雨音ニ響ク夏ノ予兆
ボーズ
第1話
梅雨の入り口、六月。神田のオフィス街を後にし、駅へと急ぐ私の足は、じっとりと湿ったアスファルトを捉えていた。空は鉛色に重く垂れ下がり、その重みに耐えきれなくなったかのように、ぽつりぽつりと雨粒が落ち始めた。はじめは遠慮がちに、やがて本降りの様相を呈してくる。傘を差す人々が慌ただしく行き交い、その中を私は、まるで透明な膜に覆われているかのように、ただ黙々と歩を進める。三十を過ぎた私の日常は、この雨粒のように規則正しく、しかし常にどこか不確かで曖昧なものだった。
繁華街のネオンが、雨に濡れた路面に滲んでぼんやりと光を放つ。赤や青、黄色といった原色が、水溜まりの中で揺らめき、まるで別の世界の入口を照らしているかのようだ。すれ違う人々は様々だった。傘を寄せ合い笑いさざめく若いカップル。疲れを滲ませながらも、どこか諦めにも似た表情で家路を急ぐ同年代のサラリーマン。スマートフォンの画面に目を落としたまま、水たまりを避けずに跳ねる学生たち。彼らのざわめきや笑い声、あるいは無言の足音が、雨音に溶け込み、一つの大きな響きとなって私の耳に届く。
じんわりと汗ばむ肌に、雨が当たる瞬間、微かな冷たさを感じる。それは肌寒さとは少し違う、形容しがたい感覚だった。昼間の蒸し暑さがまだ空気の底に残っているせいか、体温が奪われるというよりは、むしろ肌の表面を撫でるような優しさすら覚える。アスファルトの匂い、雨に濡れた土の匂い、そしてどこからか漂ってくる飲食店の残り香が混ざり合い、湿った空気に独特の香りを添える。
ふと、顔を上げて空を見上げた。日の傾きは遅く、まだ黄昏には遠い。しかし、雨雲の向こうに、微かに空が薄明るくなっているのが見て取れた。その淡い光の帯に、私の心は奇妙な予感に満たされる。この雨が、このじめじめとした季節が、やがて去り、あの突き刺すような真夏の日差しがやってくるのだ。汗が流れ落ち、蝉の声が耳に響き、太陽が容赦なく降り注ぐ季節が。
雨音は、その予兆を告げるかのように、私の耳奥で響き続ける。まるで遠い記憶の扉が開くような、懐かしい響きだった。それは、過去の夏を呼び起こすと同時に、来るべき夏への期待と、ほんの少しの不安を掻き立てる。私の足は、無意識のうちに速さを増していた。駅の改札へと吸い込まれるように進む。この雨が止んだ時、そこにはもう、紛れもない夏が到来しているに違いない。私は、その予感を胸に、傘の雫を払いながら人波の中に消えていった。
雨音ニ響ク夏ノ予兆 ボーズ @namakokokinoko
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