにこにこ笑いながら言った。
「よう来ちくれたなぁ〜。
穂花ちゃん、えらい大きゅうなっちょんやん。
もう、立派なレディっちやな〜。」
穂花は大分市内の高校に通う二年生。夏休みの二週間、恵子おばさんに頼まれて泊まり込みでペンションの手伝いをしている。
来年は受験生だが、本気の受験生にとって二年の夏は“勝負の始まり”とされ、遊んでいる暇はないはずだ。
だが、推薦で入れる短大を目指す穂花は、どこかのんびりした夏を過ごしていた。自分にそう言い聞かせながら。
本音を言えば、青春の真っただ中に机にかじりつく生活は、どうにも性に合わなかったのだ。
それに、二週間の泊まり込みバイトの給料も魅力的だった。欲しい物は特にないけれど、友達と遊ぶお金や、おしゃれに使うお金も意外と必要になる。
だから、最初はちょっと迷ったものの、すぐに引き受けたのだった。
知らない人の家に泊まるわけじゃないし、小さい頃に何度か遊びに来たことのある、勝手知ったる場所だから安心できた。
「すまんけどなぁ、とうちゃんが腰ば痛めてしもうてな。穂花ちゃんの手ば借りたかったっちゃ。」
おじさんの茂治は今年50歳。健康だけが自慢だったのに、先週の畑仕事でひどく腰を痛めたらしい。
「茂治おじさん、具合はどうなんですか?」穂花は母から預かったお見舞いのお菓子を差し出しながら尋ねた。
「ちったあ ようなったごたるばってん、まだまだ いとぉみたいやわ。まぁ、歳やけんねぇ。」
恵子はため息交じりに答えた。
「早く良くなるといいですねぇ。」
「ほんとやねぇ。はよ ようなったら ええんやけどねぇ。」
そう言いながら、恵子は穂花を奥の座敷へ案内した。
一番奥の部屋には、小さな文机が二つ並び、質素な空間が広がっている。
「ここ、ちょっと狭っけど、穂花ちゃん使ってな。うちと穂花ちゃんのお母さんが学生ん時に使いよった部屋やけん、まぁそこは勘弁してな〜。」
穂花は軽く会釈して、「大丈夫です。お借りします。」と答えた。
「荷物ば置いたら、ちょっとひと息ついてから、台所のとなりん部屋に来ちょくれな。麦茶、冷やしちょくけん、飲んでみらん?それから、これからのこと、ちょっと話そ思うちょんよ。」
「ありがとうございます。着替えたら、行きます。」穂花はぺこりとお辞儀をした。
「ほんなら、ゆっくりしちょってから、来んね。」恵子はそう言い残して、廊下の奥へ歩いて行った。
穂花はその場にどさっと座り込み、縁側に揺れるひまわりをぼんやり眺めていた。
「おねーちゃん!」
真っ黒に日焼けした男の子が突然縁側に姿を現した。いとこの冬馬だ。
「わぁ!びっくりしたぁ!もう。」
穂花は大げさに驚いたふりをした。実際はもっと驚いたが、いたずら好きの冬馬に本気で驚くところを見せるのはシャクだったのだ。
「冬馬くん、今何年生だっけ?」
「5年だよ!」と胸を張る。
「相変わらず、真っ黒ね!」
穂花が笑うと、冬馬は「えへへ」と照れたように笑い返した。
けれどその直後、ふいに表情を引き締め、穂花の顔をぐっと覗き込んだ。
「お姉ちゃんに、後で見せたいもんがあるんだ。」
そのまっすぐな瞳に、穂花はどきりとして、思わず視線を外す。
――なんだろう、この子、こんな顔するんだ。
そのとき、台所から恵子おばさんの声が響いた。
「穂花ちゃーん!」
「はーい、今行きまーす!」
そう返事をしながら、穂花はもう一度、冬馬の顔を振り返った。
「行こ、冬馬くん。」
「うん!」
冬馬は元気よくうなずいた。背後には、真夏のまぶしい光がゆっくりと傾き始め、ひぐらしの鳴き声が静かに響いていた。
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