こじつけオカルティズム

くいな/しがてら

一:泡瀬桜

 味は凡庸、厳しく評価するなら中の下だが、賑わいが少なく落ち着いた雰囲気のその喫茶店を、僕たちはいつも打ち合わせ場所にしていた。向かいの席には見慣れた男。きっちりとしたスーツに身を包み、仕事ぶりに反する初々しい雰囲気は未だ消えない‥‥‥長年仕事を共にしてきた仲だ、この程度の描写で十分すぎる。アメリカンながら一丁前に舌に残る渋みをお冷で流す。冷静になるためではなく、頭を冴えさせるためだ。

「もう一度‥‥‥言ってくれるかい」

「嫌じゃないですか?」

「嫌だから良いんだよ。感情描写は重さ勝負だ。今の気持ちをしっかりと記憶しておきたい」

 編集くんは、そういうところが悪いんですよ、と呆れた。

毬月まりづき先生も担当することになりました」

 がつん、と胸に響く。

「‥‥‥この気持ちを言葉にすることができるかな。試してみよう。何より僕の胸の内をぐるぐる回っているのは、これまでの軌跡だよ。僕と君の二人三脚の日々だった‥‥‥もっとも、最近は君の引きずる努力も虚しく失速気味だったがね」

「入社当時の仕打ちの報復をしているまでです。最近は手ごたえが無くて不安ですが」

 自虐を真正面から受けきる姿勢は好ましい。

「次に毬月くんだ。僕は彼女を‥‥‥好かない。生まれた星が違う、そんな気さえする」

「存じております」

「そもそもだ、奴の作品からは一本の筋を感じない! その場のテンションで書いているだろう、あれは。過去作との矛盾は気づき次第新刊を出して修復する。性格も言動も、ひどいときには名前の漢字すら途中でころころ変わるのに! ‥‥‥なぜかそのテンションに読者を巻き込めるのが憎たらしい」

 編集くんは涼しい顔をしている。

「私じゃなくて、むしろ先生が毬月先生の担当になるべきかもしれませんね。粗探しはお手の物だ。普通の人はそんなにものを考えながら読んでいませんよ」

 心情分析はまだ続く。

「ところが嫉妬と片づけるのでは不十分だ。君が担当を増やさざるを得ないのは僕のせいだからな。負い目も混ざっている。あの毬月くんを担当できる、君の出世を祝う気持ちも僅かにある」

「僅かですか」

「加えて、次のテーマが依然として決まらない。売ることを考えると、ぽつぽつ浮かぶアイデアは簡単に否定される。まるでシャボン玉だ。君が毬月くんに『先生』を付けるのを聞くたび、焦り、後悔、不安、嫉妬、懐古が強まる‥‥‥惨めだよ。ちょっとメモを取らせてくれ」

 スマホに今の感情を文字でスケッチする。小説で使いたくなった時、このメモを適当に変形して当てはめるのだ。作り置き、とも言える。なんせ重い感情なんてものは経験したいときに出来るものではないのだ。

 フリック入力しながら、編集くんがおしぼりで手に付いたパン粉を拭うのが目の端に映った。

「他の追随を許さない現実感。浮かび上がる情景、生々しい感情。経験をベースとする韮戸にらど先生の作風は悪くありませんが、忌憚のない意見を述べさせていただくなら、最近はマンネリ気味でしょうね。気の利いたセリフや魅力的なキャラクターデザインにはめっぽう弱い。なぜなら」

「現実に気の利いたセリフを吐く人間はいないし、現実に魅力的なキャラクターはいないから」

 人に指摘されるよりも早く、言葉を引き取る。この方がダメージを減らせることは昔からよく知っている。

 経験を小説に昇華すると言えば聞こえはいい。ところが僕の場合、経験を小説にコピペしなければならない。したがって出会ったことのない人間や出来事は書くのに人一倍の労を要する。これは妄想をウリにする一般小説家に混じれば、致命的な欠陥と言えた。

「その点、毬月はいい投手だよな‥‥‥いや、すまない。忘れてくれ」

 編集くんは面白がっているような、申し訳なさそうな、複雑な顔をしている。

 投手。

 ワードチョイスから滲み出るさもしさに、我ながらびっくりする。しかし紛れもなく、それは僕から漏れた本音であった。取り繕うように、話題をずらそうと試みる。

「‥‥‥普段どんなことを考えているのだろうな。現実で起こることを書くには現実を見てさえいれば良いのだが、毬月くんに限らず、ぶっ飛んだフィクションを得意とする世の小説家たちは、どこからプロットを考えているのだろう。足掛かりも何もないじゃないか」

「毬月先生の下で偵察してきましょうか」

「結構だ‥‥‥と以前の僕なら言っていただろうが、今はむしろお願いしたいね。僕の名は出すなよ」

「お、結構弱ってますね。それはそうと、先ほどテーマが決まらないとおっしゃっていましたが、そろそろ決めないとマズいんですよ‥‥‥この話、今日三回目ですね」

 編集長に進捗を報告しなければならないのだろう。不憫だな、と他人事に感じた。

「とはいってもね。雑誌掲載用に連作をするとなれば、モチーフに余白は必要だ。それに、僕の得意とするノンフィクションまがいからは、今回こそ脱しようと思っている」

 ぽん、と決まらないのも無理ないだろう、と頬杖をつく。編集くんは少々考えて、口を開いた。

「七不思議なんてどうでしょう」

「七不思議っていうとあれかい。音楽室の肖像画の眼が動いたり、骨格標本がトイストーリーみたいに夜の間だけ自由に歩き回ったりする。編集くんも好きだね。確か、オカルト研究部か何かに所属していたんだったか」

 編集くんの眼が輝いた。

「奥が深いですよ~。講義をお望みですか」

「まずは一応、七不思議を提案する建前を掲げてもらおうじゃないか。僕はオカルトはからっきしだよ?」

「先生だって学校には行っていましたよね」

「馬鹿にしているのかい」

「『潮騒』の件、忘れていませんから。まったく、進捗を見ようと連絡を取ったら、離島で実際に漁師さんの弟子になっているだなんて。お詫び代わりの海の幸を、先生の代わりに編集長に届けた時の私の気持ちが分かりますか」

「ああ、インタビューしてしっかりメモしてあるよ」

 だいぶ昔だな、とスマホをスクロールするのを制止して、編集くんは続けた。

「つまり私が言いたいのは、韮戸先生には学校生活九年間の経験がある。これを足掛かりにすれば書きやすいでしょう。『潮騒』の時みたいに、無茶なことしなくていいんですよ。それに、七不思議なら連作も楽勝じゃあないですか。七個怪異を考える。解決する。ほら、七編の執筆完了です」

「簡単に言ってくれるね。僕の学生生活は、何も義務教育だけで終わりはしなかったが‥‥‥単にオカルトが好きだから、じゃない点は評価してやろう」

「ええ、そうですとも。現状にぴったりの題材ですよ。私もサポートしやすいし。ぜひこれで‥‥‥あ、店が閉まる。早いとこ出ましょう」

 「蛍の光」にぴくりと反応し、編集くんは伝票を取って立ち上がった。つられて荷物をまとめ、先に喫茶店を出て会計が終わるのを待つ。空には紫の光が満ちていた。夜風が涼しくて心地よい。

 七不思議、か。

 縁遠い言葉だ。しかし‥‥‥現状に風穴を開けるにはこれくらいで良いのかもしれない。

 編集くんが店から出てきた。ポケットに手を突っ込んでいる。眼は油断なくこちらを観察していた。やれやれ。

「あまり期待しないでおくれよ」

「ありがとうございます!」言うが早いか、ガラケーをポケットから取り出してすぐさま電話をかけ始めた。デビューからここまで、本当に長くやってきた。作家と編集の新人コンビは、中堅コンビくらいにはなれただろうか。しかし、頼もしかった編集くんの強引な手腕は、もう僕だけのものじゃないと思うと、身が引き締まる思いがした。編集くんは、ぱたんとガラケーを折りたたんだ。

「それでは先生、楽しみにしています。怪奇譚を審査するとなると、いつも以上に私の眼は厳しいですからねー!」

「やっぱり個人的な趣味じゃないか、オカルトマニアめ」

 苦笑いで、その日は終わった。


 部屋の薄暗さが気になって立ち上がると、この時間特有の鋭さをもった陽光になっていることに気づく。ふたたび午後、五時。パソコンにつなぎっぱなしの充電器はすっかり熱くなっていて、教師に十を教わったのに一しか理解できなかったことを白状するときのような申し訳なさを感じる。メモ機能に書き込むアイデアはてんでばらばら好き勝手に動き、相互に像を結び始める予兆もない。

「書けない‥‥‥」

 今日のお洋服を選ぶような気軽さで作風を変えられるのなら、それは作風ではない。才能である。この進捗を見れば、自分に才能がないのは一目瞭然であった。プロットではなく登場人物から練る必要があるか‥‥‥?

 ああ。 

 書きたいものがわからない。ウケるものがわからない。これが面白いのかわからない。僕オリジナルかわからない。

 わからない、わからない。

 なんで小説家なんかになったのか、わからない。

 書いては消す作業の残骸は見るも無残な様相を呈している。挑戦者として臨めていたこれまでのような、文字にしなければ溢れてしまいそうな情熱が欠けたまま空回りしている。

 パソコンを閉じ、立ち上がって郵便受けを確認しに行く。夕刊と‥‥‥珍しい。手紙だ。差出人の名を探すと、桑原円佳とあった。知らない名だ、ファンレターの類だろう。パソコンからは離れたまま封を開ける。優しい言葉で苦しくならないようにだ。ところがそんな自衛は不要であった。

『韮戸先生、初めまして。私は私立夜弐鰐やにわに学園で教員をしています、桑原円佳くわばらまどかと申します。旧友である編集者さんから、先生が次の小説でオカルトに取り組むとお聞きしまして、何かの参考になればとご連絡した次第です‥‥‥』


 電車で二時間揺られた先に、その学園はあった。

『私の学園には、今なお息づく七不思議があります。その中でも、今この時期しか体験できない怪異があるのです‥‥‥』

 待ち合わせに手紙と言う一方通行な手段を用いる点に些か抱いた人間性への不安感はこの際置いておいて。

 七不思議がある、というところがポイントだ。怪談があります、伝説があります、じゃない。七つセットで彼女は認識してくれている。

 無論、作り話である可能性は高い。しかし、それならそれで構わない。ひねもすパソコンに向かっていたところで限界はある。怪異のアイデアが七つあることは担保されているのだから、作り話であることを承知の上で拝聴し、発想を盗ませていただくことにした。内から生み出せない僕は、結局のところ外から盗むしかないのだ‥‥‥いや、あの部屋から逃げ出したと言った方が幾分か素直かもしれない。ともかく僕は、教師という人間に淡い信頼を抱き、さっそく今日件の学園で待ち合わせることにしたというわけだ。


 電車の中で諦め悪くパソコンを立ち上げるも、しばらくして「これ以上書いてもゴミができるだけだ」状態になった僕は、沈鬱な気分を抱えて目標の駅で降りた。

 前を歩くツインテールの少女に続き、改札を通り抜ける。ちょうどいい。七不思議を書く次の小説で、子どもは出さざるを得ないだろう。そのまま文章に起こせるように、僕は少女の一挙手一投足を観察し始めた。

 背格好から察するに小学校高学年、あるいは中学生。高校生ではなかろう。きっと夜弐鰐学園の生徒だ。きびきびとした歩き方は、溌剌とした性格を思わせる。何かスポーツをしているのだろうか。踏み出すごとに楽し気に跳ねるツインテールは邪魔になりそうだ。日曜日だというのに登校しているのだから、クラブか何かに入っていることはほとんど確定しているが‥‥‥リュックサックでもスポーツバッグでもなく、ポーチを左肩から掛けている。左手を動かす機会が比較的少ないということだから、右利きと判断していいかもしれない‥‥‥この推理は気休め程度だが。委員長タイプに見えないのは、ポーチにじゃらじゃらついたストラップが原因か。二枚舌の蛇をデフォルメしたぬいぐるみがジッパーの隙間からこちらに頭を覗かせている‥‥‥こんな所か。

 少女は脇目も振らずにずんずん進んでいく。階段でもその速度は落ちず、日がな座りっぱなし、慢性的な運動不足の僕には諦観が浮かんだ。

 ハアハア息を切らせて女児をつけ回す中年男性というのは客観的に実によくないし‥‥‥そう思ったところで、少女が突然立ち止まった。まずい、尾行がバレたか!?

