微笑みの残影
へり
微笑みの残影
初めて彼女を見た時、全身を電流が駆け抜けた。
それまで恋愛なんて微塵も興味が無かった僕の心は、彼女の明るく優しい内面を写したような微笑み一つで簡単に塗り替えられてしまった。彼女との出会いは僕にとって、それほどまでに鮮烈だったのだ。
彼女が好きだ。そう自覚するのに時間はかからなかった。けれど、大変だったのはそこから。
僕はどうにかして彼女、エレナと親密な関係になりたかったけれど、なにせこれまで絵を描くことにしか興味を向けてこなかったような人間だ。恥ずかしながら、女性の扱いなんて慣れているはずもない。どころか、緊張してしまって普通の会話すらもままならない有様だった。
それでも数少ない友人に助けを求めたり、女性と親しくなる方法を勉強したりと出来る事は全てやった。幸いにも当時の彼女に恋人が居ないらしいとは聞いていたが、あれほど素敵な女性だ。その席が埋まるのも時間の問題だろうと僕は必死だった。
僕の努力のおかげか、単なる彼女の気まぐれか。今となっては分からないが、しばらく交流を重ねた末に僕はエレナと二人きりで遊びに出かけることになった。
映画を見て、それからカフェに寄って。そんな誰でも思いつくようなありきたりなプラン。けれど優雅にエスコートできたとは口が裂けても言えない。事前に確認したはずの上映開始時間は間違えて記憶していたし、カフェだって入店できるまで相当な待ち時間があった。世間一般的に見てもデート失敗の烙印を押されてしまうような結果だ。
完全に終わったと思っていたけれど、意外にも次のデートの誘いをくれたのはエレナの方だった。あんな醜態をさらした僕を見限らないでいてくれるなんて奇跡だと、あの時は神に感謝したものだ。
でも、僕に都合の良い奇跡はそこで終わらない。ゆっくりと、されど着実に距離を縮めていった僕たちは男女の仲になり。そしてそこからまた時を経て、ついには籍を入れるまでに進展した。
怖いくらいに、全てが順調だった。
僕は心の底からエレナを愛していたし、彼女も僕に同様の気持ちを向けてくれていたはずだ。
付け加えるなら、仕事の調子も良い。描いた絵が売れることも段々と増えてきたし、依頼を受けて絵を描くことだってあった。
とにかく心が満たされていて、あの時の僕はきっとこれ以上無いくらいに幸せだったと思う。そしてこの先も、それが続くと信じて疑わなかった。
何年かしたら子供が生まれて。僕がもっと有名になって家族に良い生活をさせてあげられて。いつか大きな一軒家も建てて穏やかに暮らしていく。そんな、素晴らしい未来を夢想していたのだ。
だから。
——彼女が事故で亡くなったという連絡が来た時、僕の中で何かが壊れたような気がした。
◇
後から聞いた話によれば、エレナの死因は車に轢かれたことによる外傷だったらしい。運転していたのは近所に住む中年の男性で、彼自身もその時の事故で既に死亡している。警察による捜査の結果、男の体には当時突発的な意識障害が起きていた可能性が高いと判明した。
ならばきっと、仕方のない事だった。彼は運転中によそ見をしていただとか、悪意を持って事故を起こした訳ではない。ただ、タイミングが悪かっただけ。
そう、納得しようと頑張ったけれど。
そんな事実は何の気休めにもなってくれない。僕の心にぽっかりと空いた穴はちっとも埋まってくれない。最愛の人を喪ったという事実だけが、僕の肩にずっしりとのしかかっていた。
故に事件後暫くは、彼に対する気が狂ってしまいそうな怒りの炎が僕の中でのたうち回っていた。だけど、ぶつける先が無い。それが出来る相手は永久にこの世を去ったのだ。エレナと同じように。
吐き出したくともどうしようもない。激しく暴れる感情を抱えたまま、けれど何も出来ずに時間だけが過ぎてゆく。
男の遺族が僕と面会をしたがっていると知ったのはそんな時だった。
僕はその報せを聞いて、「しめた」と思った。ようやくこの激情を気兼ねなくぶつけられる相手が出来たと考えたからだ。
僕は二つ返事で了承して、実際に会う日程までとんとん拍子に決まり、そしてあっと言う間に当日になった。
部屋に響くインターホンの音を聞きながら、僕はどんな罵詈雑言をぶつけてやろうかと息巻いて玄関扉を開け。
そして、そんな自分の思惑が如何に愚かだったのかを知った。
扉の向こうに立っていたのは三十代くらいの女性だった。その人の顔を見た瞬間、僕の喉元まで競り上がっていた汚い言葉の数々はたちまちに霧散した。
俯きがちなその立ち姿は、絶望という二文字を体現しているようだった。よく見ればつい先ほどまで泣いていたかのように酷く目が充血している。さらに、化粧で誤魔化しきれないほどの濃い隈が浮かんでいて、女性の精神状態が優れない事など誰の目から見ても明らかだ。
