【第2話:秘密と名前と、初めての“オフ会”】

「明日の放課後、Midoriとして会ってみたい」

──あのときの瑠奈の言葉が、何度も頭の中でリフレインする。


約束の時間。私は学校の裏手、人気のない中庭へと足を運んでいた。

制服のまま、髪を風に揺らしながらスケッチブックを抱えて待っている彼女を見つけて、胸がきゅっと鳴る。


木漏れ日が差し込む静かな中庭。風の音と遠くのチャイムだけが、二人の間をやわらかく包むように響いていた。


「……ごめん、待たせた?」


「ううん、ちょうど来たとこ」


その声は、あのルナライトのものだった。

でも今日はマイク越しじゃない、スマホの画面越しでもない。

耳元に、すぐそこで囁くような“生の声”。

それだけで、心臓の鼓動が早くなる。


「Midori……じゃなくて、月原さん。呼び方、どうしようか」


「えっと……好きに呼んでいいよ」


「じゃあ……“翠”って、呼んでもいい?」


本名を、配信とは関係ない“私”を、彼女が呼ぶ。

ほんの少し照れくさくて、でもなんだか嬉しかった。


「……うん。じゃあ、私も“瑠奈”って」


顔を見合わせて、小さく笑い合う。

画面の中ではできなかった、けれどずっとしてみたかった瞬間。


少しの沈黙が、居心地悪くないと感じたのは、きっと彼女がそばにいるから。


「Midoriの絵、ずっと好きだったんだ。選択授業で一度だけ翠の描いてた絵を見て、それからずっと気になってて。」


彼女がそっと言った。


「……そんな、大したことないよ」


「でもね、前にスマホの待ち受けが見えちゃって。あれ、Midoriの描いたやつでしょ?」


私は驚いて彼女を見た。

見られてたなんて、思ってなかった。

けれどその瞳は、優しくてまっすぐだった。


「配信のとき、私は“ルナライト”を演じてるの。完璧で、強くて、みんなの期待に応えられる存在を。


でも……Midoriは、ちゃんと自分を出してたよ。好きなものを、まっすぐに届けてた」


そう言ってくれる彼女の声は、まるで胸に光を差し込むようだった。


私はふと、スケッチブックを開いて、最近描いたばかりの背景画を見せた。


「これ……次の配信に使おうと思ってたの」


瑠奈は一瞬息を呑んで、それからゆっくりと頷いた。


「……すごく、綺麗。まるで、夢の中みたい」


「ありがとう……」


風がふっと吹いて、ページがめくれた。

その一枚一枚に込めた思いが、彼女に少しでも伝わっていたら。


「……本当の私を、ここだけの秘密にしてもらえる?」


「もちろん」

私はすぐに答えた。


私たちは、お互いの“秘密”を分け合う。

それは少し照れくさくて、だけどとてもあたたかい行為だった。


「次の配信、またコラボしようよ」


「……うん。私でよければ」


「じゃあ……Midoriの描いた絵で、ルナライトの歌枠とか、やってみたいな」


「ほんとに? 楽しみにしてる」


風がまた吹き抜け、夕陽の色が、スケッチブックの白いページを少しだけ染めていた。

私はそのページを見つめながら、口元にそっと笑みを浮かべる。


「ねえ、次は……どんな絵を描こうか」


そうして、二人だけの“オフ会”は、静かに幕を開けた。



「ねえ、Midoriの最初の配信って、緊張してた?」

ふいに瑠奈がそう聞いてきた。


「えっ、なんで?」


「昨夜、アーカイブ見てたの。最初の頃のやつ。すごく丁寧で、ちょっとぎこちなくて、でも……真剣で」


「うわ……恥ずかしい……」

思わず顔を覆いたくなる。あの頃の配信なんて、今じゃ黒歴史だ。


「でも、私は好きだったよ。Midoriが伝えたいこと、ちゃんと画面越しに届いてた」


私は驚いて彼女を見た。その瞳は、やっぱりまっすぐで、まるで迷いがない。


「ありがとう……でも、私も見たよ。ルナライトの配信」


「えっ、いつ?」


「コラボ決まってから。いっぱい見た。テンポの良さとか、コメントの拾い方とか、プロみたいだった」


「それ、ちょっと照れる……でも、うれしい」


「それにね、描いてたイラスト、スマホの待ち受けにしてたやつ……あれ、今日の配信の背景とそっくりだったよ? あのとき、偶然見えたスマホの画面に映っていたイラスト。それが、配信背景として使われていたことに、私は驚きと嬉しさを感じていた。」


「ふふ、気づいちゃった?」


「もしかして、Midoriの絵、好き……?」


「……うん、すごく。できれば、次のコラボで使わせてもらえたらなって思ってた」


その一言が、胸にじんと染み込んでくる。


「……私なんかので良ければ、ぜひ」


ふたりとも視線を外し、そっと笑う。


「じゃあ、そのうちMidoriの描いた絵で、ルナライトの歌枠やってみようかな」


「……ほんとに? 楽しみにしてる」


ふたりの声が、だんだんと柔らかくなっていくのが自分でも分かった。


今までの配信じゃ、こんな空気はきっと生まれなかった。

ほんの少しだけ、いつもの私たちじゃない。

でも、そんな距離が、悪くないと思えた。


彼女と別れた帰り道。

スマホを見たら、ルナライトから一通のメッセージが届いていた。


──今日はありがとう。また話そうね。


たったそれだけなのに、胸がじんわり熱くなる。

私は返信の文面に迷いながらも、そっと「またね」とだけ返した。


本名じゃない名前でつながった、この関係が。

きっと、もう少しだけ特別になる予感がした。

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