第2話『それでも、世界は回りはじめる』

「やっほー。ひさしぶりだね」


 そう言って笑った少女は、月明かりのブランコでゆらゆら揺れていた。


 その姿があまりに自然で、俺は一瞬、幻かと思った。


 でも、風が木を鳴らす音のなかで、確かにその声は俺に届いていた。


「……誰?、てか、何してんの、こんな夜に」


 つい口にしてから、自分でもバカみたいだと思った。

 こんな時間に、こんな場所で、こんな風に人と話すのなんて、何年ぶりだ?


 少女はいたずらっぽく目を細めて言った。


「……夜の散歩。暇すぎて体が腐りそうだったから」


 そう言った彼女は、ブランコの鎖を握ったまま、空を見上げた。


 夜の空気は澄んでいて、月がやけにくっきりと浮かんでいる。昼間の重さが嘘みたいな、そんな時間だった。


 俺はベンチの背もたれに体を預けながら、ぽつりと口にした。


「夜って、空気が軽いよな。誰にも見られてない感じがして」


「うん。日中よりずっと、自由な感じがする」


 静かな同意だった。


 そのまま、二人の間に短い沈黙が落ちた。


 その沈黙を破ったのは、俺だった。


「……でもまあ、自由だからって、特にやることもないんだけどな」


「ふふ。じゃあ普段はどんなふうに過ごしてるの?」


「えーと……朝起きて、動画見て、SNS見て、冷蔵庫開けて、閉じて、動画見て、SNS見て、寝ようとして、動画見て……」


 そこまで言って、自分でも笑ってしまった。


「無限ループ?」


 少女が首を傾げながら言う。


「そう。ソーシャルディスタンスを地で行く生活」


 少女は、くすっと笑った。


「じゃあさ、そのループを止めに来たのかもね、私」


「その割に、やる気なさそうな登場だったけどな。ブランコでくるくる揺れて」


「やる気出してたら、逆に怪しいでしょ? 天使か詐欺師かってなるじゃん」


「じゃあ、どっち?」


 聞き返すと、少女はちょっとだけ考え込む素振りをしてから、にやりと笑った。


 何それ、と思いながらも、なんだかその笑顔が可愛かった。


 名前も、素性も、わからない。

 でも、俺が今この瞬間、誰かと笑って会話してることが、何よりも異常で、何よりもありがたかった。


「……あのさ、名前聞いてもいい?」


「瑠璃。ひらがなでもカタカナでも、好きな方でどうぞ」


「名前に自由度があるタイプなんだ」


「時代だから」


「なるほど?」


 口数が少しずつ増えていく。


 まるで冬の水道が、少しずつ温まっていくみたいに。


「凪くんは?」


「……なんで名前知ってるの?」


「いや、さっきから顔が“凪”って感じだったから」


「どんな顔だよ」


 思わず吹き出した俺を見て、瑠璃はまた、くすくすと笑う。

 ブランコが揺れるたびに、彼女の黒髪が月明かりをすべって落ちていく。


 この距離感。

 どこか懐かしいような、でも確実に“初めてじゃない感じ”がする。


「会ったこと、ある?」


 自然に、そんな言葉が口をついた。


 瑠璃は一拍、間を置いてから言った。


「あるような、ないような。でも、今こうして話してるんだから、それでいいんじゃない?」


「便利な理屈だな」


「理屈より、空気派だから」


 また風が吹いた。

 俺は、ポケットに入れっぱなしだったスマホを指でなぞる。

 通知は、ない。


 でも、今夜はそれでもいい気がした。


「なあ、瑠璃」


「なに?」


「……またここに来てもいい?」


 瑠璃はちょっとだけ驚いたような顔をした後、にっこりと笑った。


「うん。凪くんが来たいなら、来ていいよ」


 その返事が、やけにあたたかくて。

 俺の中の、何かがほんの少し、動いた気がした。


 止まっていた時間が、回り始める音がした。


——この夜を、ちゃんと覚えておこう。

 そう思った。

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