第4話 Saturday Night Alright for Fighting
困惑を隠せないピーターが、それでもチャイムを押す。ぱたぱた、忙しない足音がやってきて、ドアを開けた。
「ハイ、ピーター! 素敵なジャケットね!」
「ありがとうシアさん」
「ハイ、ジョン! なんだか眼鏡がピカピカ!」
「気合い入れて磨いてきたからね~」
土曜日の朝、ティモシーから招待を受けた二人は、一人はウキウキ、一人は困惑しながら、それでもやってきた。ピーターはいまだに、なぜ両親から許可が出たのかがわからない。勉強会と嘘をつきはしたが、それでもかなり渋られると思っていたのだ。答えは想像以上に素っ気なく、「終電までには帰宅しなさい」なのであった。
「二人とも、ようこそ! 迷わなかった?」
「俺、逆方向音痴。大体どこに行っても迷わないんだぜ」
「あら、便利なのね」
スタンフォード家の室内はすっかりホームパーティの様相だった。『ブリティッシュ・ベイクオフ』と冗談めかして言っていたが、腕前は確からしい。その、最後のケーキをオーブンから出したそのままの姿で、ティモシーが玄関先までやってきた。
「やあ、よく来てくれたね。ささ、早く上がって! もう少しで準備終わるから」
頬についた小麦粉を払う余裕すらないらしい。ジョンが「あっちは逆チムニーだ」と笑った。相変わらず、ピーターには通じない。以前であれば特に気にする素振りを見せなかったピーターだが、今日は少し気まずそうに俯いている。
「うわあ、マジ? ティンクは家事完璧男?」
「ママ、家事が大の苦手だったわ。でもパパは逆、大得意なの。それどころか大好きだって言うのよ。でも、家事が大好きなんて、珍しいことだって、あたしわかってるわ」
「ただ綺麗好きが高じただけだよ。料理も、一人暮らししてたら、こんなもんでしょ」
「いや~少なくとも俺ん家のオーブンがケーキを焼いたことはないね。トーストだけだよ」
「そっか。まあ、働きたいか働きたくないかはオーブンそれぞれだから大丈夫だよ」
事務所での歓迎会(らしきもの)も、デリバリーでテーブルが埋まっていたものだが、家庭料理で埋め尽くされたテーブルは、また別の喜びを与えてくれる。絵本の中のパーティにも思える、もはや現実離れした環境は、ますますピーターを混乱させてしまった。
「来てくれてありがとう。特にピーターには無理言っちゃったよね。親御さん、大丈夫だった?」
「ええ……はい。ぼくも、驚いています。安心なのか、油断なのか……それとも、ぼくにはもう興味もないのかと、そう思うような態度でした」
「そっか……あまり余所のおうちの事情に口を出すのは良くないから特にコメントはしないでおく。今日をめいっぱい楽しんでくれれば、それでいいから」
ティモシーは優しく微笑むだけだった。その態度も、ピーターには新鮮だ。クラスメイトや教師たちは皆、ピーターの家庭環境に対して興味を示す。「出来の良い子が暮らす壮絶な環境」というものを、聞き出したくてたまらないのだ。ピーター本人からすれば、鬱陶しくてたまらないのだが。
「あの、具体的には、何を?」
「具体的なことなんて何もないよ。ただ食事して、映画観たりテレビ見たり、おしゃべりしたり。それだけ」
「どれも、ぼくには初めてのことです。不慣れな点も多いと思いますが、よろしくお願いします」
「うん、そんなに構えることないからね、大丈夫だから」
ジャケットを脱ぐことすら忘れてカチコチになっているピーターを宥め、ジョンとシアに目配せ。しかし、シアが首を横に振った。
