第1話 Let Me Live
「待って……!」
大量の寝汗で身体を冷やしながら、ティモシーは勢いよく起き上がった。荒い息を整えていくと、悪い夢がようやく醒めてゆく。妻のサラと死別して、もう四年は経つのに、毎日のようにこんな夢を見る。日に日に寝不足となり、体調も崩しがちだ。
「きみがよく眠る子で、俺は本当によかったよ」
盛大な寝相で気持ちよさそうに眠っている、一人娘のシアに、そっとタオルケットをかける。明らかに蹴りだした痕跡は見えたが、元気で、腹を壊さないのなら、ティモシーには、それでよかった。
カーテンの向うから、ほんのりと光が差している。夜明け前の時刻、寝付くにはどこか醒めてしまって、小さくため息を吐く。紅茶でも淹れて、気を安らげて朝を迎えるのが、いまのティモシーには最も気が向いた。
いい加減、立ち直らなきゃなあ。
そう、思うことは簡単だ。だが、そう簡単にいかないのが、人間的な感情というものでもある。それを押し殺して、四年暮らしてきた。
シアが登校したのを見届けると、ティモシーの一日が始まる。ロンドンにある職場へ向かい、目覚め始めた街の一部になる。シャッターを開けると、棚にたっぷり詰まった背表紙にも控えめな日光が当たる。
「おはよ~ティム。シアちゃん今日も元気?」
「おはよう。うん、お腹出して寝てたけど全然壊す気配なかった」
「相変わらず身体超強いよね」
「まあね。親からしたら安心だよ」
書店はいつでも平穏で、そして時折、思わぬ出会いを運んでくる。
夕方、にわかに客数が増えてきた時間帯。制服姿の学生たちも増えてきた。漫画や小説を買っていく彼らの中に、一人、「浮いている」と形容するのがもっとも正しいであろう少年がいた。青年にも見える顔立ちの彼は、何冊かの学術書を持ってレジカウンターにやってくる。ティモシーはにっこり微笑んで挨拶。少年の目はやたらに鋭く突き刺さるようだったが、娘との行事で様々な家庭の様々な姿の子供を見るティモシーにはわかる。この少年は、単に目つきが悪すぎるだけであると。
「ポイントカードお返しします」
「あの」
「はい?」
「魔法にご興味は、ございませんか」
「……ん?」
一瞬、自分が英語を理解できなくなったのかと思うほど、前後のつながりのない文章。ティモシーは思わず、目の前の学生に首をかしげる。それから、「あ、もしかして」と文脈の再構築を始めた。
ファンタジーの本が好きなのかな。探してるのかも。それか、自分でも書いてるとか? たまにいるからね、なぜか書店員に読ませたがるヤツ。
「ええと?」
「魔法にご興味は」
「う~ん……?」
聞き返して、詰む。同じ文言を繰り返した真顔の学生は、切れ長の目を、何かを切り裂くつもりかのように鋭く、ティモシーに向けていた。単なる顔立ちとわかってはいるが、わかっていても、何か悪い事をした気分にさせる、畏怖すら抱く目つきだ。
悩んだ末に、ティモシーは無難な答えを導き出す。
「えっと、そうですね。娘は、ずっと、フェアリーテールが大好きで。七歳になったばかりなんですけどね」
「あなたは? ご興味はおありですか」
「えっと……」
ひょっとして、少し、変わったひとだったかも。誰かをヘルプで呼ばなくちゃいけないかも。ティモシーがいよいよ危機感を抱いたとき、学生はスッと胸ポケットに手を入れた。英国紳士模範生の指には、一枚、小さく折りたたまれた紙が挟まれて出てきた。そしてまた、無駄のない動きでスッと、ティモシーに差し出す。
「ぼくは、ここにいます。今日は夜の七時まで。この後、お時間に余裕がおありでしたら、ご足労願いたいのです」
「あ、え、えと……」
「こちらは他言せぬよう。では、失礼します」
レジ処理の済んだ本を持ち、学生は去っていった。来たときと同じ、おそろしくなるほど洗練された動きで、誰もが振り向きそうな美しい姿勢で、メトロノームに合わせているようなズレのない歩幅で。
「……なん、だったの……」
おそるおそる紙を開くと、定規で書いた直線で示された略地図で、示されているのは書店からほど近いアパルトメントの一室だった。