 ストーカーではない、僕はただ君をモデルに登場人物を練ろうと‥‥‥と言い訳を咄嗟に用意したが、どうやらそういうわけではないらしいことが判った。

「ずいぶん早く歩くじゃねえの。おかげでほら、ぶつかって肩折れちまったよ」

 ガラの悪い男に絡まれていた。筋肉質ではないがガタイは良い。少女が自分の肩を抑えている手を振り払うと、腕輪がじゃらりと威圧的な音を立てた。

「私の肩ならご心配なく」

「俺のだよ」

「折れているようには見えませんが」

「ごめんなさいの一言も言えねえのか、こりゃ一万じゃあ済まねえな」

「慰謝料一万とはお優しいんですね。持ち合わせはありませんが待ち合わせがあるので、私はこれで」

「ごちゃごちゃ言ってねえで‥‥‥」

 少女は嘆息を漏らし、息を深く吸い込んでこう言った。


 


 ‥‥‥え、そんなことある!? 不良の方も目をぱちくりさせていたが、少しすると大慌てで土下座を始めるのでなおさら驚かされた。

「お、俺、どうかしてました! 勘弁してください!」

「パンピーから金巻き上げんなっつったろ間抜けが。散れ散れ」

 どこからそんなドスの効いた声が出ているんだろうか。少女は腕時計を確認し、小走りで駅構内を駆け抜けて行った。不良は呆然と立ち尽くす僕に気づいて、おはようございますと快活に笑う。挨拶を返すも、上手く笑えていたか自信がなかった。


 あれは何だったんだろう。

 先ほどの光景について考えながら歩いていると、さして道に迷うことも無く、校門から入ってすぐ横の桜の樹を見つけた。『特別巨大な桜の樹がありますから、とりあえずその下でお会いしましょう』‥‥‥間違いない、これが待ち合わせ場所に指定されていた樹だ。その傘下に恐る恐る潜り込む。


 生唾を飲み込む音が聞こえた。立派という言葉で評しては失礼にあたりそうな桜だった。

 桜を見ているのではない。

 枝がのたくり四方に巡らすそのさまは、とぐろを巻いて凍った空気を放つ老獪な蟒蛇うわばみたち、あるいは獲物を残さず消化し吸収せんとする柔毛を思わせる。僕はどこから、この強者の懐に入ったのだったか。慌てて振り返ると、枝は薄桃色の雪の重みに耐えかねて、ぐったり頭を垂れている。出られない。慌てて他の脱出経路を探すが、もう遅かった。

 ‥‥‥脱出経路? もう遅い、だって?

 理性が頬を叩くと、枝の下には大の男が胸を張ってもぎりぎり通れるだけのスペースがあるのが見えた。入ってきたときから何ら変わらない。しかし僕は依然助かったと胸をなでおろす小動物だった。

 少しずつ落ち着きを取り戻し、見上げるばかりだったこの桜の全容を観察できるようになってきた。

 根は思うがまま薄桃色の海で波を打つ。その力強さに、博物館で見た恐竜の骨格の面影を見る。それらを繰り出す幹は無骨で無頼、孤独な暴力をたたえている。バランスを崩す瘤の一つ一つ、萌黄色の苔の装甲、青白磁のカビの斑点までもが神話を物語っている。再度枝に目を向けると、僕を包む無数の腕だった。脈動するそれから一斉にはじけるほの赤い花弁は、油断なく周囲に目を光らせている。ああ、とぐろを巻いた蟒蛇のような印象を作っていたのは、これらだったのだ。ざわ、と吹けばかいなを揺さぶり、やわらかであたたかな薄雪はこの国をふぶいて土へしみる。

 ミニマムな表現をするならば、美しいという吹けば飛ぶようなひとひらになってしまうだろうが、花屋の花、厳重に保管されている名画のそれとは全く違う。美しいというより、荒々しいと言った方がまだ幾分かは適当であろう。うごめく微生物に至るまでを蹴散らし吸い尽くした焦土で、ただひとり生命の歌を叫んでいた。


 こんな‥‥‥ところでやめておくか。まだ続けようと思えば続けられる。それほどまでに‥‥‥おおきな桜だった。


 時計に目をやると、約束の時間にはすこし余裕があった。

 生徒にとっては休日でも、週末の学校にも案外教師がいる。車を降りて職員室へ向かうタイミングがばらばらなのは、話題の働き方改革なのか。桜の樹の下でじっと立ち尽くす不審者を見る目が、代わる代わる向けられる。僕は桑原先生が早く来るよう祈ったが、ついに懸念していた問題が起こった。

 まずい。

 精悍な顔立ちの男性教諭がこちらに向かってくるのが見えた。桑原先生ではない‥‥‥ような。明らかに何か注意をしに来たような空気を纏っている。帰りたい。しかしどうだ、ここで逃げ隠れしてはかえって怪しい。桑原先生を呼び出してもらうか? それも怪しい。男性教諭はずんずん近づいてくる。桜の傘に入ってこようとしたその時――。

「せんせー、河井かわいくんが老照池に落ちた!」

 男性教諭に向かって走ってくる姿は、駅で不良を丸め込んだあのツインテールだった。男性教諭の反応は速かった。

「何っ!? 今行く!」

 弾かれたように振り返り、男性教諭はすばらしいフォームで遠ざかっていく。ツインテールも男性教諭の背中を追って走り出した‥‥‥と思いきや、途中でスピードを緩めるとこちらの桜の方に向かって歩いてきた。

「いやあ、危ないところでした‥‥‥間に合ってよかったですね!」

 ツインテールは桜の中で立ち尽くす僕に言っているようだ。にこにこ笑って手を振っている。

「きみは‥‥‥?」


『桜の下を出てこちらに来てください、先生』


 どくん。

 首のあたりから、無理して早起きしたときのような気持ち悪い熱が徐々に頭の方へと上昇してくる。ぼやけた頭には、少女の言葉がくわんくわんと間断なく鳴り響く。

 かさり。足元で別の音がした。リスか何かが落ち葉を踏みしめるような‥‥‥否。足裏に伝わる感触はそれを否定する。

‥‥‥!?」

 誓って言う。僕の意志じゃない。

 信じがたいことに、僕の足は少女の言葉に従ったのである。自分の足のはずなのに、まったく言うことを聞かない。

 次の一歩はさらなる恐怖だった。声を出す暇もなく、内臓を慣性で残して身体が浮遊する。

 地面から浮き出た骨のような桜の根に躓いて、身体が前に倒れたのだ。

 手をつくことも、急いでもう一方の足を出すこともかなわず、顔面から派手に転倒する。もう中年の僕が‥‥‥子どものように転んだ? ゆっくりとショックを味わう間もなく、両手両足は早くも体勢を立て直した。桜の傘の元を抜け出して少女の元へと行きつく。これもまた、僕が意識せずとも起こったことだった。

 ふと、何かに操られていた足が自由を取り戻したのに気が付く。

 少女は僕の表情が面白かったのか、笑った。

「慌てちゃだめですよ。ようこそ、夜弐鰐学園へ。オカルト部部長、桑原円佳くわばらまどかです!」


 なに、してるんですか?

 口はそう動いた。何って‥‥‥見ての通りだよ。

「落ち着け、敵意があるとは限らない。むしろ男性教諭を遠ざけてくれたという行動に着目すれば、友好的であるとさえ‥‥‥」

 咳ばらいをして、恐る恐る耳に詰めていた指から力を抜く。

「あー、聞き間違えたかな。桑原円佳だって?」

「何も間違えてなんかいませんよ、私もあなたも。韮戸先生ですよね? 七不思議の採録をしてくれるという」

「韮戸? 誰だそれは。僕はこの学園の事務員をやっている似鳥にたどりだよ。華原かはらという生徒がここで待っていると聞いたんだが、君も誰かと待ち合わせかい。一瞬、『桑原』と『華原』を聞き間違えたかと思ったが、どうやらそういう訳ではないらしいね」

 華原くんとやらは来ないようだ、まったく悪戯は困るね、それでは失敬。しかし足早に立ち去るのを、桑原円佳は許してくれなかった。

「下手な嘘で誤魔化せると思わないでください!」

「ちっ」

「舌打ちですか!」

「投げキッスだよ」

「棒立ちで!?」

 ああ、もう。側頭部を掻く。言うまでもなく、かゆいからではない。

「いかにも、僕が韮戸未来みらい。売れない‥‥‥物書きだ。なんで教師を騙った? おっと、返答以外口にするなよ」

「内容が内容なだけに。子どもの与太話と切り捨てられるのは不本意ですからね」

 あなたが悪いんですよ、と言いたいような調子で、桑原円佳は白状した。確かに教師なら虚言は少なかろうと考えていたフシはある。

「騙されていたと知って、ひょっとしたらすぐに逃げ出しちゃうかと思いましたが、ひっ捕らえる必要は無さそうで助かります」

「あらかじめ断っておくが、君の語る怪異が実在しようとしまいとどうでもいい」

 桑原円佳はきょとんとした。

「肝心なのはアイデアだ。その怪異のアイデア、発想、七つまとめて盗ませてもらう。それが済んでいないから退散しないだけだ。話だけさっさとしてくれ」

 桑原円佳はくすくす笑った。

「面白い人ですね。部員は怪異を信じる方、私は信じない方に賭けていたんですが、どうでもいいとは」

 正直なところ、他にも気にかかっていることはある。

 不良と僕に対して使った、あの能力。あれはいったい‥‥‥そこで踏みとどまった。もっと現実的な懸念が浮かんだからだ。

「池に落ちたという生徒の話も、嘘だとバレたらマズいんじゃあないのか」

 あの体育教師が怒り心頭で舞い戻ってくる恐れがある。

 しかし桑原円佳は無敵の笑みを崩さなかった。

「あっはは、嘘だったら大変ですね。大丈夫! 河井くんはオカルト部の部員、つまり私の手下なので!」

 ‥‥‥ん?