「いいこと? ピーターのバディはパパなのよ。じゃあ、ピーターが困ってるのを助けるのは、だあれ?」
「パパです……」
「わかればよろしい。ジョン、洗面台はこっちよ」
ジョンはなんだかずっとニヘニヘ笑っているだけになって、リビングにはカチコチのピーターと、もらいカチコチになりかけているティモシーが残された。
「ティンク、ぼくは……正直、自分がおかしな子だとは、思っていないんです。テレビやネットに厳しい親なんていくらでもいるし、勉強を強制されたことはありません。ぼくの意思で勉強しています。丁寧な言葉遣いも、確かにそう話すのが美しいと指導されたことはありますが、こうして話す方がぼくには楽なんです。コミックや映画に触れてこなくても生きてはいけますし……ぼくは、それでも、おかしいんでしょうか」
ふっと、零れたような言葉だった。ティモシーは付けたままだったミトンを外して「大丈夫」と言葉を始めた。
「きみ自身におかしなことなんて何もないし、おうちのことも、詳しく知らないしこれからも教えてくれなくて構わないから。今日のは、うーん、そうだな。きっかけ」
「きっかけ?」
「そう。単なるきっかけに過ぎない。きっと、いまのピーターの中にも、楽しい記憶はあるはず。いまはそれを思い出す取っ掛かりが見つかってないだけなんだよ。だから、今日心の底から楽しい気持ちになって、それに似たものを思い出せれば、ピーターも飛べる。魔法が使えるよ」
「……そう……願います」
ピーターはようやく、ジャケットを脱ぎ忘れていたことに気付き、ゆっくりと、詰まっていた息を吐いた。
「わあ、とてもロンドンで売ってる食材から作られたとは思えない上品で丁寧な味だね!? すごいねーティンクは。そういや『ソーイング・ビー』もって言ってたけどさ、それは何かで見せてもらえる感じ?」
焼き目がまるで食品サンプルのように美しいミートパイをつつきながら、ジョンが首を傾げた。ティモシーが答えるよりさきに、シアがフフンと笑って席を立つ。そして、広いところでくるりと一回転してみせる。ワンピースの裾がふわりと広がり、均一に縫い付けられたレースが正円を描く。
「わーお。まさか?」
「そのまさか。このワンピースはパパが作ってくれたのよ!」
「もうコードネームティンクじゃなくてBBCのがいいんじゃない?」
「ええー局の名前はちょっとなあ……」
シアはほとんど天上を見上げるくらいに胸を張っている。
「そこらへんで売ってるのなんか比べ物にもならないわ。ご近所のママたちにも大人気なんだから!」
「ああそれはね、本当。メイドバイティモシーの服を着てる子はこのへんじゃ結構メジャーだよ。ここだけの話、BBCから出演オファーも来たことあるしね」
「スゲー。今度俺のパンツの裾直してくれない? もちろんちゃんとお支払いはするんで」
「あはは、いいよ」
ピーターは会話には混ざらないが、三人は誰もそれを咎めないし、責めることもないし、促すことさえしない。ただ自然にそこにいるピーターのことを受容している。ピーターは初めて、家族以外との食事に安堵を抱いていた。否、家族との食事も、実はいつも薄い緊張感があると、ここで初めて気が付く。慣れない空気感の中ではあるが、なぜかこちらの方が緊張はしなかった。
「ピーター、そっちのピザ取って!」
「え? あ、ああ……はい、どうぞ」
「ありがと!」
このくらいの自然さで、ピーターはそこにいる。
これは……楽しい、の手前にあるものかもしれない。ぼくはいま、安心、して、いる……?