「ええ……どうすれば……」
「ティム! なにボケッとしてんの、シアちゃんお迎え行きな!」
「え? あ!」
同僚の声で我に返る。普段なら定時ですぐに帰り支度を始めるところをなかなか来ないので、気を利かせてくれたようだ。
「さっきの学生さんと何か話してた? 絡まれたか、そうは見えないタイプだったけど……」
「あ、いや、大丈夫。大した話はしてないよ。ありがとう、それじゃ」
鞄を抱え、慌てて職場を後にする。学生のことが引っかからないわけではなかったのだが、当然、娘の方が、優先だ。
BGTのシーズンが始まったっていうのに、全然集中できない……。
ティモシーはぼんやりとテレビを眺めている。予選でも、BGTは見逃せない。むしろ、予選だからこそ見たい心理が働く。シアはまださっき出てきたばかりの歌手の卵に大興奮しているのに、ティモシーはずっと、心ここに在らず、としか言えない様子でいた。家事もすべて済んで、とっくにリラックスタイムなのに、何かが休まっていない気がするのだ。
「パパ? ねえ今日何かあったの?」
「え? あ、いや……」
「嫌なことがあったら、あたしに言うのよ。あたしがママの代わりに、パパをいじめるなって言うの」
心強い言葉である。ティモシーは優しくシアを抱きしめ、ふうと息を吐いた。
「ありがとうシア。本当に優しい子だ、ママそっくりだよ」
「そうでしょ? あたしはママみたいに、ジリツしたセキニンカンの強い立派な女性になるのよ」
「わあ、もうかなりお姉さんだよ。ママみたいな物言いするじゃない」
「パパはもっと強気になった方がいいわ。サイモンみたいに皮肉をたくさん言えばいいのよ。きっともっと強い男のひとに見えるわ」
「パパはサイモンやれないよ。角刈りもやらない。パパこの金髪だけは死守するんだ」
「そうね、ママのお気に入りだもの。あたしも大好きよ」
「パパもシアが大好きだよ」
「じゃあもーっと好きよ」
シアは予選の視聴に戻っていった。おしゃべりでおしゃまでおませな七歳の娘は、ティモシーには刺激たっぷりの毎日を与えてくれる存在だ。一方で、心配することもある。本来いるべき大人が欠けているせいで、おしゃまでおませなのを強要させてはいないかと、子供らしいのびのびとした感性を潰してしまってはいないかと、ティモシーの心配性を加速させることも多い。
しっかりしていることはとてもありがたいが、それはそれとして、子供らしさが少なく見えるのは、何か負担をかけてはいないだろうか。ティモシーがたびたび、同僚たちに漏らす弱音はすべてシアに関することだ。同僚たちはいつも「ティモシーはよくやっている」と褒め、背中を叩いてくれるが、元の心配性はそうそう消せるものではない。
「そうだ! ねえパパ、七歳の女の子が、ピーターパンを読むのは、おかしいこと?」
不意に振り向いたシアがそんなことを聞いてくるので、ティモシーは真っ先に「誰かに何か言われたのだろうか」と心配をする。が、心配なのが顔に出ないよう全力を尽くし、
「そんなことないよ。むしろ早いくらいかも。パパの職場には何冊もあるけど、大体『小学校中学年から』って書かれてる」
「じゃあ、今度、学校の図書館で借りてくる! パパ知ってる? 日本のディズニーにはピーターパンのアトラクションがたっくさんあるのよ! ほら、見て! フック船長の船もあるのよ!」
シアがキッズフォンの画面を見せてくる。色とりどりの写真が次々切り替わり、宣材写真とわかっていても興味をそそられるものばかりだ。
「すごいね。本物だ」
「でしょ? いつか行ってみたいけど、身長制限があって乗れないのもあるの。せっかく行くなら、ぜ~んぶ楽しみたいでしょ? だからいまは事前学習にあてるの」
「もっと気楽に行ってみてもいいんじゃない? 映画は観たんだし」
「それじゃだめよ! 本が読めるようになったら、ジリツも早くできるわ。なんでも、お勉強なのよ」
「シアはすごいなあ……パパそんなふうに考えたことなかったよ……」
そうは言ったものの、かつては自分も、ヴェルヌを読んでからパリディズニーに行ったっけ、と、思い出す。父娘が言わずとも似ていることに喜びを覚えた。
