第27話 政の中枢に名を刻む春


 女性官吏登用制度が王宮審議会で正式に採択されてから二週間が過ぎた。王政事務局の空気は、わずかながらも確かな変化を帯びていた。


「――これ、本当に始まるんですね」


 アイリスが感慨深げに新設される受験申請の草案を見つめながら言う。


「秋に第一回の試験……想像してたより、ずっと早い」


 机の上には制度実行に向けた計画表と、今後の広報・調整スケジュールが並ぶ。


 そして、その中心に座るマリアベルの姿には、以前とは違う重みがあった。


「油断は禁物ね。試験が始まることと、“浸透すること”は別問題だわ。まだ、入り口に立っただけよ」


 言葉は冷静だったが、その背に立ち上る気迫は確かだった。


* * *


 一方、王政の中枢では、ある重要な話し合いが行われていた。


「宰相、やはり今回の“西方同盟国訪問”は避けられませんか?」


「……あの地域の信頼回復なくして、政権の安定はない。今動かなければ遅れる」


 ヴァレンティス宰相は地図を指しながら、重々しく言った。


「しかし、その間の政務は?」


「代理を立てる。それしかあるまい。――マリアベル・クラヴィス。彼女を代理に据える」


 会議室が静まり返った。


 若すぎる。補佐官見習いの身で、国政の中心に立つなど――そんな声が、誰の口からも発されなかったのは、彼女がこの数ヶ月で築いた“実績”ゆえだった。


「彼女であれば、臨時政務の調整程度は十分にこなせる。何より、民の信頼を得つつある。いまこの流れを止めるべきではない」


* * *


 その夜。


 クラヴィス邸の書斎で、ヴァレンティスはマリアベルに直接その辞令を告げた。


「――宰相代理を数週間、君に任せたい」


 マリアベルは、言葉を失った。


「……私で、よろしいのですか?」


「よろしいかどうかではない。君しかいないのだ。制度改革を通し、“政”というものに必要な胆力と判断力を示したのは、君だった」


 マリアベルは、拳を固めた。


 これまでの失敗、孤立、そして誰かの支えがあって得た一歩。そのすべてが、今ここに繋がっているのだと――


「お引き受けします」


 短く、だが迷いなく答えた。


* * *


 翌朝は春の人事発令の日だった。

 王宮の中庭に咲き始めた白梅が、ひと足早い新しい季節の訪れを告げていた。


 その日、王政事務局では朝から人事通達の張り出しをめぐって、空気が張り詰めていた。春の人事異動は、王宮に勤める者にとって“進退”を意味する重要な節目だった。


 ――そして。


「……クラヴィス補佐官見習い、“補佐官”に昇格?」


「さらに宰相代理として数週間の政務指揮を行うって書いてあった!」


「……マリアベル嬢が、代理?」


「ちょっと待て、いくらなんでも早すぎるんじゃ……」


 反発もあった。だが、その一方で――


「でも、誰がやるより信用できる気がする」


「制度の件で、誠実に動いてたのは事実だしな」


 実績と誠意が、少しずつ意識を変え始めていた。


* * *


 アイリスが目を丸くしながらも、すぐに会いにきてくれた。


「おめでとう、マリアベル!」


 セラフィーナは泣き笑いだ。


「やっと、肩書があなたに追いついてきたのね」


 マリアベルは、静かに息を吐いた。


「……ありがとう。けれど、これは“始まり”でもあるわ。ここからが本当の責任」


 昇格辞令には、「王政事務局・政策推進部 宰相代理補佐官」と書かれていた。つまり、ヴァレンティス宰相の“右腕”のひとつとして、政の中核に足を踏み入れることになる。


 その夜、ヴァレンティス宰相の執務室。


 彼はマリアベルへ静かに目を向けた。


「君の責任は、制度が採択された“後”にある。制度は通過点だ。その先に続く運用こそが真価を問われる。――まだ若い君をこの任に据えることに、周囲は戸惑っている。だが私は信じている。結果を残せ、クラヴィス宰相代理補佐官」


