御手洗真琴と刺さらぬ注射針

遥群

第一章 匿名にて失礼します


 その日も、御手洗みたらい真琴まことの事務所は静かだった。

 例によって、燃えているのは外界だ。主にインターネットである。

 発端は、昨日投稿された一行の文章だった。

 《あの作家の新作、読んだけど酷いな。文章は軽薄、トリックは幼稚。読む時間を返してほしい》

 それは彼なりの誠実な批評であり、結果としては炎上の着火剤となった。

 たいていの言葉は、文脈より速度で読まれる。毒を吐けば炎上し、褒めても炎上し、黙っていても炎上する。つまり誤解の才能が世界を駆動している、という話だ。

 午前十一時。

 彼のPCの画面は、既に見事な地獄絵図となっていた。返信欄には簡潔な侮蔑と、脈絡のない人格否定。少なくとも論理の骨組みだけでもあれば読む価値はあるのだが、それすら期待できない。理論に満ちた悪意なら御手洗も歓迎しただろうが、残念ながら今のところ、彼を批判する者の大半は日本語の初歩に難があるようだった。

「人気商売も大変ですね」

 事務所の隅、キャリーケースのファスナーを閉じながら、里中さとなか莉子りこが言った。

 柔らかな声色。けれど、あからさまな同情はない。彼女にとってこれは観察の一環であり、慰める意図は最初から含まれていない。御手洗もそれを心得ていた。

「人気じゃない。敵が多いだけだ」

 眼鏡のブリッジを押し上げ、彼は椅子にもたれた。

 画面の中の怒号が、物理的な距離を越えて脳を侵食してくるような感覚がある。が、それも今日だけのことではなかった。

「理由は、だいたい分かりますけど」

 彼女の表情には、笑っていない笑みが浮かぶ。

 とはいえ、御手洗真琴という人物を、里中莉子は好んでいた。が、信頼しているかと問われると、答えに窮する。たぶん、していない。あるいは、しているふりをしているだけだ。

 だが、それは御手洗のほうも同じだった。

 数年前、大学構内で起きた連続窃盗の件で、二人は出会った。初対面の相手に「助手など要らん」と言い放つような人間が、再び顔を合わせたことを覚えていたのかは不明だ。彼はその程度の記憶すら選別する。合理主義という名の怠慢だった。

 もっとも、里中のほうが多少しつこかった。些細な事件の経緯を新聞で追い、本人の書いた論考を探し、偶然を装って連絡先を手に入れた。そして一言、「現場を見てみたいのですが」と送った。

 返ってきたのは、「現場に行くには靴がいる」とだけ書かれた返信だった。暗喩か冗談か、あるいは単なる嫌味か。それすら曖昧な短文だった。

 とはいえ、その数日後に「荷物持ちがいると助かる」と付記された同行許可が届いたのだから、何かしら引っかかるものはあったのだろう。断らないことが承認かというと、世の中はそう単純ではないが、たまにはそういう理解をしてしまうほうが円滑だった。

 それ以降、彼女は『助手見習い』として御手洗に随伴している。正式な役職ではないし、報酬も交通費程度だが、それでも、いないよりはましだという立ち位置を確保している。今のところは。

 御手洗が一度も彼女の名前を間違えないことだけが、その関係の根拠だった。

 関係と呼ぶには曖昧で、信頼と呼ぶには薄い。けれど、彼は毎回、必ず「里中女史」と口にする。そこに計算が含まれているのか、あるいはただの癖なのかは分からない。

 そして彼女は、その名前で呼ばれるたびに、自分の存在がいったん棚に上げられている感覚に襲われる──評価でも軽蔑でもない、ただ観測対象としてそこに置かれているような。

 だからこそ、彼が興味を持たない『異物』には、こちらが気づいておく必要があった。

 そういったわけで、封筒は今朝届いた。

 印刷ではなく、手書きの宛名。妙に筆圧が強い、ある種の『緊張』を帯びた文字だった。差出人の名はない。消印の地名は──志神町。地図で調べるまで、存在も知らなかった町。