深い悲しみと喪失感に包まれている彼女とよく似た姿を、僕は近頃毎日鏡越しに見ていた。
彼女も僕と同じなのだと、この時になってようやく理解できた。
涙声になりながらも開口一番に謝罪の言葉を告げる彼女に対し、僕は何も言えなくなってしまった。
会話内容の記憶はあいまいだが、ほんの少しのやり取りの後で女性には帰ってもらい、玄関をばたんと閉めてその場にへたり込んだ。身を焦がす程の暗い熱は、いつの間にか重い泥のように変わっていた。腹の底へ静かに溜まっていくそれと反比例するように、鬱屈とした感情が僕の全身から力を奪っていく。
しばらくは何もする気になれずそのままドアに寄りかかっていたが、頭が冷えたことでふいに今後のことが脳裏を過った。
エレナが亡くなってからもう一月以上が経つが、僕はあの日から絵を描いていない。単純に創作意欲が湧かなかったのだ。ずっと悲しみで心が満たされていて、絵を描くことに意識を割く余裕なんて無かった。
けれど、どんなに気分がすぐれなくとも、どれほどの悲劇に見舞われようとも、人は腹を満たさねば生きていけない。そのためには、どうしたって金銭が必要だ。
多少の貯金はあるが、それも無限ではない。そろそろ画家としての活動を再開しなければ、底をつくのも時間の問題だろう。抵抗する体に鞭打って立ち上がり、なんとか作業場へと向かう。
キャンバスの前に座ってから、僕は困惑した。
——何も浮かばない。
描きたい物も情景も、ぼんやりとすら浮かんでこないのだ。まるで、エレナと一緒に絵描きとしての能力も失ってしまったかのようだった。
この日以降、僕は筆を握れなくなった。
◇
寝室のベッドに寝ころんだまま、ぼうっと天井を眺める。
絵を描けなくなったあの日から、既に二月程が経過していた。けれど僕の状態は少しも改善する素振りを見せず、毎日起きて寝るだけの日々が続いている。
体に重く圧し掛かっていた憂鬱さすらも気づかぬうちに煙のように立ち消え、今はもはや何も感じない。ただただ無気力に息をしているだけだ。
塞ぎ込んで部屋へ篭る僕を心配した両親や友人が、これまでに何度か自宅を訪ねてくれた。けれど僕はどうしても人と顔を合わせる気になれず、いつも玄関のドア越しに僅かに言葉を交わすことしかできていない。
心労を掛けて申し訳ないとは思うが、僕自身も何故そうしているのか分からない。あるいは、全てがどうでもよくなってしまったのかもしれない。最愛の人を喪うという傷は、きっと僕にとってそのくらい深刻なものだった。
何の気なしに自分の利き腕を見れば、面白いくらいにやせ細り、骨と筋が浮き出ていた。多分足も似たようなものだろう。少しばかりまともに動かなかっただけでここまで見た目が変化するとは、人間の体とは不思議なものだ。そんな他人事のような感想が浮かんでくる。
僕はこのまま、こうして朽ちていくのだろうか。
ふと、そんな考えが頭を掠めた。少なくとも今のところは自らの命を絶とうとは思わない。けれど、積極的に生きていくような理由も見失ってしまった。僕にとってのそれは、絵画とエレナの二つだったのだ。
それらの代わりになるものなんて、今後見つからないだろうに。
ぼんやりとそんな事を考えていた時の事だった。
「……ン」
「……?」
どこからか、人の声のような音が聞こえた。天井から視線を外すが、室内には僕以外の人間は居ない。当たり前だ、この家の鍵を持っているのは僕とエレナだけだった。そして彼女が所持していた鍵も、今は僕が持っている。誰であろうと侵入は出来ない。
となると、まさか泥棒か。いや、しかし無理に玄関を開けたり窓を割ったりすれば多少なりとも音がするはず。この家の中は静かだ。テレビやラジオを聞く気にはなれないし、僕自身もここ数日は言葉を発していない。にもかかわらず、侵入者に全く気付かないというのは考えづらい。
「……ヴァノン」
「…………エレナ?」
考えを巡らせる最中はっきりと僕の耳朶を打ったのは、二度と聞くことは叶わないと思っていた、愛しい人の呼び声だった。
「……エレナ……君なのか、エレナ!?」
ありえない。そう思いながらも慌ててベッドから飛び下り、声がする方へ向かう。おそらくは寝室の外。
「エレナ!」
勢いよく扉を開けるも、彼女の姿はどこにも見当たらない。
「……ヴァノン」
けれど、その声は未だ聞こえ続けている。もしかすると、移動しているのか。光に誘引される夏虫のようにふらふらと、声を頼りにして廊下を歩いていく。そうしてたどり着いたのは——。
「僕の作業部屋……」