「あたしね、魔法使いもプリンセスにももちろん憧れるけど、彼女たちを知識で支えてるひとたちの方がかっこいいと思うわ。だって、コツコツ努力してないと、そうはなれないでしょ? でもコツコツ努力すれば、絶対になれるの。だったらあたし、そっちを目指したいわ。パパは? いまからでもなれるとしたら、魔法使いと学者、どっちがいい?」
子供らしい無邪気な問いのようで、非常に難問だ。それに悩むのと同時に、七歳にしてここまで考えている自分の娘に対しての驚きも隠せない。
「そうだなあ……どっちか一つ?」
「どっちもは強すぎると思うわ」
「そりゃそうだ。う~ん、すごく悩むけど……魔法使い、かな。だって、空を飛べるだろ? そうしたらいつでもすぐにシアのところに駆けつけられるよ。お迎えも空の旅。どう?」
シアは年頃らしく目を輝かせて、「素敵!」とはしゃいだ。
「お迎えが空の旅だなんて、すっごく素敵! じゃあ大きな箒を買わなくちゃね。二人で乗るんだもの」
「ピーターパンみたく自由に飛んでみるのもいいかもね。魔法使いならそれくらい簡単だよ、きっと」
親子の夜は楽しく更けてゆく。ティモシーは眠りに就くとき、いつも、「シアのおかげで毎日楽しい」と振り返る。一日を振り返った結果、毎日その答えになってしまうのだ。
それだけ、ティモシーにとって、シアはすべてだった。
本棚の整理中に声をかけられることは日常的なことだ。下から「あの」と声をかけられ、ティモシーははるか下を見た。眼鏡の小柄な男性が、人当たりの良い笑顔で手を振っている。降りてからすぐ、用件を言われた。
「あっちの高いところの本を取りたくて。その台、借りられます?」
「私が行きますよ。どちらです?」
「助かります。あの棚でして」
男性の示した棚まで、台を運ぶ。運ぶうちに、「あれ、ここには他に備え付けの台があったはず」と気付く。
「昨日は、うちのエージェントがすみませんでした。不愛想な上に壊滅的に人付き合いが苦手でね。不審者でしかなかったでしょ」
バッと振り向く。男性はにこやかな表情なのだが、ライトのせいで逆光になっており、結果として怪しさ満点の立ち姿になってしまっている。「不審者はあんたもだよ」とは、ティモシーの性格的に言えなかったが、それは、男が、昨日の学生とは違った部類の威圧感を醸し出しているからであった。
黙ってしまったティモシーに、男はゆっくりと距離を詰めてくる。ラフなシャツにデニム姿なのに、ジャケットの合わせと仕込んだホルスターを想像させる怪しさだ。だが男はデニムの尻ポケットから何か紙切れを出してきて、ティモシーに差し出しただけだった。
「……名刺?」
「はい。昨日は地図だけ渡してきたっていうんで。いやまずは何者か名乗れよって話だろって。俺ら、こういう者です」
「……?」
泣きたい気持ちを抑え、おそるおそる、名刺に手を伸ばす。
「魔法復興財団……? ケンジントン支部……? 営業……? なに……?」
「営業くらいはわかる言葉だったと思うけどなあ!? まあ、はい。そういう組織の支部の、営業マンです、俺。昨日の彼はエージェントといいまして、俺とはまた別の職種になりまして。あのー、まあ、昨日のは、スカウトのつもりだったみたいです。彼なりに」
「は……?」
「弁明というか、釈明というか……謝罪も兼ねて改めてご説明差し上げたいんで、昨日の地図のところにお越しいただけませんかね? いつでもいいです!」
混乱極まるところのティモシー。一つ、彼の中に揺らがないものがあった。
「子供のお迎えに行かなくちゃならないんです、無理です、一生」
「あ、お子さんいっしょでいいですよ。なんならお夕飯とかご一緒にどうです?」
逃げ場を消され、ティモシーは頷くしかなくなってしまった。そうでなくとも、もう壁際まで追いつめてきている男の言うことをこれ以上不意にし続けて自分がどうなるのか、恐怖心に支配されつつあった。
「俺はジョンです。よろしくね!」
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