〜第3章〜 第15話 孤高の門出、力を問う日々


 暖かで穏やかな春の風が吹き抜ける王都の中央官庁街。


 重厚な石造りの庁舎、その一角にある王政事務局の扉を、マリアベルは初めてくぐった。


 宰相直属補佐官見習いとしての任官初日。

 この場に女子が配属されるのは極めて稀であり、周囲の視線は興味と警戒が入り混じっていた。


(ここからが、本当の戦い)


 そう胸に言い聞かせながら、彼女は書類を抱えて廊下を進む。

 アイリスもセラフィーナもいない。

 助けも、寄り添ってくれる笑顔もない。だが、それでも彼女は前を向いて歩いた。


* * *


「おまえが、補佐官見習いの……“クラヴィスの娘”、か」


 中年の文官が目を細める。

 部署の最上席にいるのは、新宰相レグナード・ヴァレンティスの直属補佐官たち。その背中の数だけ、彼女が登るべき階段がある。


「これまでの配属記録は見た。優秀だそうだな。だが、それは学問院の話だ」


 重々しい口調に、場の空気が沈む。


「……はい。理解しております。役に立つまで、黙って働きます」


 マリアベルの即答に、一瞬だけ沈黙が落ちた。


「――まぁ、口の利き方を心得ているのは悪くない」


 その一言を皮切りに、彼女の“下働き”の日々が始まった。


* * *


 膨大な書類の整理、補佐官たちの備忘録、議会前の要点抜粋。

 「女にできるのか」と問われる前に、彼女は淡々とこなしていった。

 だが、夜遅くの帰宅、指示の飛び交う会議室での書き漏らしひとつが、翌日の叱責となって返ってくる。


(平坦な道のはずがない。わかっている……)


 あの日、政の場での一歩を踏み出した覚悟は、揺らぐことはなかった。


* * *


 初任から一ヶ月が過ぎたある日。


「宰相閣下、今朝の政務日程、変更が入っております」


 マリアベルが控え室で調整資料を届けると、そこには、初老の男が一人。

 端正な顔立ちに冷静な目――それが、この国の新宰相レグナード・ヴァレンティスだった。


 マリアベルは、膝を折り、控えめに一礼した。


「クラヴィス……と聞いている。あのレオンの娘か」


「はい。補佐官見習いとして、任に就かせていただいております」


 ヴァレンティスは数枚の資料に目を通しながら、ふと手を止めた。


「この要約――おまえがまとめたのか?」


「はい。至らぬ点があれば、ご指摘を」


 宰相は、少しだけ口元を上げた。


「丁寧な要約だな。

 だが、ただの丁寧ではない。骨がある。……分析と、未来予測、それに仮説立案まで入れている」


 その言葉に、マリアベルは背筋を伸ばした。


「過去の政策に倣うだけでは、制度は停滞すると思いました。

 未来に向けて、“何をどう動かせるか”が重要だと」


 ヴァレンティスは彼女をじっと見つめた。


「……見習いの域を超えている。よし、少し面白いことを任せよう」


* * *


 その週、彼女は一つの特命を受けた。


 王国西部の地方議会における意見集約と、予備政策草案の作成。

 若手補佐官の誰もが“面倒ごと”と遠ざけていた案件だった。


 短い期限。煩雑な利害関係。

 だがマリアベルは徹底した聞き取りを行い、文献を洗い直し、徹夜続きの末に資料を仕上げた。


 後日、その報告書を受け取ったヴァレンティスは、一言だけ告げた。


「使える。補佐官見習いの中で、抜擢する」


 その声に、室内の空気が変わる。


 だが、マリアベルはただ一礼しただけだった。


「光栄です。――次も、結果を出します」


* * *


 その報せは、すぐに王政中枢にも届いた。


 王太子カザエル・グランレイドは、執務の合間に報告書を一読して、静かに息をついた。


「……ヴァレンティスが、“使える”と明言するとは」


 口に出した言葉は、誰に聞かせるでもない独白だった。


 窓辺に立ち、彼はふと、かつて学問院で聞いたマリアベルの発表を思い出す。

 制度を変えるために法に語らせ、意識に問いかけるような、その視点。

 無謀とも見えた挑戦は、今や政の現場で一つの“信頼”として形になりつつある。


「父譲りの胆力と、母譲りの知恵……いや、それだけではないな。自ら選び取った道だ」


 その声は、わずかに感慨を帯びていた。


「“一人で立ち続ける者”が、本当に政を動かせるのか――」


 試してみたい、と彼は思った。


 次に彼女と言葉を交わすときが、楽しみだ――と。


* * *


 その噂は、王政中枢だけでなく、王宮のさまざまな階層に静かに広がっていた。


 ――新任の補佐官見習いが、宰相ヴァレンティスに“使える”と評されたらしい。


 ――しかも、その者は、あのクラヴィス家の令嬢だという。


「……クラヴィス、って。あのマリアベル嬢のこと?」


 控室で囁かれる声の中にマリアベルの名前が聞こえ、書類を抱えて通りかかったクラリッサが足を止めた。


「“使える”って、宰相が?」

「まだ見習いでしょ? ありえないことね」

「その子なら、前にアンケート調査をされたことがあるわ」


 女官たちがさざ波のように驚きを交わしている。


 クラリッサは書類を胸に抱えたまま、ふっと微笑んだ。


 顔を伏せながら、静かに言葉を漏らす。


「……そうよ。やる子なのよ、あの子は」


 思い出すのは、政務の講義、礼儀の稽古――

 時に泣きながら、時に歯を食いしばって、それでも諦めなかった日々。


「最初から無理なんて決めつけるやつらに、見せつけてやれっての。

 いいスタートね、マリアベル」


 誰にいうでもなく呟いて、クラリッサはそのまま歩き去る。


 だがその背中には、かすかな誇りと、愛しさが滲んでいた。


* * *


 その夜。クラヴィス家の書斎。


 父レオンが静かに言った。


「そうか――新宰相に認められたか。

 ……危うさもある男だが、実力は確かだ。あいつのそばで多くを学べ」


「はい。いずれ、私がこの国の制度を動かす側に立てるよう、礎にします」


 レオンは珍しく、満足そうに微笑んだ。


「やはり母親似だな。……だが、私の血も忘れるな。変えるためには、まず読み解け」


* * *


 灯りが落ちた執務室。

 ヴァレンティスは一人、夜の窓辺に立っていた。


「……クラヴィスの娘か。血だけではない。育てられ方も、道の選び方も――面白い」


 その口元に、微かに笑みが浮かぶ。


「さて、君が政に何を問うか、楽しみにしているよ」


 こうして、新たな戦いの扉が開かれた。

 友情や庇護のない場で、マリアベルはただ一人で立ち、歩き出した。


 これは、少女が“力”と“言葉”で政を動かす者になるための、最初の試練である。

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