いつも絵を描く時に籠っている作業部屋。中にはこれまでに描いた多くの絵が保管されている他、画材などもまとめて置いてある。
「……エレナ、そこにいるのかい?」
扉越しに声をかけるも返事は無い。いつの間にか、彼女の声も聞こえなくなっていた。
「……入るよ」
おそるおそるドアを開けて中を覗き込む。きょろきょろと視線を彷徨わせるが、当然と言うべきかそこには誰も居なかった。少しの安堵と大きな落胆が同時に押し寄せて、思わずため息を漏らす。
カーテンで陽光が遮られた部屋の中央には、あの日用意したキャンバスが置かれたままになっている。多少埃をかぶっているけれど、久々に見たその純白はなぜだか今の僕にはひどく眩しいように思えた。
「…………!?」
自分が絵を描く準備を万全に整えて椅子に腰かけていると気付いたのは、それらの行動が全て終わった後だった。
なぜ、いつの間に。それに、今の僕には絵を描くことなんて。困惑する僕の視界に、埃の払われた真っ白いキャンバスが映る。穢れの無いその無地の彼方に、微かに彼女の笑顔が見えた気がした。
弾かれるようにして、僕は鉛筆を握り下書きを始めていた。刹那にも満たぬ間、けれど確かにそこに在った残像がぼやけてしまわぬ内に描きとどめなければと。
衝動に突き動かされるまま。されど雑にならぬよう丁寧に。
「失敗なんて誰にでもある、大丈夫よ」
散々だった初デートの帰り道、そう言って彼女は苦笑いを浮かべていた。
「……エレナ」
キャンバスに滑らかな線を次々と引いていく。
「見て、ヴァノン! ペンギンよ!」
水族館で子供のように無邪気にはしゃぐ彼女は、とても可愛らしかった。
「……エレナ」
持ち替えた筆を、キャンバスの上で踊らせる。
「……ふふ、貴方にしては勇気を出したわね」
少しからかうような物言いとは裏腹に、彼女は穏やかな笑みを浮かべて僕の告白を受け入れてくれた。
「……エレナ」
色が混ざってしまわないよう、細心の注意を払って塗り重ねていく。
「ヴァノン! 貴方またご飯も食べずに絵を描いていたでしょう!?」
時折絵を描くことに没頭しすぎる僕を、彼女はそう咎めて現実へと引き戻してくれた。
「……エレナっ」
双眸から悲しみが熱を持つ雫となって溢れ、視界が滲んだ。エレナの肖像画が完成に近づくほど、彼女を喪ったという事実が僕の心に深く突き刺さっていく。
それでも、僕は腕を動かし続ける。きっと、今描くことを止めてしまえば僕は二度と絵が描けない。そんな確信めいた予感があった。
無心でキャンバスに向かい続けて、どれくらいの時間が経っただろう。何度か外が暗くなって、明るくなってと繰り返していたような気もするが定かではない。全身が重く、頭がずきずきと痛む。けれどそんな体調とは裏腹に、僕の心中はしんと凪いでいた。
静かに、キャンバスを見る。
金糸のように細やかで、背中まで伸びた美しい髪。切れ長だが笑うと穏やかな印象を与える目と、その中で宝石のように輝く淡いブルーの瞳。艶やかで色気のある唇は、されど下品さを感じさせない。
こちらに目を向け、僅かに口角を上げた美しい女性。
記憶にある彼女を切り取ったようなその絵は、僕がこれまでに生み出した作品と比べても最高傑作と言えるだろう。
またもこみ上げそうになる涙を堪えて、考える。僕がこの絵を描いた、その意味を。
これはきっと、誓いだ。
僕が再び前を向き、生きていくという誓いなのだ。
完成したこの絵を見た時、僕はようやく彼女の死を正しい意味で受け入れられた気がした。乗り越えられた訳ではない。今だって、気を抜けば身を裂くような胸の痛みに膝をついてしまいそうになる。
けれど、それを抱えて生きていこう。この傷はいつまでも消えないだろうけど、もう俯いて立ち止まりはしない。そんな事ではきっと、エレナに笑われてしまう。
「だから、どうか見ていてほしい」
そっと、呟くようにそう溢せば、キャンバスの中の彼女が僅かに笑みを深めたように思えた。つられて僕も、頬をゆるめる。
「……そうだ。タイトルを決めないと」
『エレナ』と名付けようかとも考えたが、流石に安直すぎるような気がした。元々豊富では無い語彙からどうにか絞り出そうとしていると、ふと一つの案が浮かぶ。
暫く吟味し、それから悪くないと思った。
今はもう居なくなってしまった最愛の人。けれど、彼女は確かにここに存在して、僕にかけがえのない幸せな日々を与えてくれた。どれほど時が経っても、絶対に忘れない。そんな思いを込めて。
「……決めた。タイトルは————」
微笑みの残影 へり @heri
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