第32話 始まりの旗が揚がる日


 季節は盛夏へと移ろい、王都の空には真っすぐな陽光が降り注いでいた。


 旗手たちが新たな制度の発布を告げる紫の旗を高く掲げていた。

 マリアベルは城を見上げ、和やかで幸せな気持ちになった。


 ――今日、女性にも「官吏登用試験」の門戸が開かれる。


 それは、長きにわたり閉ざされていた扉をようやく押し開いた瞬間だった。


 王宮の中庭に設けられた簡素な発布式には、王族と重臣、そして制度実現に尽力した一部の貴族らが集まっていた。マリアベルもその一角、政務官としての立場で整った立ち姿を見せていた。


 式典の中心で王命の文書が読み上げられる。


「王命により、女性官吏登用試験制度をこの秋に実施する。採用は次の春から。これにより、男女問わず政に参画する機会が等しく保障される――」


 静寂の中、その言葉がはっきりと響いた。マリアベルの胸の奥に、確かな震えが走る。


(やっと、ここまで来た)


 隣に立つカザエルが、さりげなく彼女の横顔を見た。


 風が髪を揺らすその姿は、これまでの苦難を超えてなお、真っ直ぐに未来を見据えていた。


 その凛とした横顔に、彼はますます強く確信していた。


(――この人となら、本当に国を変えていける)


* * *


 式典後、王政事務局ではさっそく動きが始まっていた。


 各部署へ通知が送られ、試験内容の検討委員会が立ち上がる。


 マリアベルはその中央に立ち、各局の反応を注意深く見守っていた。


 ある者は前向きに――

「女性にも試験を通じて実力で登用されるなら異論はない」


 ある者は不満げに――

「官僚の数が増えるだけで混乱を生まなければよいがな」


 またある者は、嫌味まじりに笑った。


「これで“お嬢様方”が出仕して、政務室がさぞ華やぐことでしょうな」


 その言葉に場の空気がわずかにざわついた。


 だがマリアベルは、微笑みを崩さぬままに言った。


「その“花”が、誰より鋭く咲くことになるかもしれませんわよ」


 静かな反撃に、男は一瞬言葉を失った。


 カザエルはそれを離れた位置から見守りながら、ふと小さく息を吐いた。


「……こうやって、誰にも媚びず、自分の言葉で返せる。やっぱり強いな、君は」


* * *


 午後、式典を終えたマリアベルは王宮の一室で、ようやくひと息ついていた。


 夕食を終えた後の静かな時。ドレスに重ねた銀糸のケープが、窓からの風にふわりと揺れる


 扉がノックされ、カザエルが現れた。


「ひとりで考えごとかい?」


「……殿下。いいえ、少し振り返っていただけです。この半日が、あまりにも大きな節目でしたから」


 彼は無言で部屋に入り、マリアベルの隣の椅子に腰を下ろした。


「君は、やっぱり背負いすぎている」


「背負わなければ前に進めなかったから……」


 そう言いながら、マリアベルは少し微笑んだ。だが、その瞳には複雑な色が浮かんでいる。


「ただ、最近は少し変わってきました。背負うものが、誰かと一緒なら……少し、軽くなるのかなって」


「それは……僕のことも、入っているのかな?」


 彼女は驚いたように視線を向けた。


「……ええ。きっと」


 その返事に、カザエルの眼差しがやわらかく深まった。


「――マリアベル、

 恋愛というのは、君が思っているよりずっと“自由”なものだよ。政治や制度とは違う。

 誰かを想う気持ちは、理屈じゃない」


「……そうですね。でも、理屈じゃないからこそ、怖いんです

 私の知らない感覚ですから……」


「それでも君は、その気持ちを避けずに見つめようとしている。――僕は、そんな君に、心を奪われた」


 低く、けれど真っ直ぐに届くカザエルの声は、静寂に溶け、マリアベルの胸の奥に沈んでいった。


 思わず、視線を落とす。


 胸の奥で静かに水面が震えるような、未知の感情が広がっていった


(私は……)


 これまで“同志”として、同じ目的を掲げ、背中を預けてきた。

 ただそれだけで、これがずっと続くのだ、そう、ずっと思っていた。


 けれど――彼の隣に別の女性が立ち笑い合う姿を想像すると、胸の奥がきゅっと痛んだ。

 自分の知らない一面を、他の誰かに見られるのではないかと、不安になる。


(それが……恋なの?)


 彼といるとき、心の中がわずかにあたたかく感じられる。

 それは、今までの政治の場で覚えてきた“冷たさ”や“緊張”とは違っていた。


 寒々とした空気のなかで、ひとすじの光が差し込むような――

 あるいは、凍てついた心の奥に、かすかな焚き火が灯るような……。


(私は……)


 誰よりも厳しく、冷静であろうとしてきた。

 でも今、その“冷たさ”の奥で、知らぬ間に芽吹いていたものがある。


 それが「恋」なのだと、まだはっきりとはわからない。


 けれど、彼と向き合うたびに感じるこの温度は、間違いなく――私自身のものだ。


 マリアベルは、そっと自分の胸に手を当てた。


「……カザエル。私も、あなたのことを……知っていきたい」


 それは、ようやく言葉になった“感情”の、最初の芽吹きだった。


* * *


 その日のうちに、官報の一面には、

 正式に女性官吏登用制度が発布されたことが大きく記載された。


「本年秋、女性を対象とした初の官吏登用試験を実施することが決定」


「該当資格は従来の男子と同様。各局より試験官を選定の上、年内に結果発表を行い、採用は来年の春からとなる予定」



 各貴族邸に届けられた官報が次々に開かれ、それぞれの屋敷でいろいろな感情が動いた。


 社交界に属する女性たちの中には、驚きと共に瞳を輝かせた者もいた。


「ほんとうに……女性が、政に携わる時代が来るのね……!」


「うちの娘、読み書きに長けていると乳母が言っているわ。これを機に、学問を本格的に学ばせてみようかしら」


「女性が官吏などになったら、婚姻が遅れたりするのではないかしら」


 かつては眉をひそめられた“女の学び”が、時代の風に乗り、新たな可能性として語られ始めたのだ。


 もちろん、すべての者が肯定的なわけではない。

 制度そのものに不満を覚える保守派も、噂のように揶揄する者もいる。

 けれど――それでも、確かに変化は始まった。


* * *


 夕方、王政事務局の執務室で、マリアベルは机上に広げられた官報を静かに見つめていた。


 活字で並んだその文字は、何度も見慣れた自分の言葉だった。

 校正をし、調整をし、理解を求め続けた末に、ようやく――この国の“法”になったのだ。


 その見出しを指先でなぞり、マリアベルはひとつ息を吐いた。


「……ようやく、本当の意味で、“始まった”のね」


 手元の黒いペンを立て、彼女は次なる資料をめくる。


 制度は発布された。だがこれは、ただの“通過点”に過ぎない。


 目指す未来は、まだその先にある――


 その背中に宿る覚悟は、かつての“特別枠”ではなく、ひとりの政務官としての重みをまとっていた。

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