「河井くんは、池に落ちた」

「ええはい、落ちましたね」

「君の手下だから落ちた‥‥‥?」

「私の手下なので落としました!」

 落としたのかよ! まだ衣替えを躊躇するこの時期に池に落としたと? 部員だから? 無茶苦茶だ。

 警戒を強めるとともに、まだ見ぬ河井くんに同情する。「寒いと言っても、旧暦でいえばもうとっくに春ですからね。さて、さっそく本題に入りましょうか。こちらが夜弐鰐学園第一の謎、その名も‥‥‥おや」

 電子音が桑原円佳のポケットから鳴り響いた。

「もしもし、今先生を案内しようとしていたんですけど‥‥‥え? 依頼人!? はい‥‥‥しかしそんな現象は心当たりが‥‥‥。ええ、分かりました、連れていきます」

 通話を終え、無造作にスマホをポケットにつっこむと、にっこり可愛い笑顔を向けた。僕も思わずほほ笑む。

「ご厚意には甘えられない、部長殿」

「いえいえお構いなく、韮戸大先生」

 ピりついた空気でしばし対峙するが、結局折れたのは僕だった。桑原円佳の後をついていく。これで帰っては余りに収穫がない。

「何をさせる気なんだ」

「だから、採録してくださるんでしょう? 小説にして。今年のオカルト部の目標は七不思議の‥‥‥なんというか、解明ですからね。ルール変更は文面にしないと」

 謎めいた言い方で完全には理解できなかったが‥‥‥やっぱり編集くんの差し金だ。そうだ、よく考えれば、普通ファンレターは危険物が紛れていないか編集部に検閲されてから届けられる。しかしあの手紙は僕の家に届けられた。僕の住所を知っているのは編集くんぐらいだ。

 ということは。

 あいつめ。僕が苦戦するのを見越してオカルト仲間に声をかけておいたってことか。僕の技量や学生時代の記憶はハナからあてにしてなかったってことだな? 今度あの喫茶店に行ったら、隙を見てコーヒーにたっぷり塩を入れてやる。

 めらめらと燃える復讐心を殺し、僕は桑原円佳を追いかけた。


               【壱:泡瀬桜】


 連れていかれた先は、部室棟らしき建物だった。チビのくせに、桑原円佳は歩きが速い。

 オカルト部に部室があるのか。最初の感想はそれだった。もちろん大きさをとっても他の部室とも遜色ない。ぎらついた運動部や狂気に満ちた文化系によって日陰に追いやられ、細々と活動している弱小集団のイメージはどこにもなかった。これだけデカい学園だ。財力が有り余っているのか。あるいは、オカルト部が特別に優遇されている? さすがにないか。桑原円佳が重厚な扉を開き、早く入るようせがむ。

「邪魔するよ‥‥‥」

 靴を脱いで部室へ入り、内装に目を移そうとした瞬間、けたたましい音を立てて、部室の扉が後ろで勝手に閉まった。音はまさしく、陳腐なホラー映画で定番のあれだ。

「驚きました? 河井くんが自動で閉まるよう改造してくれたんですよ。扉は錆一つなかったので、軋み音は扉の開閉と連動するラジオから流れています!」

 馬鹿だなーっ! 

 そして河井くんはこんなこともさせられているのか。今はまだ部室にはいないようだ。大方、濡れた肘をきゅっと抱え、しまい忘れの丸太ストーブにでもあたっているのだろう。可哀そうな河井くん。戻ってきたらうんと優しくしてやろうと決めた。

 安っぽい金属製の机の向かいには先客がいた。

「お待たせしましたね、吉野さん!」

「い、いえ! 部活も終わっていますので!」

 吉野と呼ばれた少女は、肩掛け箱型の大バッグと入りきらなかったと見えるテニスラケットを、なぜか床から持ち上げ、そこからやり場が無いことに気が付いてきまり悪そうに再び床に置く。

「ご依頼の件ですが‥‥‥」

「ちょ、ちょっといいですか」吉野少女は僕に不審の目を向ける。

「ああ、この人はお構いなく。オカルト部OBの韮戸先輩ですよ」

 なるほど、そういう感じね。息を吐くようにつかれた嘘に乗っからせてもらう。

「初めまして。オカルト部OBで‥‥‥物書きをしている韮戸と言う。この部に少し足りない良心と常識を補うために、時折顔を出しているのさ」

 小説家だ、と名乗る気にはなれなかった。桑原円佳は目を輝かせる。

「あ、いいですねその名乗り! 私は夜弐鰐学園中等部三年、オカルト部部長、あらゆる怪異の語り部にして魑魅魍魎のインフルエンサ―、桑原円佳です!」

 かっこいいな、その二つ名。騙り部とか非常識担当でいいだろ。

 まだ不審感は完全に消え去っていないようだ。吉野少女は揃えた両の膝に手を置いてはにかんだ。

「噂はかねがね‥‥‥。お会いできて光栄です。私は中等部二年、テニス部の吉野メイです」

 おや、桑原円佳は有名人なのか。しかもこの様子からは敬意が感じられる。悪名を轟かせているというわけではないらしい。

「えっと‥‥‥依頼? 今のオカ部はお悩み相談みたいなことをやってるのか、桑原?」

「先生、どうして突然親し気になったんですか? それに昔のオカルト部なんて知らないでしょう」

 ‥‥‥嘘だろお前。

 適当にでっち上げたと思ったら、もう忘れてやがる。騙り部の資格もない。OBという身分の信憑性を高めようとしたのに、逆効果だったようだ。吉野少女はもの言いたげに桑原円佳の方を見て口を少し開けた。

 桑原円佳も自分のミスに気付いたようで、口元を手で覆った。それから観念したかのように申し訳なさそうな笑顔を見せる。

「桑原先輩‥‥‥?」

「吉野さん、良いですか」桑原円佳は吉野少女の肩に両手を置いて口を開く。


『この人はオカルト部OBのライター、韮戸さんです。『潮騒』の作者の韮戸未来とは奇しくも同姓同名ですが、別人です。態度が偉そうなのも後押しして先生というあだ名で呼称されています』


 おいおい、今更遅いだろう、いくら肩をゆすったって‥‥‥。

 ところが吉野少女は「そ、そうでした。すみません先生、私、ボケてるみたいです」と、照れくさそうに笑った。

「‥‥‥桑原円佳、 表に出ろ」

 腕をつかんで部室の外に連れ出す。キィーッ、バタン! やはりお馴染みの音だった。

「なんですか、先生」

「桑原円佳、聞いていいことか分からなかったのだが‥‥‥少なくともあの桜で逢ったあとすぐ聞くべきだったのだろうが‥‥‥なんだ? さっきからその‥‥‥は?」

「さっきから? はて、何のことでしょうか」

「とぼけても無駄だ」

「先生とあろう方が、ずいぶんフィクショナルな言い方ですね。さっきの自己紹介で言ったじゃないですか、私はインフルエンサーなんですよ。たくさんの人にちやほやされますし、言ったことは信じてもらえる有名人なんですよ」 

 むふーっと息を漏らして不敵に笑う。

「そんな適当な台詞で僕は誤魔化され‥‥‥」

「先生は細かいですね。小説を書いているとそうなるんですかね? まあまあ、依頼人をほっぽっておくなんて、オカルト部の風上にも置けませんよ?」

 桑原円佳は無邪気に笑うと、するりと部室に戻ってしまった。仕方なく僕も戻る。

「先生、河井くんは今日いないんですか?」吉野少女が屈託なく話しかけるので、僕は改めてぞっとした。


                ※※※


「先輩が行方不明なんです」

 吉野少女は伏し目がちに語り始めた。

「先輩と言うのは‥‥‥」

「テニス部の元部長、早乙女小春さおとめこはる先輩です」

 ああ、と桑原は声を出した。

「知っているのか」

 同学年ですから、と桑原は言った。

「縦横無尽、傍若無人の傑物。ついた異名は『春一番の戦乙女』、早乙女小春さん。しかし、いかにも行方不明になりそうな人物じゃないですか。この前だって、午後の授業をサボって何をしているかと思えば隣県のビーチにママチャリを走らせていたとか」

「はい。部活サボりはしょっちゅうで、現部長の私が顧問に怒られる始末です。奔放な性格に機動力が備わると厄介極まりありません」

 言葉とは裏腹に、早乙女を語る吉野の口調は楽しそうだった。遠慮ない物言いから察するに、早乙女先輩とやらには気兼ねしないようだ。

「常に放浪しているけれど、ふと気づけば何食わぬ顔でそこにいそうな‥‥‥浮世離れってああいうことをいうんですかね? そんな人だと記憶しています」

 桑原の評価に吉野は軽く笑うが、すぐに深刻そうな顔になった。

「しかし今回の放浪は訳が違って、三日三晩家にも帰っていないそうなんです。親御さんも段々ただ事じゃないと感じ始めたようで」

「それで私たちのもとに来た、と」

「ええ。早乙女先輩を見つける手助けをしてください」

 黙って聞いていたが、ついに思わず口を挟んだ。

 きょとんとする吉野と、にやにや笑う桑原。見透かしたような顔をしているのがむかつくが、後には引けない。

「早乙女先輩とやらを見つけたい。その気持ちに嘘はないね?」

「え、ええ」かち合った視線は一瞬にして外されてしまったが、構わず続ける。

「あのねえ、行方不明者捜索ならオカルト部なんかじゃあなくて警察に行くのが筋だろう。ところがそれに関する情報は出ていないね」ちら、と吉野少女の鞄の方を見る。

「君は他人に気を遣う性分だ。はにかむ癖、軽い謝意にもすかさずフォローを入れる。何となく他の部室の床に自分の荷物を置くのがマズいような気がして、桑原円佳と僕が部室に入ると後先考えずそれを持ち上げちまうくらいに、その生き方が染みついている」

「この人嫌ですね、吉野さん」桑原円佳がひきつって笑う吉野少女の肩に手を置く。吉野少女は俯き、遠慮がちに口元を歪める。

「そう、そんな風にフォローされても困る。他人に迷惑をかけないことを究極目標としているような君が、オカルト部の手に負えないであろうただの行方不明を持ち込むわけがない。君‥‥‥語っていないことがあるね」