「はい。必ず、政の道が“信頼に足るもの”だと証明してみせます」


 その答えに、宰相はひとつだけ微笑を返した。


* * *


 その頃、クラヴィス邸の応接室では、母カトリーナが貴族夫人数名をもてなしていた。


「今回の昇進、嬉しい知らせですわ。けれど……やはり女性がその地位に就くのは、少し不安という声も」


 ある婦人の言葉に、カトリーナは茶を注ぎながら微笑んだ。


「不安があるのは当然ですわ。“前例がない”ことは、いつだって恐れの対象になりますもの。でも、だからこそ彼女は、恐れずに歩みを進めているのです」


「恐れずに?」


「はい。彼女がなにより誇らしいのは、自分の選んだ道に“責任”を持っているところ。

 それは、育ちや肩書ではなく、志に根ざしたものですのよ」


 夫人たちは静かに頷いた。


* * *


 政務審査局の一角では、父レオンとディランが控えめな祝杯を交わしていた。


「……叔父上。マリアベルはもう私なんかのだいぶ“先”を歩いて行ってしまいました」


 ディランがそう言うと、レオンはグラスをひとつ傾けて答えた。


「だがまだ若い。迷いも出るだろう。

 ディランも焦ることはない。着実に前に進んでいる。

 クラヴィスの人間として成果も出しているさ。

 私は頼りないかもしれないが、私も君たちの“道の標”であり続けようと努力を続けるよ。 

 私にできるのは一歩ずつ着実に歩むということだけだからな」


「……ありがとうございます、叔父上」


* * *


 数日後、マリアベルは王政事務局の正式な“任命式”に臨んだ。


 クラリッサ・リースは、マリアベルの任命を前に、執務室の窓辺に立っていた。手には最新の政務整理案。


「……ついにここまで来たのね」


 呟いたその声には、感慨と一抹の寂しさが混じっていた。


 そこへ、書記官が入室する。


「任命式、予定通りの開始です」


「ありがとう。――その名が掲げられることで、失われるものもあるでしょう。でも、それ以上の価値を、彼女はきっと示してくれる」


 書記官が退室すると、クラリッサは小さく息を吐き、背筋を正した。


「私ができなかったことを、成し遂げようとする者がいる。それを支えるのが、“前の世代”の責任」



 広間には各部署の代表者が居並び、静粛な雰囲気の中、ヴァレンティス宰相が任命状を読み上げる。


「――よって、クラヴィス・マリアベルを、王政事務局・政策推進部における宰相代理補佐官に任ずる。

 公務を通じ、政務を支え、信頼ある改革の旗手として務めることを望む」


 その瞬間、マリアベルは確かに“国家”の中に、ひとつの居場所を得た。


 壇上に立った彼女は、胸を張って誓った。


「私は、私を育てたすべてのものに応えるために、この政を支えてまいります。制度は“生き物”です。だからこそ、運用の一つひとつが命を持ちます。私は、決して見捨てません。――声を、制度に、宿らせます」


 その場にいた誰もが、彼女の決意を、ひたと胸に刻んだ。


* * *


 その夜。


 マリアベルはひとり書斎にこもり、静かに新たな職務の準備に取り掛かっていた。


 文机の上には、父から贈られた黒いペンと、初めて使った筆記帳。昇進の知らせと同時に届いた、母の短い手紙も置かれている。


 そこには、たった一行――


「誇りは、守るものではなく、歩みで証すものです」


 その言葉を見つめ、マリアベルはそっとペンを取った。


(これから先、私は――誰の代わりでもない、“私の名”で、政を動かしていく)


 その手元には、新しい任務の最初の草案。


 秋に予定される、女性官吏登用制度の初回試験準備に関する議案だった。

 ついに、マリアベルの名で政が動き始める。


 “その重さ”に、少女はひとつ深く息を吸い、覚悟をもって立ち向かった。

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