第17話 転んでもまた起き上がり、声を拾い集める


 王都の空に、春の兆しが差し始めていた。


 けれど、マリアベル・クラヴィスの心には、まだ冬の名残が色濃く残っていた。


 補佐官見習いとしての初の独自調査――ドルメン伯爵家に関する疑惑追及は、「証拠不十分」という形で幕を閉じた。帳簿の抜け、隠蔽の可能性、確かな手応えはあったはずなのに、制度の壁は思ったより高く、冷たかった。

 結果的に証拠不十分で退けられた――あの失敗から、少し時間が経っていた。


 補佐官会議での発言は控え、与えられた業務を黙々とこなす日々。


 そんな中、ヴァレンティスからある提案が降りてきた。


「女子教育に関する制度改訂の検討だ。“実態調査と提案”を第一段階とする。お前に調査班を組ませる」


「……ありがとうございます」


 短く答えながら、マリアベルは胸の奥に小さな灯を感じていた。


 これは、もう一度信頼を積み上げる機会――そして、女性の未来に実質的な一歩を刻む仕事。


* * *


「――マリアベル!」


 その声に、顔を上げた。


 新たな任務に向けて頭を整理すべく立ち寄った王都の中央図書室。かつて通い慣れたその空間に、見慣れた二人の姿があった。


「セラフィーナ……アイリス……」


 二人はそれぞれ、厚い資料を抱えていた。


「聞いたわよ、北部のこと」


 セラフィーナは真っ直ぐな目でマリアベルを見つめる。


「悔しかったでしょうけど、あなたのしたこと、意味はあったと思う。正しさを曲げなかったんだから」


「……ありがとう」


 アイリスも、少しだけ肩を寄せた。


「でも、まだ負けたわけじゃない。あの件は、いずれまた向き合える日が来る。その時、もっと深く切り込めるよう、今は力を蓄えないと」


 マリアベルは静かに頷いた。


「……そうね。私、学び直したい。政だけじゃなくて、“現場”の感覚を。制度が届いていないところに、今の私には足りない視点がある気がするの」


「……なら、私たちも協力するべきじゃない?」


 マリアベルは目を見開いた。


「でも、二人はそれぞれの部署で――」


「関係ないわ。私たち、あの論文を一緒に作ったんだから。その先にも関われる権利はあると思う」


 セラフィーナの言葉に、アイリスも静かに頷く。


「仕事として報告するのはあなただけでも、私たちにもできることはあるはずよ」


* * *


 その日の午後。


 三人は、王都近郊の女性支援施設を訪れた。


 そこには、読み書きができないまま奉公に出された女性、妊娠を機に職を失った若い母、働き口を求めて都へ流れてきた未成年の少女たちがいた。


「どうして学べる場所がなかったのか、どこで制度が抜け落ちていたのか――それを、あなたたちの言葉で聞かせてほしいのです」


 マリアベルの呼びかけに、最初は警戒していた彼女たちも、少しずつ言葉を紡ぎ始めた。



「実際問題として、通えるだけでもありがたいと思っています」


 そこにいたのは、女教師と、低所得家庭の女性たちだった。


 学校の床板は軋み、教材も十分ではなかった。


 家計を助けるため、学校を辞めざるを得なかった娘たち。父や兄に許されず、学ぶことすら叶わなかった少女たち。


「私は女だから働かせやすいって、十四で奉公に出されました」


 言葉のひとつひとつが、マリアベルの胸を打った。


(制度の外には、こんなにも多くの声がある)


 そのすべてを、マリアベルたちは真剣に聞き取った。


 施設を出た帰り道、三人は黙って歩いていた。


「……ねえ、マリアベル」


 セラフィーナがふと立ち止まった。


「女子教育の仕組み、やっぱり変えないといけない。私はそれを“現場”からやりたい」


 アイリスも、真剣な表情で頷く。


「じゃあ、私が“制度側”から支える。記録局の立場を使えば、統計や法整備の議論にも関われるかもしれない」


「二人とも……」


 マリアベルの胸に、じんわりと温かいものが広がっていく。


「ありがとう。私、制度と法案の草案を再考してみる。“教育を受ける権利”を前提にした法の整備。それが、私にできることだから」


 三人は互いに頷き合い、その夜もまた、クラヴィス家の応接室で議論と検証に明け暮れた。


 現場の声、制度の穴、改正案の構造――

 そこにあったのは、かつて学問院で培った連帯感と、さらに強まった信頼だった。


* * *


 数週間後、女子教育改革案の草案が、宰相ヴァレンティスの机に届けられた。


 そこには、複数地域における女子教育の現状、格差の要因、父兄の意識調査、そして教育支援制度案までが詳細に記されていた。


 ヴァレンティスは静かに資料に目を通す。


(これは……単なる机上の空論ではない)


 彼の目が止まる。ある図表に記された「家庭内意識と学業継続率」の相関データ。


(この切り口……“女性に学問はいらない”という前提を、データで崩してきたか)


 指先が、報告書の名前をなぞる。


 “マリアベル・クラヴィス”


 その名に、彼はゆるやかな笑みを浮かべた。


「敗北を糧にしたか。――やはり、面白い」


 報告書の傍らには、マリアベルの北部案件に関する全調査記録。


 わかっていた。証拠が不十分という言い訳は、政治の都合だった。

 だが、制度の信頼が揺らげば、国は一気に傾く。だから、引かせるしかなかった。


 マリアベル・クラヴィスという若い補佐官に、それを担わせたことに、わずかな罪悪感が胸をかすめる。


(だが、おまえは“揺るがなかった”。ならば――)


 そして彼は新しい報告書に所感を書き加える。


 “現地関係者との連携構想の具体案提出を次段階として求む”


 それは、次の扉を、自らの力で開けるための鍵となった。


 また彼女に手を貸したという他部門の若い女官たちの協力を要請する依頼の書簡も用意をした。



* * *


 その夜。


 マリアベルは、ふと手元の手帳を見返していた。


「……私がやるべきことは、ここにある」


 インクで汚れた指先が、黒いペンを握りしめる。


 その目には、もう迷いはなかった。


 民の声を聴くこと。

 仲間と共に歩むこと。

 制度を、“人のため”に変えること。


 それこそが、マリアベル・クラヴィスの志であり、次なる挑戦の礎だった。

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