「‥‥‥さすがですね、先生。早乙女先輩を最後に見たと噂される場所が‥‥‥」

「あの泡瀬桜あわせざくらの樹の下、ですか」

 立ち上がったのは、自称あらゆる怪異の語り部にして魑魅魍魎のインフルエンサ―。先生にとっては本題ですよ、と桑原円佳は滔々と話し始める。


                ※※※


「泡瀬桜。

「夜弐鰐学園七不思議の一つで、さっき韮戸先生とお会いした巨大な桜の呼び名です。

「といっても、行方不明と直接関係しそうな代物ではないのですが‥‥‥どういうことなんでしょう。とりあえず、分かっていることだけ話すことにします。

「樹齢は判りませんが、とんでもなく長寿だそうです。ひと際巨大なソメイヨシノで、この学園の名物スポット。ええ、シダレザクラではなくソメイヨシノです。花の重みと枝の広がりが常軌を逸しているため枝垂れているのです。

「一説には東京上野公園のソメイヨシノよりもさらに古株で、クローンの枝別れの大元だとか‥‥‥。

「ご存知ですか? ソメイヨシノは挿し木でしか増えないので、全部遺伝子が同じクローンなんですよ。同じタイミングで全国の桜が咲くのは、これが理由なんですね。

「閑話休題。

「どこの学校にも恋愛スポットはあるでしょう。体育館の裏だとか、いかにもご利益がありそうな銅像の前だとか、こじつければハート形に見えなくもない池の周りだとか。

「夜弐鰐学園の場合は、泡瀬桜がそれなのです。

「花が咲いている時期に、二人きりでこの桜の屋根の下にいる場合、必ず告白が成功するとの噂です‥‥‥ちょうど今ですね。

「注意点として、告白中に相手を声に出して呼ばないと効果がないこと。本名でなくとも構わないようです。

「これまで失敗したケースとして、先輩を後輩と呼び間違えた時が挙げられますが、先輩と呼び直すと告白は成功したようです。

「大切なのは本名であることではなく、呼び名の真偽のようですね。

「もっとも、効果があるのは桜の樹の下にいる間だけのようです。その後も関係が続くかどうかは本人たち次第なんでしょう。

「泡のように儚い逢瀬を生む桜、泡瀬桜とはよく名付けたものです。

「まあ、すぐに破局するのはレアケース。泡瀬桜の樹の下への呼び出しに応じるなんて、その時点でもうOKしたも同然です。

「恋人たちの最後の一歩に必要なのはほんの些細なきっかけであり、泡瀬桜という舞台装置なのかもしれませんね。

「期間限定の七不思議ですし、ちょうど卒業シーズンと被っているので、桜の前で列がなされていることもあるくらいです。

「そんな光景を拝めるのは大体昼休みです。ちょうど校門のすぐ近くにあるので、放課後に行くと衆人環視のもと告白しなくちゃいけませんから。

「グラウンドからこの桜の樹の下を突っ切って校門に向かう運動部員もいますしね。先ほども語った通り、二人っきりで桜の樹の下にいないといけないんです。

「それで昼休みにごった返していては、本末転倒と言う感じもしますが。

「ちょっと条件がうるさいけれど、頼れる恋愛スポット。

「それが、泡瀬桜なのです」


          ※※※


「‥‥‥生。先生っ! 自分の世界に入りすぎですよ!」

 慌ててスマホのメモ機能を閉じる。軽い咳払いで興奮を殺そうとする。

「‥‥‥なんとなく判った。既に警察には相談しているが、成果は出ていない。最後に見かけられた場所が場所なだけに気にかかる伝説もあるといえばあるが、しかしそんな都市伝説を提供しても、警察がまともに取り合ってくれるわけがない。だからオカルト部に依頼しに来たというわけか」

 はい、と吉野少女は頷く。表情はすっかりいつもの凝り固まった笑顔に戻っていたが、翳りを僅かにたたえている。無理もない。桑原の話は興味深いものだったが、これと言って手掛かりらしきものはなかった。しかし気を落としたようには見せまいという懸命の努力が、なんだかとても悲しく思われた。

「ちなみに、早乙女先輩が最後に目撃された場所が泡瀬桜の樹の下だったという噂はどこから聞いたんだ?」

「出どころは分かりませんでした。みんな人づてに聞いたみたいで‥‥‥」

 既に自分で動いているらしい。うーん、と三者は唸る。

「よろしいでしょう!」

 突然、桑原円佳が立ち上がる。

「ご依頼ありがとうございます、吉野さん。我々オカルト部にお任せください。必ずや早乙女さんを見つけ出して差し上げましょう!」

「おいおい、そんな無責任なこと言って良いのかい?」

「がっかりさせないために、これから一緒に頑張るんですよ、先生」 

「僕もかよ。僕はもういい。泡瀬桜の下に張り込んで、満足したら帰る。桑原にはさっきも言ったが」

 そこまで言って少しためらったのは、吉野少女がそこにいたからだ。

「僕は怪異の所在や正体を調べに来たわけじゃあないんだぜ。小説のネタを拾いに来たんだ。泡瀬桜だかなんだか知らないが、それさえ自由に観察できればそれでいい。見ず知らずの‥‥‥後輩のために貴重な時間を使ってられるか」

 悪い気はしたが言い切る。その点を譲るつもりはない。

 それに、これ以上この事件に首を突っ込んでは‥‥‥たぶん、僕は止まれなくなる。迷信だけでは済まない。いたいけな少女の不幸や苦悩までも食い物にしてしまう。だって僕の小説は、現実を写すことによってしか生まれないのだから。

 しかし桑原円佳はまったく怯む様子もなく、正面から反駁した。

?」

 桑原円佳が何を言おうとしているのか察しがついた。遠慮というものはないのか。ポーチから顔を出す二枚舌の蛇の人形が揺れる。

「吉野さん、先生は嫌な奴ですが‥‥‥」

 やめろ。

「一応大人ではあります。何かの役に立つはず‥‥‥いえ、立つかもしれません」

 やめろ。

「ですから一言、気難しく振舞いたい先生がやる気を見せられるような口実、逃げ道を作ってあげてください。復唱、『私を小説のネタにしてもいいですよ』」

「えっと‥‥‥私なんかでよければ、先生の新しい小説の題材にしてくださってもいい‥‥‥ですよ?」

 ‥‥‥っ。天を仰ぐ。窮したからではない。悪魔に裁きを下さない天を睨んだのだ。桑原と、僕に。

「二言はないね?」

 吉野少女が遠慮がちに首肯する。

 良心とネタの誘惑を両皿に載せた天秤はそれまで辛うじて拮抗していたのに、桑原の手によってあっさり傾いた。良心はテコの原理でどこかに飛んで行ってしまった。

 いいだろう、乗ってやる。

 困っている子どもに寄り添ってやるのが、余裕ある大人と言うものだ。


                ※※※


 翌日、正午すぎ。

 桑原円佳と僕は調査に乗り出した。昨日とはうって変わって、どこを見ても人で溢れている。月曜なのだから当然だ。青少年の群れに大人はほとんどおらず落ち着かない。「生徒が多ければ先生も多いので、堂々としてさえいれば不審に思われることはありませんよ。知っている先生の方が少ないです」なんて桑原は言っていたが、今、見渡す限り大人はいない。そりゃそうだ。昼休みの今、ほとんどの教師は教室で授業の準備をしているか、職員室でデスクワークをしているのだろう。

 桑原円佳は僕の姿を見て目を丸くした。

「本当にネタ切れなんですね」

「よくぞ来てくれましたって言えると素敵だぞ」

 さてと、と桑原円佳が歩き出すのでついていく。グラウンドに出ると、しっとりした地面がさくさく音を立てるのが小気味よかった。まっすぐ向かう先には、明るい緑色のテニスコートが見えた。

「最初はやっぱりテニス部員か?」

「ええ。お、もういますね。中原さーん」

 桑原円佳が手を振る先には、コートの整備を行う女子生徒がいた。グラウンドで使うトンボとは違い、緑と白の毛が揃ったブラシをかけていたその生徒は、こちらに気づくとぺこりと会釈をした。

中原紫苑なかはらしおんです。オカルト部さんですね」

「はい。ご存知、桑原円佳です。こっちはOBの韮戸先生。早乙女さんについてお聞きしてもよろしいですか?」

「私に答えられることなら何でも。あ、ちょっと待っていてくださいね。今日のコート整備当番は私なんです」

 そう言うと、中原紫苑はブラシを弾ませて小走りし始めた。緑のネットにもたれて、桑原円佳の方を見る。

「ご存知、か。君、本当に有名なんだな……」

 吉野少女にとって幸か不幸かは判らないけれど。オカルト部に相談できたのも、僕に小説にされるのも、元をたどれば桑原円佳の知名度のせいなのだ。

「せっかく頼ってくれたんですし、見つけてあげたいですけどね、早乙女さん。そうそう、この事件の被害者がテニスの神童、名前がサオトメってすごくないですか」

「どういう意味だ?」

「えーっと‥‥‥ひょっとして先生、オカルト弱いですか」

「弱いも何も、知識は皆無だ」

 なぜなら、オカルトは存在しないから。それでよく七不思議をテーマにしようと思いましたね、と桑原円佳は呆れたかと思うと、すぐに鼻持ちならない尊大な顔になった。

「良いでしょう、本日のオカルト学、講義内容は桜です。早苗、桜、早乙女、皐月‥‥‥これら春に関係する古語に共通するものは何でしょう」

「初めに来るサの音か」

 桑原円佳はピンポーンと間の抜けた効果音を発した。正解の確信はあったが、これがなんだというんだ。

「サというのは春になると山から降りてくる神の名前なのです。そして春は田植えの時期。田には早乙女が早苗を植え、その月を皐月と名付けたという訳なんですね」

 ふうん。

「それなら稲作と無関係の桜はどうなる?」

「鋭いですね。降りてきたサ神が腰を下ろす坐(くら)、それが桜と言われています。桜とは神の宿る聖樹なのです」

 素直に感心した。山から神が降りてきて薄桃色の花が開く。それを見て田園に早苗を植える。花が散って神が帰ると、季節は進む。はるか遠い時代の神話と実生活の融合が目に浮かび、なんともいえない気持ちになった。

「ガセっぽいですけどね」

「そうなの!?」

 なんだよ、せっかく浸ってたのに。緑のネットに背中を弾ませて遊びながら桑原は空を見上げる。

「そして早乙女の名をもつ天才少女は神の宿る樹の下で忽然と消えてしまった。こういうの‥‥‥って呼ぶことくらい知ってますよね」


「先生は泡瀬桜に関して、何か引っかかったことはありますか?」

 うーん、無いではないが。

「僕は怪異の専門家じゃあないよ。あるのは一般知識だけだ。役に立つとは思えないが‥‥‥」

「持ち前の観察力があるじゃないですか。部室で吉野さんを追い詰めたこと、誇っていいと思いますよ」

 それを言われると後悔の念が増した。

「それに怪異と科学は根っこが同じ表裏一体です。一般教養もバカにはできません」

 ‥‥‥? 桑原円佳は説明を加えてくれる。

「言葉通りですよ。どちらも世界の説明方法にすぎません。両者は等号で現実と結ばれています。だから怪異は科学で説明がつくし、科学は怪異で説明がつくんですよ。ドラキュラが日光に弱いのは蝙蝠が夜行性だから。蝙蝠が夜行性なのはドラキュラが日光で灰になるからです」

