第28話「アルフと呼ばれた日」

 汗が出る前から、呼吸が浅い。──今日は、何かが違う。


 朝の空気は、どこか張り詰めていた。


 グラウエル駐屯騎士団の訓練場に、ざらりとした沈黙が流れている。

 今日もまた、ザイラン師範の修行が始まる。ただそれだけのはずなのに、どこか様子がおかしい──そんな違和感を、アルフ・ブライトンはぼんやりと感じていた。


 とはいえ、彼の手元にはいつものようにぬるい粉ミルク入りの鉄カップ。

 味も匂いも、もはや記憶の外に押しやられていた。今では、顔をしかめることすらない。口に流し込み、ひと息で飲み干すと、空のカップを静かに差し出す。

 もう味など覚えていない。むしろ、“この苦さ”がないと始まらない気さえする。


「慣れたな」


 ぼそりと、団員のひとりが呟いた。声に嘲笑はなく、むしろ感心に近い響き。


 別の団員が肩を回しながら、ふと言った。


「明日から俺たち任務で出るからな。お前とやるのは今日が最後だ」


 言われて、アルフは初めて気づいた。

 そういえば、そうだ。昨日も、一昨日も、ただ無我夢中で目の前の課題に喰らいついてきた。

 “いつまで続くのか”すら考えずに、ひたすら汗を流してきた。


 けれど──言われてみれば、今日はどこか違う。


 石畳を打つ足音が、やけに響く。

 周囲の団員たちは皆、動きが静かで、無駄口も少ない。

 少し離れた区画で、先輩騎士の叱咤が響いた。


「おい、気合い入れろ! 今日が締めだ、ぼさっとすんな!」

「出立前の朝だぞ、ダラダラ動くな、舐められんぞ!」


 誰かが息を飲む音さえ聞こえそうな空気の中、遠くで背の曲がった影が動いた。

 ザイランの姿を見た瞬間、騎士たちの姿勢が一斉に正される。


 そんな空気の中、ザイランがいつものように現れた。


 肩幅が広く、ぶっきらぼうな立ち姿。杖をつきながら、のそりと歩いてくるその姿に、誰もが自然と背筋を伸ばす。


「……今日も、昨日の続きだ。坂道、壁、荷運び、全部じゃ。嫌なら帰れ」


 無感情で、それでいてどこか楽しんでいるような口調だった。だが、言葉の間合いが、なぜかいつもよりわずかにゆっくりだった。


 アルフは、ひとつだけ、小さく息を吐いた。


(そうか。終わり……か)