自己分析でそぞろになった気のまま、目の前のオードブルに食器を伸ばす。
「!? 美味しい……!」
「結構シンプルだよ。チーズとチリソースがけポテト、気に入った?」
「チリソース……ああ、だから少し辛いんですね」
なんとなく、という程度だが、ティモシーにはピーターの暮らす環境が見えてきていた。いわゆるジャンクフードは、徹底的に排除されてきたのかもしれない、と疑う。
「ピーティ、ランチはいつも同じとこのサンドイッチしか食ってないもんな。どうよ初めてのお味は」
「えーっ!? いっつも同じで飽きちゃわない?」
「あまり。同じものの方が、選ぶということに対するストレスがないので」
「そのぶん他の考え事ができるってことね。あたし知ってるわ、それってコーリツテキなのね!」
「シアちゃんほんとに七歳? この世のすべて知ってるじゃん」
同じ話をクラスメイトにしたときは、「意味わかんねえ」と言われておしまいだった。ピーターには次々、疑問が浮かぶようになってきた。
ぼくは自分で気づいていないだけで、誰かに見てほしかったのかもしれない。受容してほしかったんだ。ひととひととは違うという言葉を鵜呑みにしすぎている……いや、曲解している。
「こんな感じなんだ……」
ぽつり、呟く。未知に近い、受容の感覚が、襲い掛かってくるようですらある。
「チリソースが好みだったならこれは? マスタードソース塗ったんだ、このサンドイッチ」
「あたしにはまだちょっとスパイシーなのよね」
「美味しいです。ぼくは辛いものが好きだったんですね」
「いい気付きじゃん。大人になってからだと味の好みって面では出会い減るからな~」
「ああ~わかるわかる。冒険しなくなるよね」
お決まりの味とはまったく違う味がする。それを、ピーターは、自分がこれをいたく気に入ったと確信している。
「美味しい……」
無意識から、言葉が出てくる。
食事が終わると、シアは早速テレビをつけた。慣れた手つきで器用にタブレットを操作し、サブスクをテレビに接続する。DVDの用意も欠かさない。今日のために、ピーターのために、厳選した映画だ。
「あたしたち、これを観なくちゃ始まらないわ」
「『落下の王国』はまた今度ね」
DVDのパッケージをピーターに手渡す。時計塔と、自信に満ちた表情の少年。小さな妖精。空を飛ぶ子供たち。真っ赤な装いの海賊も描かれている。
「ピーターパン……」
「あなたのことよ」
「はい。楽しみです」
もうソファに構えてポップコーンを抱えているジョンがひときわ楽し気な声を上げた。
「すっげえ久々に観るよ! いつ観てもなんか面白いんだよなー」
「時代錯誤なシーンがどうとか、話題になったこともあったね。その中から拾っていけばいいだけだと思うんだけどね、俺は」
少なくとも、ピーターのこれまでの記憶には、これらのアニメーションを見かけた記憶はない。家の中は常に静かで、音楽は父が書斎で流す数種類のクラシック音楽くらいで、イギリスらしい、誰もが口ずさめるようなロックですら存在しなかった。テレビは情報を得るためだけにあり、時折、この現代でラジオにすら出番を奪われていたくらいだ。映画館も知らないし、図書館で新規の文芸エリアに立ち寄ることはあまり良い顔をされない。両親は古典のみをピーターに許すが、それも、オペラやシェイクスピアのみで、とにかく新しいものを拒む。彼らの中ではピーターパンの物語は「新しいもの」なのだ。古式ゆかしい建築様式の家は、その中にある家財道具の一式に至るまで、すべてがレトロだ。
そんな自分の環境が、ピーターをつい、不安にさせる。
「ぼくは、これを観ても、良いんでしょうか。ぼくには許されていないものなんじゃないでしょうか」
真っ先に反論、というより、怒り出したのはシアだった。
「だめなはず、ないじゃない! この世に、誰かに見られるのを許さない物語なんて、一つもないのよ! 誰だってなんだって、許すとか許されないとかじゃないんだから!」
子供とは思えない剣幕で猛抗議してくるシアに、完全に面食らっているピーター。ティモシーは苦笑いしながら割り込んだ。まだ、食器用洗剤の泡が手についている。
「ああ……まあまあ、シア、怒ることないじゃない。シアが悲しいから怒っちゃうってのも、わかってるけどね。でもピーターは本当に初めてのことばっかりなんだ。不安になっちゃって、だから、確認したいんだよ。な? ピーター」
「そうよ、あたし悲しいの! ピーターはあたしよりお兄さんなのに、あたしよりたくさん物知りなのに、楽しいことはなんにも知らないんだもの! それがすごく悲しいの……」