「なるほどねえ。それなら話すが、あまり真面目に考えないでくれ」

 そう前置きして、指摘を始める。

 アンチファンタジーの小説家。噂への現実的な見方、難癖、もといマジレスは本業と言ってもいい。

「一つは効果かな。告白が成功するってことは、裏返してみれば拒絶が失敗する、あるいはする気になれないってことだ」

「そういう言い方もできますね。それがどうしたんです?」「エフェドリンと言って、桜の花びらからは人の判断能力を鈍らせるというか、タガを外す興奮成分が放出されているのさ。麻酔にも応用できる。一説によれば、花見の陽気な気分にも関与しているとか‥‥‥」

 桑原円佳は神妙に頷いた。

「なるほど。頭に靄がかかって、告白を承諾してしまう。確かに泡瀬桜の噂とリンクしているかもしれません。泡瀬桜が日本中に広がったソメイヨシノの元締めだとしたら、そんな桁外れの生命力に人が中てられても‥‥‥なんて、これは妄想逞しすぎますかね」

「ま、当て推量にすぎないけどな。ただ、仮に泡瀬桜の効果の由来がこれだとしたら、新たな仮説が成立する‥‥‥おや、終わったようだ」

「お待たせしました」

 中原紫苑はブラシを置いて駆け寄ってきた。

「放課後の練習前じゃなくて、昼休みの今かけるんだな」

「ええ。先輩がどれだけ早く来てもいいように」

「へえ、上下関係がはっきりしているんだ。昔からそうなのかい?」

「そうですね。といっても、早乙女先輩が部長の時はやっていませんでしたが。吉野ちゃんが部長になって復活した制度です」

「早乙女さんは緩かったんですね」

「他人にも自分にも緩かったです。部長にはふさわしくない、なんて自分でも言っていましたが、あんなプレーを見せられたら誰も代わりに部長を務めるなんて言えませんよ。メンタルやリーダーシップではなく技能で部長が決まりがちなのは、他の部活も同じなんじゃないでしょうか」

「喧嘩の強い人が頭になるヤンキー集団と同じ仕組みですね」

 中原紫苑は上品に口元を抑えて笑った。

「それじゃ、新しく部長になった吉野少女もすごいのかな」

 それがですね、と中原紫苑は頬に手を当てた。

「確かに上手ですよ。毎日部活に来て練習しているだけあって、お手本のようにきちんとしたテニスをします。でも早乙女先輩と比べては‥‥‥見劣りする、というのが正確な評価なんじゃないでしょうか」

 型破りの天才、早乙女小春。

 春一番の戦乙女‥‥‥だったか? 異名は伊達ではないようだ。

「実際、吉野ちゃん、参っちゃってるみたいで。部員にはみんなアウトローな早乙女先輩の光が焼き付いていて、指示が通らず秩序も戻らず‥‥‥話し合うのにも疲れたんでしょうね。ブラシ当番だって、誰かがサボっていたら部活前に自分でやっちゃうんです」

 なんとなく早乙女とあの適当な毬月、吉野メイと自分を重ねてしまう。型を破った方が目立つだけだ、なんて言い切れたらどんなにいいか。しかし型を破れる人間は、大抵自分よりも才能か努力で勝っているものだから始末が悪い。


 その後の聞き取りでは大した情報を得られず、礼を言ってテニスコートを後にした。

「それでも早乙女さんを見つけてほしいって、吉野さんは言うんですよね」

「お前‥‥‥そういうこと言っちゃう?」

「私は政治家です。正しいと信じたことは言うのです」

 適当なことばっか言いやがって。

 今後一生、謝罪会見は開くな。揚げ足を取ろうと一言一句に目を光らせる取材陣の前で何を言うかと思うとハラハラする。

 しかし桑原の言いたいことも判る。早乙女がいなければ、部の統治は遥かにやりやすいことだろう。しかし吉野は本気で早乙女を探している。「いなくなっちゃえばいいのに」なんて様子は微塵も見えなかった。

「ま、早乙女がいなくなれば解決するような問題でもないのかもしれないが。それこそ神格化されて厄介かもしれん」

「ああ、そうかもしれませんね。でも吉野さんはそこまで考えていなさそうですが。ただ純粋に心配している‥‥‥うん、技術に差はあれど、吉野さんの度量は部長にふさわしい気がします。部室で聴取した時も感じましたが、結構行動力もありますよね」

「ああ、君に依頼する前から桜について色々調べていたみたいだし、今日も個人的に考えることがあるって言っていたし」

「文化部の引退は年度末ですが、来年この私がいなくなっても河井くんがプレッシャーを感じないで済むように、テニス部みたいに早めに部長の座を譲っておくのも一つの手かもしれません」

「早乙女を暴君みたいに言うなよ」

「全然一言も言ってませんよ!?」

「自分を神童みたいに言うなよ」

「そう言ってるんですけど!?」

「大丈夫、河井くんならお前より良い部に出来る」

「先生が河井くんの何を知っているんですか!?」

 何でもは知らないぞ、お前の悪逆非道な振る舞いだけ。

「しかし、部長までやらせるのか。河井くん本人の意向は聞いたのか?」

「‥‥‥河井くんが言わないだけです」

「例の能力で『桑原円佳には逆らえない』なんて言っているんじゃないだろうな」鎌をかけてみる。

 ‥‥‥。

 校門の外を走るトラックの音が、やけに耳に残った。


「さて、ここからどうします? まだ少し昼休みは残っていますが、聞き込みをするには足りないかもしれません」

「それなら泡瀬桜を見に行ってもいいか? 今なら順番待ちの列が見えるんだろう。運が良ければ告白の場面に立ち会えるかもしれない」

 桑原は呆れた顔をして見せた。

「先生こそ、もう少し慎みや遠慮というものがないんですか」

「遠慮? ああ、取材旅行のために昔売ったあれのことか。大した金にはならなかった」

「先生の気づかいは安っぽい、と」

「言い方」

「器は売れるほど大きくない、と」

「だから言い方ぁ!」

「あの、桑原さんだよね?」

 ぎゃいぎゃいやっていると、話しかけてくる男子生徒がいた。

 そばかすの童顔で身長低め、制服に着られているという印象。しかし桑原や吉野と同じ中等部の校章を付けている。

 運動系というより文化系の部活に所属していそう。生真面目ながら、親しみやすい人柄を感じさせた。友達の家にしょっちゅう遊びに行くが、手土産の菓子を欠かさず携えていくさまが容易にイメージできる‥‥‥こんなところか。

「君は?」

「中等部二年の梅村。オカルト部が早乙女先輩の行方を調べているって話は本当だったんだね」

「誰から聞いたんですか?」

「ああ、僕、吉野メイと幼なじみだから。あいつもあいつで熱心に聞き込み調査しているよ。不要かもしれないけれど、メイの話が本当だって保証するために桑原さんを探していたんだ」

 桑原と目を見合わせる。

「えっと‥‥‥何のこと?」

「吉野少女の話に君が絡んでくるような箇所はなかったが‥‥‥」

 梅村少年は当惑した。

「え? まさか、あいつ話してないの? 早乙女先輩の失踪した時刻に関係するのに?」

 桑原円佳は身を乗り出した。

「詳しく頼みます」

「ああ。あれは三日前、早乙女先輩が消えちゃった日のことだった――」


               ※※※


 昼休み。

 僕は泡瀬桜に向かっていた。何のためにって‥‥‥言わなくても判るでしょ? 

 いつもは桜の前にカップルの卵たちが行列をなしているんだけど、その日は誰も並んでいないのが見えた。

 呼び出したはずの早乙女先輩も、まだ来ていないみたいだった。

 時間にルーズな人だから、想定内と言えば想定内だったけど、一人でグラウンドに佇んでいても目立つし、誰も来ないなら先に樹の下で待っていようかと思って桜の方に向かったんだよ。

 ところがいざ近づいてみると、泡瀬桜の樹の下には先客がいた。もっと意外だったのは、それがメイだったってことだ。ばつが悪いなんてものじゃない。友達の告白の場面に立ち会ったようなものだからさ。しかも相手がいないときた。フラれたのかな‥‥‥あ、ごめん。話がそれた。

 気まずい場面に耐えられなかったんだろうな。「早乙女先輩見てない?」って聞いただけなのに、「知らない」って言うが早いか顔を覆って逃げ出しちゃったんだよ。

 やっぱりフラれたのかな‥‥‥。良いやつなのに。

 僕はそれからも泡瀬桜の樹の下で待ち続けたけれど、結局、早乙女先輩は来てくれなかった。その後の展開は聞いた通りだよ。早乙女先輩は行方を晦ませた。

 早乙女先輩がいなくなったと判ったのは昼休み、僕との待ち合わせに来なかったときだ。つまり、いなくなったのは三日前。朝から昼休みまでに限られる。もっとも、早乙女先輩が意図的に僕の約束を反故にした可能性もあるけど‥‥‥。

 それにしても、どうしてメイはこれを伝えなかったんだろうな?


                ※※※


「意外だな」

「意外です」

「吉野少女のキャラクターが突然ブレてきた」

「くっつかない幼なじみとか信じられません」

「‥‥‥」

「‥‥‥」

 ちょっと情報が混み入ってきた。

 考えなければならないことは三点。

 一点目は当然、早乙女の行方。梅村くんの発言から時間で絞るとするなら朝から昼休みまでの間に消失したようだが、それ以上先に議論は進められるのか?

 二点目は、吉野少女の思惑。泡瀬桜の樹の下で梅村くんと出会ったエピソードはなぜ隠されていた? それとも単に言い忘れていただけか?