 言葉に出すことはなかった。ただ、身体の芯が少しだけ熱くなるのを感じながら、彼は静かに列に並んだ。


 踏み出すたび、足の裏に鈍い痛みが残っている。けれど、それが“進んできた証”のように感じられた。──この痛みすら、少し誇らしかった。


* * *


 訓練場の端に立ち並ぶ壁。粗削りな木材を組んだそれは、決して美しい造作ではなかったが、踏み台も支えもなく、それを乗り越えるだけで心が折れる者は少なくない。


 朝日が射し込む中、最初にそれに向かって走り出したのはアルフだった。


 腕に残る鈍い張り。足裏の痛み。疲労は確かに積み重なっている。

 それでも身体は、迷わず動いた。


 踏み切る位置に迷いがない。

 腕の振りに無駄がない。

 そして、着地の重心が崩れない。


 ザイランの訓練に通い始めた初日、アルフは壁の前で二度跳ね返された。その度に手が痛み、足を擦りむき、背中から転がり落ちた。だが今は──違う。


 後続の団員が「おお……」と短く息を呑んだ声が、微かに聞こえた。


 アルフ本人には、その変化を“自覚する余裕”はない。ただ目の前の工程を、ひとつひとつ確実に、淡々と進めていく。


 坂道の逆走、足場の悪い踏破走、重い荷物の連携運搬──これまでの課題が次々と組み合わされる中、彼の動きは一切乱れなかった。


 小柄な団員が袋を落としかけた瞬間、アルフが無言で近づき、片端をさっと支える。何の躊躇もない。指示を受けたわけでもない。


「……さすがに慣れたもんだな」


 そうつぶやいたのは、隊列の中でも比較的若い団員だった。


「誰か補佐──」

 そう言いかけた別の団員が、視線の先でアルフがすでに動いているのを見て、口をつぐんだ。

「……あ、もうやってるのか」


 それは称賛ではなかった。ただの“事実”だった。


 以前は「外から来た見習い」という立場だった少年が、今ではごく自然に“いる”存在として、訓練の輪の中に溶け込んでいる。


 誰かがささやく。「……よそ者って感じじゃねえな」


 それを聞いた別の団員が、苦笑混じりにぼやいた。

「まったくだ。俺ぁ冒険者ってのは、口ばっかで派手なだけの連中だと思ってたが……」

「この坊主みたいな奴なら、何日か一緒に働いても文句ねえな」

「うちに一人常駐してくれるってんなら、歓迎するぜ。……あいつみたいな冒険者ならな」

「言うなよ? ザイランさんに聞かれたら“気が緩んだ”って三倍しごかれるぞ」


 そんな会話が、作業の合間にぽつぽつと漏れ出す。


 中のひとりがぽつりと、つぶやくように言った。

「……あいつは“冒険者”じゃねえ。“アルフ”だ」

 誰もそれに反論しなかった。


 アルフはそれに気づかない。ただ、遠くで何か話している声が聞こえた気がしたが、耳を貸す余裕はなかった。

 今はただ、課題をひとつ、またひとつとこなしていく。


 荷運びの最後、リレーのように袋を引き渡していく動作の中で、誰かがふと声を上げた。


「おい、この荷、誰が先に動かしてたんだ? ……あ、アルフか」


 自然すぎて、誰もすぐには気づかなかった。

 無言で先回りし、補佐に入り、次に必要な動きを察していたのが彼だったというだけのこと。


 ザイランはその様子を、少し離れた日陰で腕を組みながら見ていた。

 表情は相変わらず読めない。


 けれど、ふと彼の視線が動いた。その先には、動き終えたアルフが立っていた。


 まだ息は乱れている。汗もにじんでいる。

 だがその立ち姿は、以前のような“消耗しきった者”のものではなかった。


 背筋が伸びていた。


 ほんの少しだけ、背が高くなったように見えた。

 姿勢が変わっただけかもしれない。だが──そう思わせるほどの何かが、確かにあった。


* * *


 訓練の全行程を終えた瞬間、アルフはその場に崩れこみそうになった。

 膝に手をつき、息を整えながら、静かに汗が垂れるのを感じる。


 周囲の団員たちも、一様に重たい息を吐いていた。

 しかし誰も、彼のことを“よそ者”として見る者はいない。むしろ、その視線の中には、どこか同じ苦しみを乗り越えた仲間への眼差しがあった。


 そこへ、杖の音を響かせながらザイランが近づいてくる。


「──終わったか」


 淡々とした一言。だが、これまで何度となく聞いてきた“始まり”の声とは、どこか響きが違う。


 アルフは顔を上げた。ザイランの表情はいつも通り、厳めしく、読みづらい。

 けれどその視線は、明らかに“見ていた”目だった。


「まぁ……これなら、殺さずに済むわい」


 ぽつりと漏らすように、それだけを言う。

 笑う者、うなずく者、肩をすくめる者──騎士たちの間に、柔らかな波が走った。


 アルフは何も言えなかった。ただ、身体の内側に、何かが染み込んでいくような感覚だけが残った。


 ザイランはそれ以上何も言わず、背を向けて去ろうとする。

 しかし、二歩ほど歩いたところで、ふと立ち止まり、振り返ることなくこう言った。


「初日、“三日保てば上等”と思っておったが……今はそう思わん」


 それだけだった。

 けれど、それで十分だった。


 誰よりも厳しい男が、誰よりも重たい言葉を、ただの独り言のように残した。

 その背中を見送りながら、アルフは思う──この数日間のすべてが、無駄ではなかったのだと。


 疲労に震える膝で立ち上がる。

 何も言われなかった。次の指示も、訓練の続きもなかった。


 だが、だからこそ分かる。


(これからは、自分で考えて進め──って、ことなんだろうな)