ピーターは驚いたまま、口を利けない。呆然としてしまっている。
「ピーター……?」
顔色をうかがうように覗き込んでくるティモシーに、ようやく我に返る。いつもすらすらと、よどみなくはっきり話すピーターだが、いまは、一つ一つ、言葉を選ぶように話し出す。
「すみません。あの……驚いて、しまって。シアさんは、誰かのために、怒ることができるんですね。ぼくのために、ありがとうございます。あまり……気分の良い、感情ではないと……思うので」
「ピーターは悲しくないの?」
「はい。いまは、自分のことをよくわかっていないだけかもしれません。だから、悲しいとは思っていないんです。でも、シアさんがぼくよりも悲しんでしまったのが、心苦しいです。どうしたら、シアさんがまた楽しい気持ちになれるでしょうか。ぼくに何ができますか?」
一連のやり取りを、ジョンはどこか遠くを見る目で見ていた。あんなに顔の筋肉がカチコチで、シリコンの仮面を接着してあるかのようなピーターの表情が、スタンフォード家へ来た途端に柔らかく動き出したのだ。
鉄のピーター筋が、あんまり優しさ温度が高いモンだから、溶けちゃった。
残念な気持ちがうっすらよぎるが、すぐに「いや、違うな」と思い直す。確かに、もうあの恐怖さえ抱かせる表情は、今後は見る頻度を減らすだろう。しかしそれは、まだ知らないピーターの一面を見る可能性を増やしたことになる。
いやはや、すごいね。やっぱりピーターパンにはティンカーベルと、賢い長女がいなくっちゃね。あ、もちろん、ジョンもいるよ。
「簡単よ。あたしたちといっしょに、映画を観るだけ。たったそれだけよ」
「わかりました。隣に座ってもいいですか?」
「ええもちろん。いっしょに観るんだもの、隣にいてね」
ふかふかのクッションを腰に挟んで、ポップコーンとコーラを片手に、待ちに待った鑑賞会が始まった。
「ピーター……大丈夫?」
「……」
映画は滞りなく流れ、終わり、全員の視線はそれとなくピーターに向く。当のピーターは、難しい顔で考え込んでしまっている。
「これ、難しいところ、あったかな……?」
「はい。たくさんあります。魔法の参考にしようと思ったのですが、クリスマスに玩具をもらったことはありませんし、雪が降ったからといってそりで遊んだりもしたことがありません。しかしそれは、たいそう楽しいことのようだと思える口ぶりでした。どうしたら……これを理解できるんでしょうか。この歳で親にクリスマスプレゼントを強請る?」
「それはそれで面白そうだねー。俺は見たいよ、そのあとの責任はなーんも取らないけど」
「右から二番目の星って、ジョークですよね? それとも本当にあるんでしょうか。具体的にはどの星? 見える星は、時間帯によって、異なりますよね。ビッグ・ベンから見える星……方角的には……」
「な、なるほど。ピーターの考え方で観ると、そういう見方になるんだ。新鮮かも」
地図アプリを開いたり、星図を調べたり、ピーターはすっかり調べものモードに入りつつある。隣でシアは興味深くそれに見入っている。
「ねえピーター、これは、お星さまの名前?」
「そうです。ビッグ・ベンの西側に、まずは夜九時に見える星を探してみています。季節は……」
「わ~シアちゃんがもっと賢いちゃんになっちゃう。他所の子よりかなりのステップアップだぜ父ちゃん」
「うん……」
茶々入れするジョンに対し、ティモシーの返事ははっきりしない。二人を見つめて、この上なく優しい笑みを浮かべている。
「思ったんだ。ピーターのイマジネーションって、こういう考え方なんじゃないかな」
「へえ。こういう論理思考もイマジネーションになる?」
「そうだよ。クリスマスプレゼントもそりも知らないけど、それをいまやってみたらどうなのかなって、想像でしょ。右から二番目の星はどこにあるんだろうって、子供ならみんな考えるけど、本当の空ならどれだろうって、それも想像してる。現実の情報で調べるんだとしても、その疑問にたどりついたのはイマジネーションの力だよ」
「そっか、確かに。んじゃあとは楽しいこと考えるだけだ!」
「夏なら……こと座のベガ……或いはわし座のアルタイル……」
ブツブツ呟きながら星図をいじっているピーターの横顔は、誰がどう見てもうっすらと微笑んでいる。
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