 三点目は、泡瀬桜の効果。怪異が理に合するというのなら、エフェドリン由来のその特性はもしかすると‥‥‥。

 ついでに、桑原円佳の能力も気になる。言ったことを実際に起こせるのか? 耳栓は持っていない。まな板の上の鯉の気分とは、こういうことを言うのだろう。次からこの言葉も実体験の記憶を伴って使える、なんて暢気なことは言っていられない。

「思わぬ収穫だったな。僕は今度こそ泡瀬桜を見に行ってくる」

「お供します。どうせこの後は掃除時間で、私は暇ですから。告白を覗くのに絶好のポイントも知ってますよ!」

 さっき慎みや遠慮がどうとか言ってなかったか? 適当な奴だ。掃除時間は掃除をしろと言いたいところだったが、黙って任せた。 

 学園からほんの少し外。泡瀬桜の裏手の柔らかなフェンスにゆったりと背中を預ける。桜の腕の外にあたるここは、確かに絶好の覗きポイントと言えた。

「それにしても大きいですよね。初等部からの九年間で見慣れてしまいましたが、おかげで桜の名所に行ってもがっかりして帰ってくることもしばしばです。ソメイヨシノ以外だと嬉しいのですが」

「僕もソメイヨシノよりは他の桜の方が好きだな。ソメイヨシノは‥‥‥王道ではあっても量産品だ」言いながら胸がチクリと痛む理由が、僕にははっきりわかっていた。

「作家大先生とは真逆ですよね。ほんの一握りだと聞きますから」

「ああそうだ‥‥‥いや」言い淀んで、首を振る。

「僕はむしろソメイヨシノだよ。量産品だ。人工物のソメイヨシノは、校庭は飾れても日本一の名桜にはなれない」

 生まれながらの天才には到底敵わない。オリジナリティは出すものじゃなくて出るものだとわかっていても、それを求める愚行を犯さずにはいられない。

 そうですか、という桑原円佳の口調からは、感情がよく読み取れなかった。

「すまないな、こんな話をされても困るだろう」

 桑原円佳は否定しなかったが、しばらくすると口を開いた。

 思わず桑原の顔を見た。意図ははっきりと読めなかったが、しばらくその言葉が耳に反響していた。


「泡瀬桜、ねえ」

 桑原円佳はもとの晴れやかな表情に戻っていた。

「私たちにとっては逢わせ桜、ですけどね!」

「気に入ったのか、その言い方。僕にとっちゃ遭わせ桜だよ」

「何てこと言うんですか!? 文字起こしされてなければ伝わるわけないでしょう!」

 そっちか。

「しかし遭わせだろ、あんなの。したたかに打ちつけた膝、痣になってるんだからな」

「ああ、盛大に転んだあれですか。ドジですね」

「笑い事じゃない。君のせいだろ」

 桑原円佳の顔から笑みが消え、きょとんとした。

「‥‥‥え? 何のことです?」

「白を切るタイミングはここで合ってるのか?」

「いや、え? 本当に何を言っているんですか?」

「だから、君が例の能力で『桜の元から出てこい』っていうから、無理に従おうとした僕の身体が桜の根に蹴躓いたんじゃあないか」

 なかなかどんな能力なのか教えてくれないが‥‥‥と言いかけたところで口を噤んだ。桑原円佳は本気で困惑している。

「‥‥‥もしかして、あの時能力を使っていないのか?」

「はい。最初に見せたのは吉野さんの前でボロが出た時ですよ‥‥‥?」

 正確には、駅構内で一度目撃しているのだが。

 オカルト部部室の外に連れ出して、桑原を問い詰めた場面を思い出す。さっきからその能力は何なのか、と尋ねた時、桑原は‥‥‥確かに言った。何のことでしょう、と。

 あれはとぼけているわけではなくて、「さっきから」という言葉に困惑していたってことなのか!?

「人を思いのままに操れるとか、そういう類じゃ‥‥‥」

「ないです。私の能力は‥‥‥」

 ぱたりと立ち止まる。

「お教えするには二つの条件をのんでいただきます」

「わかった」

 間髪を入れず、口が動いていた。桑原円佳は僅かに眼を見開いて、それから口元をほころばせた。

「聞かなくていいんですか? 条件」

「何だろうと構わない」

「先生の行動原理ってリアリティを求めるだとか大人らしい対応をだとかじゃなくって、実のところ好奇心ですよね。教師を騙られていたことに気づいても残ったり、平日なのに知りもしない生徒の行方不明事件に首を突っ込んだり。得体のしれない子どもの言いなりになることも厭わない」

 その言葉に、普段の僕らしくなかったことに気づく。それでいて、この二日間は実にかつての僕らしくあった。

「ああ‥‥‥そうだよ」

 知りたい。何もかもを知りたい。出来事を、感情を、経緯を、伝説を、空気を、関係を、思想を、ポリシーを、秘密を、過去を、未来を。

 ああ、そうだ、思い出した。

 

 調べて考えて理解して、それを人に伝えたくてしょうがなくなって、溢れたものを売り始めたんだった。


 桑原円佳は人差し指を立てた。

「一つはこれから一年間、オカルト部に所属すること。私も来年は卒業ですからね。七不思議をすべて解決してからいなくなりたいものです。立つ鳥跡を濁さず、と言うんでしたっけ」

「微妙に違うが、いいだろう。どうせこちらも七不思議シリーズを書くにあたって、ネタも七つ欲しいところだ。河井くんにかかる負担も分散させられるしな」

 桑原は親指を伸ばした。

「なんで数え方がフレンチスタイルなんだよ」

「実は帰国子女ですから」

適当なことばっか言いやがって。

「二つ目は‥‥‥私を小説に出さないこと。名前を変えようが性格を変えようが、あるいは能力だけ引き継いだ別の人物を用意しようが、私と私の能力をモチーフとしたキャラクターを出すことを禁じます」

「‥‥‥善処する」

「ありがとうございます。小説はプロットができた時点で私に見せてください」

「編集者が増えたな」

「私の審査の目は厳しいですよ~」

 どこかで聞いたようなことを言って、桑原円佳は言葉を紡ぎ出す。


                ※※※


「私の能力は、言霊インフルエンサー

「最初からそう言ってるじゃないですか。

「具体的にできることとしては、話を信じてもらうこと。

「私は神です。

「どうです、信じましたか?

「あ、やめてください、そんな目で見るのは。頭はおかしくなっていません。

「こんなふうに、ある程度の限度はあります。下地があれば効果は大きくなりますし、まったくの出鱈目では今みたいにほとんど信じてもらえません。

「これならどうでしょう。

「『実は私って、声変わりを迎えていない男子中学生なんですよ。家が貧乏なのでお姉ちゃんのおさがりのセーラー服を使っています』。

「あ、嘘です。嘘ですからね。

「嘘ですってば。

「とまあ、こんな具合にそれらしい理屈や相手の良く知る情報が混ぜてあれば信じてもらいやすくなる。

「誰しも持っている、当たり前の能力ですがね。私は普通の人より‥‥‥ちょっと影響力が強い。それだけです。

「え? 小説に出してはいけない理由?

「小恥ずかしいからですよ。絶対にやめてくださいね。

「約束を違えたら‥‥‥世間の皆さんに何を吹き込みましょうか。先生の考える最高の悪役、参考までに今度教えてもらってもいいですか?」


                ※※※


「これで満足しましたか? 私には行動を強制的にとらせる力なんてないんですよ。まったく、他人のせいにしちゃって。自分がすっ転んだ責任の所在はあなた以外のどこにもありません」

「悪ふざけで僕に足をひっかけたとか‥‥‥」

「戻ってきてください、私は男子中学生じゃありません」

 肩をゆすられ、その腕の細さを認識する。

「あ、ああ。OKだ‥‥‥となると仮説は正し‥‥‥おや、見ろ桑原、やっと来たぞカップルが!」

「先生、声を落としてくださいよ! あれは‥‥‥制服とボタンを見るに初等部ですね」

 桜の樹の下に相手の腕を引いててちてちと入ってきたのは、幼いながら精いっぱい大人っぽく見えるよう胸を張った男子生徒であった。緊張だろうか、力んだ手に腕を握られている女子生徒の方は顔をしかめている。

「ぼ‥‥‥俺と、付き合ってくだ‥‥‥くれ!」

「言ったーっ! 言いましたよ先生!」

「声を落とせ、桑原円佳! ともあれよくやったぞ少年!」

 桜の樹の下の二人は幸い、沸き立つ外野に気づいていない様子。

 さあ、どうなる。

「えっと‥‥‥

 ‥‥‥?

 今、なんと‥‥‥?

 少女は少年の腕を振り払い、教室へと走っていく。

「お姉ちゃんの嘘つき‥‥‥」辛うじて聞こえたその呟き。少年は少女を呆然と見送り、やがて打ちひしがれた様子で桜の樹の下を出ていった。

「あれ? おかし‥‥‥ちょ、先生、帰るとか言いませんよね? 待ってくださいよ、泡瀬桜の都市伝説はでっちあげじゃ‥‥‥」

「今のを見ていなかったのか、桑原?」

「確かに今のは、何というかイレギュラーというか、泡瀬桜の効果は発動しませんでしたが‥‥‥待ってください」

「何を勘違いしている?」

 読者諸君、ここまでが問題編。ここからは解決編だ。

「そろそろ物語を畳みにかかろうか」


                ※※※


「こっちです。待ってましたよ、吉野さん」

 桑原円佳は走ってくる吉野に手を振った。

「早乙女先輩の居場所が判ったって、本当ですか!?」

「さあ、私にも何が何だか‥‥‥先生、よろしくお願いしますよ。頓珍漢なこと言ったらただじゃおきませんからね」

「退部処分、か?」

「だといいですね」

 こほん、と咳払いをして吉野少女の方に向き直る。

「早乙女先輩が最後に目撃された場所がここ泡瀬桜、厳密にいえば樹の下だと君は言ったね。噂の出どころは判らない、と。僕は探偵じゃないから、理詰めで完璧な結論を導き出すことはできない。僕は小説家だ。今からするのは、これなら説明がつくというこじつけにすぎない。しかし僕は探偵じゃないから、君のプライバシーに踏み込むような野暮はやらないつもりだ。だから事情は話さなくていいが‥‥‥君、

 桑原円佳が「は?」と言いたげな顔を向ける。

「行方不明になるのを目撃するって‥‥‥どこかに出かけていくのを見かけたってことですか? ちょっと想像しづらいというか」

 いいや違う、と答えてから、吉野少女の表情を見ようとしたが、黙ったまま俯いていてよく分からなかった。

「君が、早乙女先輩を消してしまった。そんなところじゃないかな」

 吉野メイは、吹っ切れたように顔を上げた。

「その結論に至ったってことは、やっぱりそういうことなんですね」

「ああ。早乙女を呼び戻す方法も、恐らく判った。試しに、とは言わない。覚悟して、君がやったことの逆をやるんだ。僕らは離れている。桜の下で考えると良い。手助け以上の事は僕らの仕事の範疇外だったよな」

「うわ先生、引っ張らなくても歩けますって。離れればいいんでしょ離れれば」

 その代わり、説明をしてください。

 泡瀬桜の樹の下を出て、ようやく確信にいたった仮説を話す。

「怪異と科学は表裏一体、だったな。吸血鬼と蝙蝠が特性を共有するように、泡瀬桜は桜の特性を持つ。恋愛成就の効果は桜の花由来のエフェドリンによるものかもしれない、と言ったのを覚えているか?」

「告白が成功するのではなく、桜の興奮作用によって拒絶ができなくなる‥‥‥でしたっけ?」

 そうだ、と頷いて続ける。

「泡瀬桜の効能が花から放出されるエフェドリン由来だとすると、その効果は‥‥‥

 人の正常な判断力を奪う桜。その樹の下で断れないのは「告白」ではなく、もっと大きな括り‥‥‥「依頼」、あるいは「願い」かもしれない。

「僕が初めて君と出会った時、君は桜の樹の下から出てくるよう言った。すると足が勝手に動いて、結果として僕は転んでしまった。自分でも止められなかったんだ」

 怪訝そうな桑原に、しかしだ、と続ける。

「部室で吉野少女に僕の立場を信じ込ませるのを見たばっかりに、最初の場面で僕の足が勝手に動いたのも君の能力だと誤解してしまった。そして君は能力を使っていなかったから、僕が慌ててすっ転ぶ粗忽者に見えたんだ」