 御手洗はまだ開けていない。あるいは、開けないままで済ませるつもりかもしれない。

 だが、この種の沈黙は長く保たない。いつか誰かが、声を上げる。

「……先生、郵便物が来ています」

「請求書じゃなければ開けていいぞ」

 御手洗はソファの背にもたれたまま、片手で眼鏡のブリッジを押し上げた。いつも通り、機嫌が良いとも悪いとも判別しがたい声音だった。

 里中は頷き、封筒を指先でなぞる。柔らかなクリーム色の紙質。差出人欄は空欄。裏面にわずかに滲んだインクが、古い万年筆のそれを思わせた。

 慎重に開封し、中から便箋を取り出す。そこに綴られていたのは──


 注射針が、どうしても刺さらないのです。

 何人に打っても同じ。

 針が跳ね返る。あるいは、空気に消える。

 けれど、誰もそれを変だと言いません。

 お願いです。先生、調べてください。

 あの町では、何かがおかしいんです。


 里中は黙って文面を二度読んだ。文章そのものは簡潔だ。感情の波に任せたような、破綻しかけた文体ではあるが、それでも一文ずつ、丁寧に並べられている。思い込みの強さと、切実さと、少しの狂気。そのすべてが、行間に滲んでいた。

「読みますか?」

 便箋を黙って差し出すと、御手洗は片手でそれを受け取り、眇めた目で一瞥した。読み終えるまで、わずか十数秒。

 それから、ため息でもあくびでもない、曖昧な息をひとつ吐いて言った。

「……名探偵に頼む手紙がこれか。突飛な現象と感情論の羅列だけ。こういうのは、大体『町で唯一まともなつもりの人間』が書いてる」

「そうかもしれません。けど──」

 里中は言い淀む。だが、御手洗は続けを求めなかった。黙って便箋を二本指で摘み上げ、書類の隅に置いた。

 そのまま沈黙が数秒落ちる。あるいは、どちらも同じ問いに引っかかっていたのかもしれない。

 御手洗は立ち上がり、背伸びをするように両手を組んで天井を仰いだ。

「刺さらない注射針。物理法則を無視した話か、比喩の濫用か、あるいはその両方か。……まあ、暇ではある」

「消印は、……こころざす神で、志神ししん町? でしょうか。知ってますか?」

「いや、聞いたこともない」

 里中はすでにスマートフォンで検索をかけていた。地図アプリを開き、町の位置を確認する。

「……山間部の町ですね。志神ししんちょう。鉄道は通っていますが、本数が……ああ、三時間に一本」

「ありがちだ」

 御手洗は無表情で呟いた。言葉というより、分類だった。封筒、手書きの文面、旧字体の癖、誇張された異常現象、誰にも理解されないという主張。そして、山奥。

 まとめて一括りにして、それを『典型』として、思考から棚上げする。いつも通りの雑な取捨選択だった。

「保健センターの有無と、ワクチン接種の導入状況も調べてみます」

「優秀だな、里中女史」

「先生の五歩くらい前を行きたいんですけど、毎回ずるずる引き戻されます」

「助手とはそういうものだ」

 笑いながら、だが目は伏せて。御手洗はやがて、書棚の前へと移動した。過去の資料のファイルを数冊、手慣れた様子で引き抜く。

 その後ろ姿を見ながら、里中はふと思った。あの手紙の文面に、御手洗が「何か」を引っかけたように見えたのは──ただの錯覚だったのか、あるいはもう、彼は出発する理由を探すまでもなく、決めていたのかもしれない。

「準備、整えておきます」

 キャリーケースの取っ手を立てながら、里中はそう言った。

 御手洗は振り返らないまま、ひとことだけ告げる。

「放っといても腐る頭だ。少し散歩といこうか」

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