第36話 ライラック香る準備の春
政務庁舎の中庭に咲き始めたライラックが、白い花びらを風に揺らしていた。
初の女性官吏たちは、着任からひと月が経ち、それぞれの職場で少しずつ居場所を見つけ始めていた。
「この表、もう一度チェックしてもらえる? 前回と記載が違ってる気がするの」
「はい、確認します!」
記録局の机に並ぶ女性たちの声には、初々しさとともに確かな手応えが混じる。王政事務局でも、庶務の整理を進めていた若い女性官吏が、同僚からの相談に自信をもって応じていた。
「少しずつですが、質問に答えられるようになってきました」
そう語る彼女に、マリアベルは静かにうなずいた。
王宮の一角で行われた進捗報告会では、男性上席官からも前向きな意見が聞かれ始めていた。
「彼女たちの真面目さと吸収力は目を見張る。正直、ここまでとは……いや、嬉しい誤算でしたな。
これまでの局員達からも気遣いが細やかで仕事が楽になったと言う声も上がっている」
まだ偏見や壁がすべて消えたわけではない。だが、確かに何かが変わり始めていた。
(最初の一歩を、彼女たちが踏み出してくれた。それが次の一歩へつながっていく)
* * *
「マリアベル様、ドレスの最終フィッティングは明日です。予定通り、宮廷縫製室にて」
「はい、わかりました」
結婚式は、いよいよ目前に迫っていた。
報告を受けるマリアベルの背後で、アイリスとクラリッサが小さく拍手する。
「ようやくここまできたわね」
「長かったですものね。……政策案と同時進行の婚礼準備なんて、ほんと、あなたらしい」
クラリッサは微笑みながらも目を細めた。
花の装飾、招待状の最終確認、王宮内の動線整理など、ほとんどを母・カトリーナに任せていたが、やはり最後はマリアベルが参加しなくては進まない。
式に向けた準備は急ピッチで進んでいた。だが、不思議とマリアベルの心は落ち着いていた。
慌ただしさの中にも、確かな温もりがある。
「……きっと、皆が支えてくれているからですね」
「……それもあるけど、あなたが“集める力”を持ってるから、皆が寄ってくるのよ」
アイリスの言葉に、マリアベルは少しだけ頬を赤らめた。
* * *
その夜、王宮の一角にある執務室の隣室――ふたりだけの控えの間で、マリアベルとカザエルは肩を並べて座っていた。
窓の外では、春の夜風に乗って小鳥の声が聞こえてくる。
「マリアベル」
隣に座るカザエルが、ふと口を開いた。
「子どもができたら、どんな未来を贈りたい?」
「……子ども、ですか?」
突然の質問に思わず問い返したマリアベルの頬が、少しだけ熱を帯びる。
「まだ先のことだけど、君となら、ちゃんと考えておきたくて」
カザエルの声は穏やかだった。
マリアベルは、しばらくの沈黙ののち、ゆっくりと答えた。
「選べる未来を……与えたいですね」
「選べる?」
「はい。たとえば――女だから、男だからって、夢を諦めさせないような。自分の望む道を、誇りをもって選べるような、そんな社会であってほしい。そして、そういう国に育てていきたいんです」
その言葉に、カザエルはしっかりと頷いた。
「君らしいな」
「……そう言ってくれるあなたが、私は好きです」
ぽつりとこぼしたその一言に、カザエルは目を見開いた。
ふたりの視線が静かに重なる。ほんの一瞬、マリアベルの頬がゆるみ、彼の肩にもたれかかった。
カザエルはそっとその頭に手を添える。寄り添う温もりに、どちらからともなく笑みがこぼれた。
「私たちに、子どもができたら……」
マリアベルがぽつりと呟いた。
「そうよね。私たちの子どももこれからのこの国の制度に影響をされるのよね。女の子でも男の子でも……」
「もちろんだよ」
カザエルは即座に答えた。
「生まれてくる子どもたちに、“選んでもいいんだ”と思える社会を遺そう。僕たちが、先にその道を作ればいいんだ」
「……うん」
マリアベルはその言葉を噛み締め、静かに頷いた。心の奥に、小さな光がともる感覚があった。
この国の未来は、完成していない。だからこそ――希望がある。
* * *
その夜、マリアベルは日記を開いた。最近は忙しさにかまけて、数行しか綴っていない日も多かった。
ペンを走らせながら、ふと天井を見上げる。
(結婚式まで、あと三日)
重ねてきた日々が、未来へとつながっている。政策のことも、庶民の声も、王家としての役目も――全てを背負うからこそ、彼との愛も強くなったのだと、今なら思える。
(幸せになる覚悟、ちゃんと持ててるかな……)
自分に問いかけながら、そっとページを閉じた。
部屋の窓からは、ライラックの香りがふわりと流れ込んできた。
* * *
翌朝。
政務庁舎の一角では、女性官吏たちの笑い声がかすかに響いていた。
「……なるほど、この書式はこう直せばいいんですね」
「先週よりずっと慣れてるわよ。成長してるじゃない」
職場に、自然な笑顔と敬意が混ざりはじめていた。
研修責任者のヨルンはそんな様子を見て、小さくつぶやいた。
「前例なんて、最初から要らなかったのかもしれないな……」
彼の声に、若い男性官吏が頷く。
「“前例”を作る人が現れた時代なんですよ、今は」
そこに確かな変化が芽吹いていた。
* * *
その日、マリアベルのもとにクラリッサから届いた一通の手紙があった。
《教育の改革も進み、少しずつ未来が変わるのを感じます。
諦めなくてよかった。
貴女のおかげで、私の夢も少しずつ形を変え始めました。
お礼ではないけれど、カトリーナに頼まれて、父の領地から貴女の好きなライラックを式の当日までにたくさん届けます。
何色もある色とりどりのライラック。
“未来を信じる力”を象徴する花として、これほどふさわしいものはないと思います。貴女への愛と感謝を込めて。
クラリッサ・リース》
マリアベルはその言葉を読み、そっと目を閉じた。
(ありがとうございます。クラリッサ様……)
深呼吸をして、彼女は立ち上がる。
――あと三日。
その一歩は、結婚式への歩みであると同時に、
この国の“未来への一歩”でもあるのだと、マリアベルは確信していた。
(私は、未来を選べる国を作りたい。誰かの背中を押せる存在でありたい)
窓の外に広がる空は、どこまでも澄み渡っていた。
そして、彼女の胸には――恋も、志も、春のように確かに芽吹いていた。
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