 あれこそ、泡瀬桜の能力だったんだ。

 手の届く限り、あらゆる願いを無差別に叶えてしまう桜。

 桑原円佳はいまだ釈然としない表情でいる。

「泡瀬桜は恋愛スポットとして確立しています。それはつまり、今回みたいにうっかり条件を満たしてしまい、告白の受諾以外の依頼に同意なき同意をさせられた人が、ただの一人もいなかったことを意味します。それって‥‥‥考えにくくないですか?」

 その点は引っかかっていた。二人きりで、名前を呼び、依頼する。この発動条件の緩さを鑑みても、これまで暴発して真の効果を現さなかったとは考えづらく思える。しかし、解決のヒントは泡瀬桜の伝説の語りにあった。

「噂が先か、実態が先か‥‥‥まさしく、場所に心理が支配されていたんだ。恋愛スポットで、恋愛とは無関係の願いをする人間がいるか?」

 恋愛スポットとして確立しすぎてしまった泡瀬桜のもとにカツアゲを迫る不良などが来るはずがない。

 桑原円佳はまだ納得していなさそうだった。

「うーん、まあいいでしょう。先生の足を無理に動かすなんて芸当は私にはできませんから、確かにその仮説で辻褄は合いますし。しかし‥‥‥大きな穴があります。最初の場面で、私は桜の樹の下に入っていないんですよ。先生一人だけが桜の樹の下にいた。これでは泡瀬桜の噂と矛盾してしまいます」

 泡瀬桜の樹の下に、ふたりっきりでいる場合に限り。

 乞い願われたその人は、決して首を横には振れぬ。

 核心をついたつもりだろう、桑原円佳は笑い始めた。

「いや、面白い推理でしたよ探偵さん。でも詰めが甘かったですね! 名探偵破れたり! かっかっか!」

「何キャラだよ」

「私、実は黒幕ですから」

 適当なことばっか言いやがって。気を取り直して話に戻る。

「まさにそこだ。それが仮説をずっと否定していたんだよ。だが‥‥‥エフェドリンで興奮している人間に頼みごとを聞かせるのに、桜の内も外も関係ないと思わないか?」

 桑原の笑みが消える。犯人ごっこも堂に入ってきた。

「謎めいた言い方はやめてください。どういうことですか?」

「確かに君は桜の傘の下には入っていなかった。しかし桜の樹の下には、二人いた。思い出してくれ、春の桜は誰が宿る樹なんだったかな?」

 吉野少女の方に目をやると、まだ桜の外で立ち尽くしていた。

「そう、


                ※※※


 長閑な。遥かな。雄大な。そんな形容詞が似合う先輩だった。凡人のことなど歯牙にもかけず、ただそこに在って時に吹きすさぶ。

 春一番の戦乙女。縦横無尽、傍若無人の突風。

 おそらく部員の皆も同じように思っていたのだろう。その輝きは、部長の座を退いてなお誰にとっても鮮烈すぎた。

 部長にはされるものではなく、なるものだと思っていた。そう思っていたかった。

「早乙女先輩は良かったよね」

「しっ、聞こえるよ。それはそうと、今日は来るのかな」

「来ないでしょ。あの人には練習なんて必要ないよ」

「なんで昼休みにブラシかける必要があるの」

「早乙女先輩来てくれないかなあ」

「吉野、早乙女は今日も来ないのか? 仕方がないやつだなあ。でもお前は現部長なんだからよ」

 部長だから、何。

 練習が要らないって、仕方がないって、何。

 答えが欲しいわけではないのに、そんな疑問を繰り返す。

 気が向いたら顔を出して、魅了するだけしたら気の向くままにどこかへ流れていく。私こそ毎日、部のことを考えているのに。

 遠慮ない西日から目を逃がし、その春の日の放課後に、私はブラシをかけていた。ブラシが弾み、土ぼこりが舞い上がって、空気に吸い込まれていく。

 一人。

 大半の部員は珍しく顔を出した早乙女先輩と先に帰ってしまっていた。いや、この言い方では不公平だ。自主練をするからと言って、所定時間後も私だけ残っているのだ。皆がいそいそと鞄を背負って校門の方へ消えていったあの場面が、なぜか頭を埋め尽くす。本当に練習したかっただけだ。私がいれば元部長にじゃれつきづらかろうなんて気を利かせたわけじゃない、と頭を振る。

 結局、自主練にも身は入らなかった。部長から部長へ継承される苺の振動止めをさっさと隠すように、冷やっこいラケットを袋に入れる。口を絞って肩にかけ、私も校門へ向かう。歩くたびにラケットがふくらはぎに当たって痛い。

 早乙女先輩は今日も凄まじかった。手首から一直線に放たれる、レーザーのような基本のフォアハンド。ラインに突き刺さるジャックナイフ。テンプレ通りのボレーで受け流すと、速攻で詰めてネットを掠めるライジングショットで脇を抜かれた。

 もう、ないまぜだ。重くなった何かが頭を揺らす。

 泡瀬桜の傘の下を突っ切ろうとしたところで、尽きた。

 どんな告白も可能にする泡瀬桜。校庭に誰もいないのを確認して、隆々と逞しい幹に背を預ける。無数の腕は優しく私を包む。

 ああ。こんな告白も、受け入れてくれるのだろうか。

「早乙女先輩なんか、見たくない」

 ざわ、と枝が風に揺れた。

 ‥‥‥私はなんてことを言ったのだろう。

 最悪の気分でへたり込むと、幹の影で人の気配がした。


 緊張が走る。ざっと足音が響き、反射的に左を見れば、誰かがそこにいた。見飽きた背格好。

 早乙女先輩だった。

 逆光で表情が読み取れない。何か口が動いたように見えた。

 違うんです。違わない。

 居たんですね。そうじゃない。

 どうしてここに。何を言えばいいんだろうか。その答えも見つからないままの私に、早乙女先輩は両手を広げて駆け寄ってきた。思わず目をぎゅっと閉じたが、一向に殴られも抱きつかれもしなかった。

 恐る恐る瞼を緩めると、そこに早乙女先輩はいなかった。嘘みたいに、忽然として消えてしまっていた。

 枝花から漏れた西日の鋭さがさっきまでそれを遮っていたはずの早乙女先輩の記憶を保証していたのに、それも徐々に曖昧になっていく。私は呆然と上を見ているばかりだった。眩しさなんて、気にならなかった。夢、だろうか。

「あれ? おーい、吉野じゃん」

 混乱をかき消す声に目をやると、手を振って走ってくるのは梅村だった。

 こんな時でも動悸が激しくなる。ひどい顔をしてはいないだろうか。いつも通りに見えるだろうか。いや、早乙女先輩はどうなった。確かに今この瞬間にいたはずなんだけれど。梅村は誰かを探すようにきょろきょろしていた。

「テニス部は今帰り?」「そんなところだよ」

 みんなはもう早乙女先輩と一緒に帰っちゃっていないけれど。昔から親しんできた声に、わずかながら安心する。

「そっか‥‥‥あのさ吉野、早乙女先輩見てない?」

 今度こそ、殴られた。地面が頼りない。空気が薄いかも。いや、ちょっと良くないな、体調が。

 泡瀬桜の樹の下で、早乙女先輩を探すってことは‥‥‥。脳はやめろ、と警鐘を鳴らすのに、しまいまで理解を進めてしまった。

 あんたなんか、早乙女先輩なんか‥‥‥

 たった今発したはずの自分の声は、何度も録音し直したような違和感があった。荷物を抱えて立ち上がり、それじゃ、なんて付け足して、顔を見られないように逃げ出した。


                ※※※


「泡瀬桜の樹の下には、ここ最近ずっと早乙女がいた。もっとも、姿は見えない状態‥‥‥俗な言い方をすれば、恐らく透明に近い状態になっていたがな。経緯は吉野少女にしか判りようもないが‥‥‥まあ、結果を見ればどういう『依頼』をしたのか何となく察しはつくだろう。桑原と出会った場面では、桜の下は僕と早乙女の二人きりだったから、泡瀬桜の条件は満たしていたのだ。だから僕の足は桑原の言葉によって自由を失った。一方、さっきの少年が告白に失敗したのは、桜の下に少年少女、それから早乙女の三人がいて、泡瀬桜の発動条件を満たさなかったからだ」

 なるほど、と桑原は膝を打った。

「桜という名前は春の神、サ神の坐というところから来ているという話をしましたが‥‥‥神童の早乙女さんも、初めからずっと桜に宿っていたのですね! ‥‥‥でも、どうしてでしょう。透明化の解除が目的ならば、桜を出れば済むことでしょうに」

「野暮な奴だな。国語の勉強は順調じゃないと見える」

 桜を出る機会はいくらでもあったはずだ。桜の樹の下を出ればすぐに、「消えてほしい」という依頼がもたらす透明化なんて解除される。しかしそうはしなかった。

 その意味は。


                ※※※


 その意味は。

 私の心を、問い直すため。

 私に、解決の機会を与えるため。

 恋人たちがわざわざ泡瀬桜のもとにやってきて愛を確かめ合うような、そんな通過儀礼イニシエーション

 覚悟は決めた。揺れ動く心を静めるには十分すぎるほどの時間がたった。

「早乙女先輩」

 柔らかな風に枝が揺れ、こらえきれなかった花びらが舞い散る。


『出てきてください。早乙女先輩には消えてほしくありません』


 風が騒ぐ。指を組んでひたすらに祈る。どうか、早乙女先輩を返して。

 しかし、何も起こらなかった。


 もう、だめか。そう思ったところで、花弁がゆすりあって奏でるざわめきの中に、くすくす笑いが混じるのに気づいた。幹の影から人の気配がする。

 軽快な足音の方を見れば、あの日と同じく西日で逆光になっている早乙女先輩がそこにいた。

「ぱっと出てきても良いんだけどさあ、せっかくだしちょっと意地悪してやろうと思ってねえ」

 ああ、ほら、泣くんじゃないよ。

「早乙女先輩、わ、わた‥‥‥」

「サボる口実もできたし、ずっとお花見してたんだよ。量産品だ、判で押したようにありきたりだなんて言われるけどさあ‥‥‥」

 幹に手をやり、上を見上げる。

?」

 その言葉に、堰が切れた。

「ああ、ほら、泣くんじゃないって。顧問に怒られるだろ、あたしが」

 そう言いながら、早乙女先輩は私の身体を包んだ。背中をぽんぽん叩かれる。いつも顧問に怒られているのは私です、サボるのもいつもの事じゃないですか。早乙女先輩の胸の内で、私は言いたいことを我慢せずぶちまけた。

