君が音楽を思い出した日

すら

出会う人は、偶然ではない。何かの意味があって私たちの道に現れるのだ。

静かだった。

不気味なほどに、音がなかった。


「……聞こえるか、クラリッサ」


「はい。……」


冷たい空気に、血の匂いがかすかに混ざっていた。

雪は降っていない。だが、モスクワの大地は白い。

視界に広がるのは瓦礫と、崩れたドイツ語の標識。

かつての“首都”は、ただの廃墟と化している。


ラインハルト・フリードリヒ・メロディン少佐は、静かにバイオリンケースを下ろした。

敵がいる。音はなくとも、肌が知っていた。


「クラリッサ、右の建物。二階窓、影が動いた」


「了解」


即座に、クラリッサ・ヴァイス少尉が氷の槍を走らせる。

空気が泣くように凍りつき、建物の窓ガラスが砕け散る。


一拍遅れて、破裂音。銃声。

応射はある。だがそれは、焦りと混乱の音だった。


「やっぱり、いたね」


ラインハルトは、バイオリンを取り出す。

手袋越しに、弦を優しく撫でる。


「一小節。協奏曲・《死者の舞》、アダージョで」


音が走る。

旋律の形をした斬撃が、建物を貫く。

まるで風が切り裂かれたように、兵士が一人、崩れ落ちた。


「……異常なし。三体撃破」


「私の方が1人多く撃破ですね。」


「可愛く言えば帳消しにするよ、クラリッサ」


「遠慮します」


淡々と返すクラリッサの背後――

瓦礫の影で、わずかに震える小さな声がした。


「……だれ?」


ラインハルトがバイオリンを止め、そちらへ視線を向ける。

崩れた建物の隙間に、小さな人影があった。

長い髪は乱れ、服は破れ、肌は煤で黒ずんでいた。

だが、目だけが、異様に澄んでいた。


「少女……?」


クラリッサが近づこうとすると、空気が一瞬震えた。

見えない何かが、周囲の魔力を揺らがせる。


「待て」

ラインハルトがバイオリンを軽く鳴らす。


少女の瞳が、そちらを向いた。

その瞬間――世界が、一瞬止まったように感じた。


クラリッサが目を見開く。「……魔力反応が、規格外です」


「音に反応した……のか?」


少女は何も言わない。

ただ、僕らを見つめていた。


「君の名前は?」

ラインハルトが優しく問うと、少女は小さく首を振った。


「……わからないのか」


風が吹いた。

雪ではない、灰を混じえた、破滅の風だ。



それは第二次世界大戦の終焉から、わずか十年後のことだった。

世界の超大国に上り詰めた三国――日本、ドイツ、アメリカは勝利と引き換えに、地獄を得た。

核による報復と魔法兵器の暴走。

世界は焦土と化し、今もなお、幾つもの都市が沈黙している。


ここは旧ソ連領、国家弁務官区モスコーヴィエン。

ゲルマニア帝国によって支配された、広大なる“傷跡”である。


ラインハルトは、そこからの撤退命令を受けた。

部隊はすでに壊滅。残るは少数の親衛隊と、補佐官クラリッサ。

そして――今、拾った名もなき少女。


ゲルマニアへ戻らなければならない。

この混沌を越え、無秩序な戦場を抜け、

芸術と秩序のある首都ゲルマニアへ。


「名は、あとでいい。まずは生き延びよう」


ラインハルトは少女にコートを掛けた。

クラリッサは少し睨んだが、何も言わなかった。


彼女との出会いが、全てを変えていく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る