第21話 改革の代償、未来を恐れる誰か


 晩秋の王都は、早くも凍てつく風に包まれ始めていた。


 夕暮れの王政事務局の前を、一台の馬車が静かに通り過ぎる。外套を羽織った男が一人、馬車の奥からわずかに顔を出した。


 その目は鋭く、窓の向こう――庁舎から出てきた若き補佐官見習いの姿を、じっと見つめていた。


「……あれが、マリアベル・クラヴィスか」


 呟きは、冷たい車内の空気に紛れた。


* * *


 王宮内の一室。宰相ヴァレンティスは、補佐官見習いのマリアベルから提出された次の案件――「女性官吏登用制度の本格施行準備」の予備報告を読んでいた。


 緻密な構成、現場との連携、そして一部反発を見越したメディア対策まで、記されている。


「順調すぎるな……」


 呟きながらも、彼の目は油断していなかった。


 政の世界には、表の評価と裏の不満が必ず並走する。そして、変革を担う者には、常に“代償”が伴う。


(そろそろ、どこかに揺さぶりが入る頃だ)


 それは、感覚ではなく経験が告げていた。


* * *


 事件は、突然だった。


 王都西部の仮庁舎へ資料を届けに向かったマリアベルの帰路。

 日が沈みかけた王都の、人通りの少ない地点を通過した瞬間、馬車が何かの衝撃音とともに止まった。


「マリアベル様、伏せて!」


 護衛の声と同時に、車体を貫いたのは鋭い矢。狙いは、彼女の胸元だった。


 一瞬の静寂。


 矢は座席の横の木板に深々と刺さっていた。


「……狙撃、か」


 護衛が外へ飛び出し、周囲を確認する。だが、影は既に消えていた。


 マリアベルは、顔色を変えず、矢の刺さった部分を見つめた。


(これは偶然じゃない。明確な“警告”――)


* * *


 その夜、王政事務局は臨時の警備会議を開き、マリアベルの警護体制を見直すとともに、犯人の調査を急ぎ始めた。


「敵意の可能性が高い。だが、現段階では特定できん」


 情報局から報告を受けたヴァレンティスは、深く眉を寄せた。


「手口は、プロだな……」


 補佐官の一人が恐る恐る口を開く。


「閣下、やはり“ドルメン伯爵家”の報復では?」


「証拠はあるか?」


「いえ、確証はまだ――しかし、彼女が初めて失敗した案件が、あの一件です。政治的に因縁は濃いかと」


「感情で決めつけるな」


 ヴァレンティスの声が静かに落ちる。


「ドルメン家の動向は確かに要注意だ。だが、“別の者たち”がこの機に乗じて揺さぶっている可能性もある。真に警戒すべきは、姿の見えぬ“敵”だ」


* * *


 一方、クラヴィス家の応接間では、父・レオンと母・カトリーナが報告を受けていた。


「狙われた……?」


 カトリーナの声は震えていた。


 レオンは沈黙し、ただ一つ手にした報告書に目を通していた。


 狙撃は明確な命の危機。だが、それ以上に「何を警告しようとしていたか」が気になっていた。


(“制度を進めるな”という意思。つまり――彼女は正面から、既得権に触れ始めている)


 娘が、政の中枢に踏み込み始めたのだと、父として、官僚として改めて悟る瞬間だった。


* * *


 翌日、アイリスとセラフィーナが、クラヴィス家に訪れた。


「無事でよかった……!」


 セラフィーナが、マリアベルの肩にそっと手を置く。


「矢が数センチずれていたら、本当に危なかったのよ。ねえ、いまは少し、下がってもいいんじゃない?」


「……いいえ、退きません」


 マリアベルは、静かに首を振った。


「この“反応”こそ、変革が届いた証。

 だから、私はこの先も進みます」


 アイリスが、眉をひそめる。


「命の危険を“反応”なんて言わないで。

 命はひとつしかないのよ。“命がけ”で取り組むことと、“本当に命を失うこと”ではまったく違う話なのよ

 ……あなたがいなくなったら、そもそもあなたのやりたいこの制度も何もかも止まってしまうのよ」


 その言葉に、マリアベルは一瞬だけ目を伏せた。


 けれど、次の瞬間には前を見据えていた。


「では、必ず生きて続けるわ。

 声を上げる人が、決して“消されるべき存在”であってはならない。そのために、私は証明しなきゃいけない」


 セラフィーナとアイリスは、やがて静かに頷いた。


「……あなたがその覚悟なら、私たちは支えるしかないわね」


「ただし、絶対に無茶はしないで」


* * *


 夜の王宮。


 カザエルは、クラリッサと密かに言葉を交わしていた。

 マリアベルを心配するカザエルが時折、マリアベルの師であるクラリッサに話を聞くようになっていたのだ。


「……狙撃の件で、マリアベル嬢はどうされていますか」


「はい。マリアベル嬢の意思は襲撃でも変わりなく、むしろ、闘志に火がついたようでさらに前に進むつもりだと、母親から聞いております」


 クラリッサは目を伏せ、深く息をつく。


「恐れながら、私はあの子の仮にも師という位置にありながら、彼女の歩みが時に“眩しすぎて”見失いそうになります」


「……私も同じ考えです。彼女がここまでの覚悟を持つとは思わなかった」


 カザエルは、手にしていた報告書を見つめる。


「だからこそ、私は“制度”という名の壁の中から手を差し伸べます。

 彼女が崩そうとする側と、私が守る側が一致するように」


 クラリッサは、わずかに笑みを浮かべた。


「それならば――願わくば、マリアベル嬢が振り返ったとき、殿下がそこに立っていて下されば心強く感じます」


* * *


 その深夜、マリアベルは再び机に向かっていた。


 灯の下、書きかけの文書を見つめる。


(命を狙われても、私は立ち止まらない。なぜなら――)


 ペンを走らせながら、彼女は心の奥で静かに呟く。


(“声”が届いたから)


 その“声”の意味が、時に痛みを伴っても。


 彼女は、今日も国の未来に、一文を刻み続けていた。


 * * *


 事件は未遂に終わった。

 けれど、矢が心臓部の位置に明確に向けられたという事実は、何よりも重く――静かに、政務局内の空気を変えていった。


 誰かがマリアベルを「止めようとした」こと。

 それがたったひとつの痕跡として、現実に刻まれたのだ。


 見えない力が確かに動き出している。


 これまでのように、言葉と理だけで届く相手ではない。


 それでも、マリアベルは立ち止まらない。

 その背を押すものが、いまや彼女ひとりの夢ではなく、多くの“声”であることを、彼女自身が知っているから。


 そして、静かに章が閉じられる。


 ――だが、これは終わりではない。

 むしろここからが、本当の闘いの始まりだった。

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