六月の蛍火

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六月の蛍火


六月の終わり、雨上がりの夕暮れ。空は紫と橙のあいだをさまよい、田んぼの水面がその色をゆらゆらと映していた。


紗夜(さよ)は傘を閉じ、足元のぬかるみを避けながら、ひとりで小道を歩いていた。小学校の裏手にある、もう誰も使わなくなった木の橋――その橋のたもとに、毎年この時期、“蛍の精”が現れるという噂があった。


「今夜こそ、会えるかな……」


子どもの頃、祖母に聞かされた話。けれど祖母はもういないし、その話を信じる人もいなくなった。


橋のそばに立つと、風が音もなく頬をなでた。すると――


ふわり。


水面の上に、小さな光が灯った。ひとつ、またひとつ、そして十、二十……やがて無数の蛍が、音もなく紗夜のまわりに舞いはじめた。


「――来てくれたのね」


そのとき、小さな声が風に乗った。


「ありがとう、忘れずにいてくれて」


光の中から現れたのは、白い着物をまとった少女。顔立ちはどこか懐かしく、声はまるで夢のようにやさしかった。


「わたしは、蛍がこの地に集う理由。昔、この川で流された子どもだった。でも、人の心がぬくもりをくれたから、こうして光になれたの」


紗夜は何も言えず、ただ見つめていた。


やがて夕焼けは夜に染まり、蛍たちは一斉に天に昇るように舞い上がった。光の少女も、静かにその流れに溶けてゆく。


「来年も、待ってるね」


その声とともに、あたりはもとの静けさを取り戻した。


紗夜はそっと橋を渡りながら、小さく笑った。


「うん、また来るよ」


その胸の奥には、夕闇の中に灯った、たしかな光が残っていた。

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六月の蛍火 sui @uni003

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