〜第4章〜 第22話 二度目の狙いに対抗する術


 冬の足音が近づく王都。朝の霧が晴れぬまま、王政事務局の窓ガラスには冷たい結露が浮かんでいた。


 その日、マリアベル・クラヴィスは午前中の会議を終え、職員食堂で出された温かいスープを口にしようとしていた――その直前だった。


「お待ちください!」


 突如、男の声が響いた。


 食堂の扉が開かれ、急ぎ足で入ってきたのは王宮警備局の一人。

 だが、その動きに異変はなかった。彼はマリアベルの前に素早く歩み寄り、スープを乗せた皿を無言で押しのけた。


「……!」


 次の瞬間、その皿は金属の器ごと床に落ち、甲高い音を響かせながら割れた。周囲が騒然とする中、男はマントの裏から細長い試薬筒を取り出すと、床に広がった液体に落とした。


 白い液が、瞬時に紫へと変色した。


「毒物反応あり。……対象はクロル・デルーラ。神経性の即効毒だ」


 その場にいた全員が凍りついた。


 スープに混入されていた毒――しかも、即効性の神経毒、クロル・デルーラ。その致死量は微量で済む。ほんの一匙、口にしただけでも――。


 マリアベルの背筋を、冷たいものが這った。


(……本気で、“殺し”に来ている)


* * *


「密偵の配置が、間に合ったな」


 その報告を受けたカザエル・グランレイドは、安堵の息をついた。


 数週間前、狙撃事件を受けて彼が密かに動かした「王家の影」――かつて王室直属の情報組織として存在したその小隊の一人が、今回も現場に紛れていたのだ。


 そして彼は事前の流通経路から毒の存在を察知し、ぎりぎりのところで阻止した。


「やはり狙われ続けている。……誰かが、彼女の“存在そのもの”を脅威と見ている」


 その独白に、傍らの宰相ヴァレンティスは静かに頷いた。


「警護を正式に強化する。宰相直轄の監視下に置こう」


「だが、彼女自身の行動を制限してはならない。それでは“潰された”も同然です」


「分かっている。――だが、もう一歩踏み込む必要があるな」


 二人は視線を交わした。


(これで二度目だ。……もう、“警告”の域は過ぎている)


 身体に影響はなかったものの、流石に二度目の暗殺だ。

 ショックを受けたマリアベルは王宮の護衛付きで自宅に戻り、しばらく安静を命じられた。


 悔しさを滲ませながらも青褪めた顔をしたマリアベルはひとまず家に帰ることを承諾した。


* * *


 その日の午後、王政事務局の地下執務室では、毒の混入に関与したとされる厨房職員のひとりが、宰相直属の監察部により拘束されていた。


「……俺じゃない、俺はただ指示されただけだ。“グレイル”から……!」


 男は蒼白な顔で、震える声を上げた。詰め寄る監察官の前で、汗と涙を混ぜた言葉が途切れ途切れにこぼれる。


「“グレイル”……おそらく偽名だな」


 調査を担当する監察部長が、短く呟いた。


 その様子を、別室の窓からカザエルとヴァレンティスが見守っていた。


「犯人は別にいる。――だが、狙いは明確だ」


 カザエルの声は低く、冷静だった。


「マリアベル・クラヴィスを“排除する”こと。そして、制度改革そのものを揺るがすこと」


 ヴァレンティスは黙して頷いた。


「影が動いた。だが、この“影”は、表の政敵ではないな」


「はい。“王家の影”が調査を進めています。裏にいるのは、旧制度の“恩恵”にあずかる者たち――女性登用が脅威となる立場にある、もっと根の深い存在かもしれません」


* * *


 その夜。

 クラヴィス家の書斎では、父レオンと母カトリーナが、王政事務局から届けられた一連の報告を前に静かに向き合っていた。


 深く椅子にもたれたレオンが、重い口を開く。


「狙撃に続いて、毒殺未遂か。……つまり、“警告”は終わったということだ。今度は、本気で命を取りに来ている」


「どうしたらマリアベルを守れるの。

 政治的な失脚なんかであればまだいいのよ。とにもかくにもあの子の命は守りたいの――」


 カトリーナは眉をひそめながらも、目を伏せなかった。


「でも……あの子は、きっとそれでも歩みを止めないわ。私たちが越えられなかった壁を、真正面から越えようとしてるのよ。

 ――この国の“変わり目”を、確かにあの子が担っているって、私は信じてる」


 レオンは静かに頷き、立ち上がった。


「ならば、我々は“盾”になる。個人の志を越えて、あれはもはや“国家的変革の担い手”だ。私情ではない。公爵家としての責務だ」


 カトリーナも、静かに立ち上がる。


「……守りましょう。全力で。たとえ本人が望まなくても、それが親として、そして“前の世代”としての務めよ」


 レオンは机の引き出しから、封書を取り出した。


「政務監察局と、旧知の法務長官に連絡を取る。王家とも連携し、犯人追及の情報網を広げよう。

 名前が出てきた“グレイル”という偽名――以前、ある諜報記録で一度だけ聞いたことがある。裏を洗う必要があるな」


「カザエル殿下が付けてくださった“影”にも公爵家として正式に協力を要請するべきね。正面だけでは、防ぎきれない」


 レオンの瞳が鋭く光った。


「我らクラヴィス家は、娘を政に送った。その決断を、後悔で終わらせるつもりはない」


 重い沈黙のなか、二人の決意だけが確かに灯っていた。


* * *


 数日後。


 事件に関する内部報告が閣僚たちにも共有された。表向きは「調理過程の過失」とされたが、王宮内の一部には、既に“動いた者”の存在が囁かれ始めていた。


 そして――


「“毒殺未遂”が起きたとなれば、次は彼女の“立場”を狙う者が現れるだろう」


 カザエルは、ヴァレンティスに言った。


「まもなく、“失脚”を狙う策略が動き始める。メディアの報道、議会の圧力、あるいは旧貴族による糾弾……」


「だが、ここまでくれば“無力化”は不可能だ。彼女は既に、“政”の中に実績を持ってしまった」


「つまり、“記録”が彼女を守る?」


「そうだ。そして、記録を支えるのは“信頼”だ。……今後はそれが、最も狙われるだろう」


 静かな火種が、王宮の奥で再び燃え始めていた。


* * *


 夜。


 マリアベルは自室の机に、丁寧に整理された資料の山を前にしていた。


 毒殺未遂の痕跡――その調査記録と、食材搬入経路の精査。徹底した再発防止策も、すでに自ら草案を立てた。


(こうして記録する。記録がなければ、消されてしまう。……真実も、声も)


 それは、父と母の時代にはなかった“証明の手段”だった。


 そしてその手段を手にしている以上、マリアベルは歩みを止めなかった。


(声は届き始めている。だからこそ、“恐れ”も動き出した。

 でも――私は、それを越える)


 彼女は、インクの乾いた書面に、またひとつ署名を記した。


 自らの手で。


* * *


 外では、雪が降り始めていた。


 夜空に白い粒が舞い落ちるその中に、誰にも知られず影を潜める者がいた。


 重たい外套をまとい、王宮の灯を見つめる仮面の男は、誰かに告げる。


「“次”がある。……まだ、彼女を止める手は尽きていない」


 その声が風に流れて消える頃、新たな展開が静かに幕を開けようとしていた。


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