第38話 受け継がれる志、時を越えて
政務庁舎の一角、記録局の静かな部屋に、紙をめくる音が響いていた。
配属から三ヶ月目を迎えた女性官吏、アデル・ノルテは、昨年押収されたレザン公爵家の文書整理にあたっていた。
山積みにされた帳簿類の中から、アデルが丁寧に付け直していたのは、「領主補助金調整費」と記された薄手の台帳。
「この帳簿、日付が……奇妙ですね」
彼女はふと眉をひそめた。補助金の支給記録が断続的に抜けている。また出所不明な入金が暗号化のような記号とともに記録されている。
その日付と地域名――「西方第二管区・ドルメン領」とある記載を見た瞬間、ある過去の報告書の記憶がよみがえった。
「もしかして……これって……!」
アデルは記録局の上席に急ぎ報告した。そこから事態は急転する。
* * *
マリアベルは、執務中にヴァレンティスからの招集を受けた。
「見せたいものがある」とだけ告げられた簡素な召喚だったが、その声には、どこか意味深な響きがあった。
宰相室に入ると、ヴァレンティスは机の上に一冊の帳簿を広げていた。
「……お待たせして申し訳ありません。何か、ありましたか?」
マリアベルが問いかけると、宰相は無言のまま一枚の書類を差し出した。
それは、昨年レザン公爵家の捜査で押収された帳簿類の中から再分類された新資料の写しだった。
彼女は目を通した瞬間、血の気が引いた。
「……この記録……まさか……!」
「そうだ。君がかつて追及していた、ドルメン伯爵家による補助金の不適正使用――あの時、抜け落ちていた“三ヶ月分”が、ここにあった」
ヴァレンティスの声は、わずかにトーンが高く、喜びと確信が滲んでいた。
マリアベルは言葉を失い、しばし沈黙したのち、静かに呟いた。
「……この証拠があれば、伯爵家の横領は明白になります」
「その通りだ」
ヴァレンティスは椅子にもたれ、表情を和らげた。
「レザン公爵は、様々な貴族の不正や裏金の証拠を“ネタ”として集めていたらしい。まさか、君が敗北を喫したあの案件の証拠まで含まれていようとは……我々にも予想外だった」
「……私が任務から引かざるを得なかった、あの敗北が……ようやく、報われるのですね」
マリアベルの言葉には、過去への悔しさと、静かな安堵が混じっていた。
ヴァレンティスはゆっくりと頷いた。
「正義は、遅れてやってくることもある。だが、それでも誠実に働き続けた者には、必ず光が射すのだな……」
「ありがとうございます、ヴァレンティス宰相……」
「いや、私が礼を言いたい。
あの時、君が折れなかったからこそ、今この国が変わり始めている。これは、君の“信念”が導いた結末だ」
その言葉に、マリアベルは深く頭を下げた。
かつて“敗北”とされたあの日の悔しさが、今、時を越えて報われたのだ――誰かの手でではなく、自らの背中を見て育った官吏たちと、同じ志を持つ者たちによって。
マリアベルにはもうひとつの想いもあった。
父からの贈り物である黒いペンで書いた報告書に対する訂正。
想いや父の仕事の成果を汚してしまったようなあの敗北が覆ったことが嬉しかった。
* * *
「今回の発見は、記録局官吏アデル・ノルテの功績と認め、庁内で表彰されることになりました」
報告を受けたマリアベルは、小さく微笑んだ。
(あの時、私は悔しくて……それでも進むしかなかった。
でも今日、この手でなくても、私の志を受け継ぐ誰かが、あの真実を明かしてくれた)
「よかった。わたしからもアデル嬢にお礼を伝えさせてください」
* * *
過去の真実が証明されたその数日後、マリアベルにとってもうひとつ嬉しい知らせが届いた。
「クラヴィス公爵家の次期当主として、ディラン・クラヴィスを迎えることをここに認める」
マリアベルの従兄であり、幼少期から父から領地の仕事を受け継いできた従兄のディランが、ついに正式に家を継ぐこととなったのだ。
マリアベルの結婚に伴って後継者不在となっていたクラヴィス家にも、新たな未来が訪れた。
「マリアベル。あなたの活躍や婚姻で、私もようやく“クラヴィス家”の名を背負う覚悟ができました。
私も“鍵”となれるよう、あなたが築いた道に、恥じぬ当主になります」
「……ありがとう。ディラン兄様。これからも、共に未来を守っていきましょう」
* * *
初夏を迎え、秋に登用される新たな『官吏登用試験』の合格発表が行われた。
「男性18名、女性10名――」
全体の合格者数は28名。男女の枠を超え、成績と資質による公平な選抜が行われた結果だった。
かつての制度からは想像もつかない光景に、学問院関係者は感嘆の声を漏らしていた。
「いよいよ本当の意味で、機会が平等になってきたわね」
セラフィーナがそう語ると、アイリスも頷いた。
「でも、これはまだ“始まり”。私たちが繋いできた希望のバトンが、また次へ渡っていく」
* * *
その日、王政事務局では新たなプロジェクトの立ち上げ会議が開かれていた。
会議の主題は――女性参政権に関する制度整備と、数年後の法改正に向けた準備。
マリアベルは議長としてその場に臨み、開口一番、こう語った。
「今日の議題は、数年先を見据えた“未来の布石”です。私たちが目指すのは、一時の改革ではなく、社会の構造を根本から変える長期的なビジョン――“選べる未来”を実現することです」
室内には、新旧問わず意志ある官吏たちの姿があった。
若手女性官吏の姿もあれば、経験豊富な男性官僚たちの姿もある。その誰もが真剣な表情で、マリアベルの言葉に耳を傾けていた。
「法は形です。けれど、そこに宿る“理念”がなければ、人々の心を動かすことはできません。
この国の民が“声を持つ”ことの価値を、私たちは信じたい」
拍手が、静かに、しかし力強く広がった。
* * *
会議が終わり、廊下を歩くマリアベルに、ある若い女性官吏が声をかけた。
「マリアベル様……今日の会議、とても感銘を受けました。私も、変化の一部になりたいです」
その瞳には、かつてマリアベル自身が抱いていた希望と同じ光が宿っていた。
「あなたの声も、必ず未来に届くわ」
そう言って微笑んだマリアベルの背に、再び春の風がそっと吹き抜けていった。
――時を越えて、志がつながる。
それは、彼女が選んだ道の正しさを、静かに証明するものだった。
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