 ザイランは遠く、静かに歩き去っていく。

 その背中はいつも通りだ。

 けれど今日だけは、なぜかほんの少し、遠くに見えた。


* * *


 昼下がり、アルフはギルドの扉をくぐった。


 訓練場を離れて初めて、足の重さと倦怠感を実感する。ギルドの空気はいつもより明るく、騎士団の静けさとは対照的だった。


 カウンターの奥で事務処理をしていたミーナが顔を上げると、すぐに眉をひそめた。


「まあ、ひどく疲れた顔ですよ。アルフさん、訓練帰りですか?」


 アルフは苦笑し、軽く頷いた。


「顔にも泥がついていますよ……これはもう、お水と手拭いが必要ですね。少々お待ちください。すぐにお持ちしますから」


 奥に下がるミーナの声を背に、アルフはカウンター脇の長椅子に腰を下ろす。

 そこで、すぐ隣の席から声がかかった。


「……アルフ? あ、やっぱり! 探してたんだ」


 顔を向けると、そこにはリオンがいた。

 冒険者としてはまだ新米の少年──けれど、幾度かの共闘を経て、彼にとっては馴染みのある仲間でもある。


「明日、依頼に出る予定なんだけどね……ちょっと一人じゃ不安で」


 リオンは気まずそうに笑いながら、掲示板のほうをちらりと見やった。


「二人以上で受けられる依頼があってさ。ちょうど、アルフが来たら声かけようと思ってたんだ」


 アルフは一瞬だけ目を細めたが、すぐに自然に頷いた。


「……いいよ。行こう」


 言葉に重さはなかったが、その声には静かな芯があった。


 そのとき、ちょうどミーナが水を運んできた。

「ふふ……ちょうどお会いできて何よりでしたね、リオンさん。アルフさん、いつも絶妙なときにいらっしゃるのですね」


 リオンは照れたように笑い、アルフはミーナから差し出された手拭いを受け取った。


 顔を拭って、息をついた。


(終わった? いや、違う。

 ようやく──ここから、かもしれない)


 ふと掲示板に目をやる。

 その視線は、どこか晴れやかだった。



【第28話 成長記録】

筋力:11(熟練度:33 → 40)(+7)

 → 壁登り・坂道逆走・荷運びの繰り返しなど実地訓練を通して、局所負荷ではなく全体的な身体使用バランスが定着し、安定的な筋力が向上

敏捷:11(熟練度:20 → 25)(+5)

 → 補佐行動の迅速化、動作の無駄のなさ、着地や踏み出しの正確性が増し、反応の精度が段階的に洗練された

知力:10(熟練度:94 → 95)(+1)

 → 騎士団との会話や空気の変化から、立場や役割を“読む”力が自然に働くようになり、状況理解と内省の質が一段深まった

感覚:14(熟練度:47 → 50)(+3)

 → 他者の動きを察知し先回りして補佐に入るなど、視覚・気配・流れの感知力が訓練と実践の中で安定して発揮された

精神:12→13(熟練度:95 → 1)(+6/ステータスUP)

 → ザイランからの“認識”と仲間からの“承認”を受け取ったことで、自己認識と意志の安定が一段階上昇。これまでの積み重ねが“信じられる自分”へと昇華した

持久力:15(熟練度:86 → 94)(+8)

 → 累積疲労を抱えながらも、全工程を自律的に乗り越えたことにより、体力の底上げと持続性がさらに向上


【収支報告】

現在所持金:723G

 内訳:

 ・前回終了時点:744G

 ・朝食(果物):3G

 ・昼食(訓練場提供):0G

 ・夕食(ノネズミ亭):−8G

 ・宿泊費:−10G


【アイテム取得/消費】

・取得:なし

・消費:なし


【装備・スキル変化】

武器:スレイルスピア

スキル:《間合制御》

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