 いつまでそうしていただろうか。

 早乙女先輩はやっと腕をほどいてくれた。

「しかし、泡瀬桜がこんなシロモノだったとはなあ。せっかくだし、泡瀬桜の代わりにこの早乙女様が吉野の願いを聞いてやんよ」

 ひとつだけな、と付け加えてニシシと笑う。

「‥‥‥部活」

「部活? それがなんだって‥‥‥」

「部活に毎日来てください。夏の引退まで」

 早乙女先輩はとても嫌そうな顔をした。

「桜の下を出たら反故にするかもよ」

「願いを聞いてくれる流れじゃないんですか」

「流れなんて曖昧なもので、この早乙女様が縛られると思うなよ」

「それじゃ、泡瀬桜の効果には頼りません。部長命令です」

 早乙女先輩は腕を組んでしばらく動かなかった。それから腰に手を当てて、見たいものがないから仕方がないとでも言うように、咲き誇る花弁を雑に仰いではっきり言った。

「仕方ないなあ」


                ※※※


 後日談というか、今回のオチ。

 吉野少女は変わらず部長として部活動に励んでいる。早乙女はなんと、あれから欠かさず部活に来ているらしい。中原紫苑によれば、早乙女に言うことを聞かせられたという事実が、部員の意識に変化をもたらしたという。何をやっても文句を言われていた状況は、一変とまではいわないものの、ある程度の改善を見せているとのことだ。誰もブラシ当番をバックレることは無くなり、顧問も吉野少女に一目置くようになった。結局早乙女への命令が吉野を介して行われるという状況は変わらないが、それまでよりも何かが健全になった。そう聞いた。

 吉野少女は堅実な技術をもとに、自分から攻めるのではなく相手の攻めをいなすスタイルを身につけたようだ。攻めの早乙女、守りの吉野。無敵の矛に鍛えられた盾に、見栄えのする二つ名がつくのも時間の問題だ。

 梅村少年は早乙女が見つかるやいなや、すぐさまリベンジに挑んだらしいが、あえなく玉砕したとのことである。桑原はこれで吉野少女の方とくっつくかも、と鼻息を荒くしたが、僕から見れば吉野少女の熱っぽい視線は早乙女の方に向けられているような気がしてならなかった。


「編集くん、コーヒーは美味しいかい?」

「いつもより美味いですよ。店員が変わったのかな。しぶとい酸味が無くて、いつもよりまろやかです」

「へえ、そいつは良かったな。桑原円佳に感謝だ」

「くわ‥‥‥? ええ、順調な進捗はコーヒーによく合います」

 嫌味のつもりだろうか。僕は編集くんのとは違って、塩の入っていないアメリカンを啜った。いつも通り、酸味だけを舌に残す白湯だった。

「それで、泡瀬桜はどうするんですか? 話を聞く限り、そんなやばいもの放置していれば事件は再発しそうなものですけれど」

 編集くんは身を乗り出して聞いた。

「なに真に受けてるんだよ。こいつは次回の小説のプロットだよ?」

「いや、オカルトマニアの僕から見ても興味深いお話で、つい。先生、こういう話向いているんじゃないですか? 読めますよ。日常パート以外はやっぱり粗削りですが」

 その言葉を真正面から受けとれず、窓から通りを見やった。個性豊かな歯車たちが、今日もきっちり回っている。

「心境の変化、だろうかね。ソメイヨシノだって悪くないって、ある人が言ってくれたのさ」

「はあ‥‥‥?」

 名桜は、ソメイヨシノでないことを確認したうえで認定されるものではない。投げたところがストライク。そんな勝手も、桑原に比べれば可愛いものではないだろうか。

 読者や打倒毬月を意識するのであれば、あの事件をそのまま写し取って書くべきだったのだろう。しかしあの泡瀬桜の事件は、多少プロットの参考にするものの、キャラメイクやセリフ回しは自分ですべて考えることにした。立ち昇る違和感やぎこちなさを編集くんは一瞬で看破したが、プロットだけでなく書き出しもおおよそ褒めてくれたのは大きな自信につながった。

「でも桜は残しちゃマズいでしょう。何か処分方法は考えていますか? 一番簡単なのは、桜を燃やしたり切り倒したり‥‥‥蛇足ですかね」

 僕もそう考えたんだが、と喋ってフォークに刺したミニトマトで小休止を入れる。

「蛇足だな」

 蛇足だ。それにそれは‥‥‥僕のアイデアじゃない。


「なに解決編が済んだって顔してるんですか?」

「済んだだろ。依頼は完遂した。ここから何をやろうと言うんだ」

「むしろ問題編が終わったところですよ。泡瀬桜の実態を常識担当さんが暴いただけです」

 それもそうだが‥‥‥。確かに今回のような事件が再び起こらないとも限らない。今年の桜はもうすぐ散って落ち着きを取り戻すが、春が来るたびにこの桜はその下にいる人間の願いを叶えてしまう。しかし、どうする。

「良い考えがあります」

「素晴らしい。さすが我らが部長さまだ」

「あれ、いやに言霊の効きがいいですね」

 ‥‥‥え。皮肉交じりのはずだったのだが‥‥‥心のどこかで崇拝させられていた? いつからだ?

 背筋をぞっとさせる僕に冗談ですよ、と桑原は笑って質問した。

「先生、桜の弱点って何ですか?」

「‥‥‥あ、ああ。そりゃ植物なんだし、火とか傷とか毒とか‥‥‥」

「ぜんぜんダメです。そんな大っぴらなこと、バレたら退学じゃ済みませんよ。私は全ての七不思議を解決するまでこの学園を出るわけにはいきません」

「うーん‥‥‥そうだ、桜は特にストレスに弱いって聞いたことがあるな。それと土が硬いと呼吸しづらいとか。即効性はないが‥‥‥」

「それです」

 桑原円佳の魂胆は翌日の昼休みに明らかになった。

『お昼の放送は以上、担当は放送委員の‥‥‥え、誰!?』

 物音がしたかと思うとやがて静寂が訪れ、マイクを叩く爆音が響いた。

『あーあー、聞こえてますか? 中等部三年、オカルト部部長、あらゆる怪異の‥‥‥なんでしたっけ。まあいいです、非常識担当の桑原円佳です! 皆さんご存知、あの泡瀬桜の噂に変更点がありますので、よく聞くように。耳を塞いでいる人がいたら無理やり聞かせるように』

 お茶を噴出した僕は、同僚に変な目で見られた。いやいや、おかしいのはそっちだろ。今まさに放送がジャックされているのに、どうしてそんなに落ち着いていられるんだ。

『『泡瀬桜の枝に願いを書いた赤の短冊を吊るせば、0.1%の確率で成就いたします。なお法に触れるような願いは裏目に出ますこと、ご注意ください』。事務連絡です。オカルト部は近隣のスーパーから短冊を買い占めました。七夕シーズンでもないのに短冊を買える場所はオカルト部だけです。ペンは使い放題、タコ糸付き。一枚50円でお売りします。脚立のレンタルは一回100円でございます――以上、オカルト部部長、桑原円佳でした!』

 効果はすぐに表れた。桜の樹の下には常に人だかりができるようになった。

「出鱈目を信じ込ませるには根拠が必要だったんじゃなかったのか?」大量の小銭を数えながら聞いてみる。短冊等の収益の両替をさせられていた。

「七夕短冊と願いをかなえるオリジナル泡瀬桜がモデルになっています。オリジナル泡瀬桜の噂はこの学園では常識レベルに浸透していましたし。まあ、私の能力は実体そのものを変えるようなものではないので泡瀬桜の効果は残ったままですが、これでよっぽどのことが無い限り、条件を満たしてしまうことはないでしょう‥‥‥はい、これでジャスト一万円です」

「僕は鵜呑みにしないからな、確認させろ。そこ、脇に置いとけ」

「はい、ドーン!!」一生懸命数えていた小銭の山に、桑原円佳は新たな山をぶち込んだ。

「何しやがる!?」

 あーあ。

 気分転換に部室の窓を開け、泡瀬桜を望む。

 桜のストレスの原因は、呼吸困難と枝への負担。枝にべたべた触られ、押し寄せる人の足と脚立によって地面が踏み固められ、泡瀬桜は今すぐとは言わずともいずれ枯れてしまうことだろう。ところどころ短冊で真っ赤に彩られた泡瀬桜を遠目に見て、笑いだしたいような泣きたいような、弱ったような興が醒めたような‥‥‥ああ、こんな表現はどうだろう。

 春の気分が湧き立つのだった。


「で、先生。そろそろ白状してもいい頃合いじゃないですか」編集くんが見透かしたような目をする。

「なんのことだか」

「新作の主人公は学校の事務員。ずいぶん仕事の描写が細かいですねえ。さすが先生です」

 やれやれ、細かいところに気の付くやつだ。

「副業を始めた。意外だろうが、なんと学校の事務員だ」

 編集くんは溜息をついた。レンガの家でも吹き飛びそうな溜息だった。

 桑原との約束を果たすには、違和感なく学校に溶け込む必要がある。いくら桑原が適当なことを言ってごまかせると言っても、毎度それをやっていてはキリがない。そこで事務員に応募したところ、見事採用。ついでに、オカルト部顧問を任されたのだった。ここらへんの根回しに、桑原が一枚噛んでいるのは自明であった。

「そういえば聞いていませんでした。どこの学園ですか」

「夜弐鰐学園」

「え」

 編集くんは目を見開いた。

「知っているのかい」

「知ってるも何も、母校ですよ。前に、オカルト部に所属していたって言ったじゃないですか」

「じゃあ何だい、本物のOB!?」

「ええ、こんなことってあるんですね‥‥‥でも」

 編集くんは首を捻った。

「そんな桜の樹なんてあったかな‥‥‥?」


 喫茶店からの帰り道、あの日のことを思い出す。赤に染まっていく泡瀬桜を眺めながら、つい聞いてしまった。

「なあ桑原、あの時はああ言ったが、やっぱり早乙女が桜の樹の下に残ったのっておかしいと思うんだよ。だって‥‥‥正しい泡瀬桜の伝説を知っていなければ、つまり流通している噂じゃなくて、僕たちが今回初めて解き明かしたはずの効果を知らなければ、あの行動をとることはできない」

 うっかり桜の樹の下から出て透明化が解除されれば、再度桜に入っても二度と姿をくらますことはできない。つまり早乙女は一度たりとも、桜の下を出ようとしなかったのだ。それに、姿が消えていても自分の存在を示すことはできたはずだ。透明になってしまっても声を出さず指も触れず、吉野が再び現れて自分を解放してくれるのを待ち続ける。そんな行動は、とれないはずなのだ。

 桑原円佳はこちらを見ないでゆっくりと頷いた。

「私もそう思って早乙女さんに聞いたんです。確かに彼女は泡瀬桜の真相を知っていた。でも、誰に聞いたかを思い出そうとしても無理だそうです。七不思議のどれかを利用すれば、あるいはそんなことも可能かもしれませんが」

 ねえ先生。

「この学園には‥‥‥私以上に七不思議に精通している人がいる。気を付けてくださいね」

 全知全能の私以上ということは、必然的に私と同格という意味ですから、と冗談めかし、笑って僕の肩をはたくが、力が入りすぎていた。

 ひょっとすると。

 図らずも漏れたようなその呟きが気になったが、桑原のいつにない真剣な表情を前にし、どういう意味かは尋ねられなかった。

                             【一:泡瀬桜 完】

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