第2話 『あのとき私は、あなたの素直さを踏みにじってしまったのです』
佐藤さん。
あなたのチャイムの音を、私は今でも覚えています。
あんなに真剣で、張りつめたような表情でドアの前に立っていたあなたを見たのは、あれが最初で最後だったかもしれません。
引っ越しから数日後の夜。
段ボールをすべて開けて、部屋の隅に積んだころ、ようやく一息つけると思っていた矢先――チャイムが鳴りました。
モニター越しに見えたあなたの顔が、どこか不安げで、私は思わずすぐにドアを開けました。
「ごめんなさい、夜分に……あの、ちょっと、見てもらえませんか?」
声は震えていて、血の気が引いていて。
あなたはまるで、部屋の中に幽霊でも出たみたいな顔をしていたんです。
「トイレの……タンクの中に、なんか……入ってて……」
私は最初、何か虫でも湧いたのかと身構えました。
けれど案内されたあなたの部屋のトイレには、虫どころか妙に澄んだ緊張感だけが漂っていて。
そして、問題のタンクを開けると――
そこには、2リットルサイズのペットボトルが、どんと入っていました。
中身は、少し茶色く濁った液体。
それが水の中にぼんやり沈んでいて、確かに知らなければ不気味な光景だったかもしれません。
私は、すぐに思い出しました。
テレビか雑誌で見た「節水術」。
タンクの中に水入りのペットボトルを入れることで、流れる水の量を減らすという、ちょっとした節約のテクニック。
「これ、多分ね。前に住んでた人の節約グッズだよ」
そう説明すると、あなたはほっと息を吐いて、肩から力が抜けたようでした。
「よかった……変なものかと思って……」
と、少し恥ずかしそうに笑うあなたを見て――
――私は、いけないことを思いついてしまったんです。
ペットボトルをタンクから引き上げると、私はふたをひねり、わざとらしく鼻を近づけて匂いをかぐ振りをしつつこう言いました。
「んー……全然におわないね」
そして、それをあなたに手渡してしまったのです。
あなたは一瞬戸惑いながらも、受け取って――
疑念を浮かべることもなく、素直にそれを鼻先に近づけてしまった。
「…………っっっっ!!??」
鼻を押さえて悶絶するあなたの顔が、すべてを物語っていました。
何の匂いだったのか、私には本当に分かりません。
でも、よほど強烈だったのでしょう。あなたはしばらく何も言えず、その場で小さくうずくまってしまった。
私? 私はそのとき……心の中で笑ってました。
「ごめんごめん、鼻つまってて全然わかんなかった〜」なんて、子どもみたいな嘘をついて。
……本当は、最初から分かってたんです。
それが何かは分からなくても、明らかに“嗅いではいけないもの”だってことくらい。
あなたの素直さと、真剣さと、その少しぬけた無防備さが、私には愛おしくて。
だから、ほんの少し、からかいたくなったんです。
でも今思うと、あれはただの悪意のないいたずらなんかじゃなく、あなたへの甘えと、私の自己中心的な感情の現れでした。
佐藤さん。
本当に、ごめんなさい。
あのときの私は、あなたの素直さを踏みにじってしまいました。
どうかこれから少しずつでも、あの頃の私の過ちを、言葉にさせてください。
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