〜第2章〜 第8話 軽く見られることの重さ


 王立学問院――その名を聞くだけで、貴族たちは一目置く。

 この国の政(まつりごと)を担う者たちの“育成機関”であり、王政の中枢を支える頭脳の集積地。

 けれど、その門をくぐったとき、マリアベルが最初に感じたのは期待ではなく、空気の重さだった。


 


 入学初日、講堂の最前列に座った彼女を包むのは、ざわめきと視線。


「……本当に、女が入ってきたのか」


「しかも三人。特例枠って、どこまで融通利かせたんだか」


「いや、あれはクラヴィス家の令嬢だろう? 面白くなりそうだな」


 


 周囲の声はひそやかだったが、刺すような温度を持っていた。


 この場に、女がいる。

 それだけで、奇異の対象になる。



 女性枠で入学したのは、マリアベルを含めて三名だった。


 一人は、灰色の制服をきっちりと着こなす無口な少女――アイリス・フォーセット。

 辺境伯の娘でありながら、父の意向で王都にあるフォーセット家の都市邸宅(タウンハウス)を使い、通学している。

 学問以外にはほとんど関心を持たず、講義以外で誰とも話すことはなかった。


 もう一人は、華やかな巻き髪に高級な文具を揃えた少女――セラフィーナ・ヴォルテ。

 新興の政商貴族、ヴォルテ侯爵家の三女。

 王都中心街にある自邸から、馬車で悠々と通っている。



 そして、マリアベル。


 彼女は、クラヴィス家の王都邸から登校していた。

 母カトリーナの配慮で、朝の馬車には侍女と護衛が付き添う。


 


 学問院側は、女性特例枠の創設に伴い「女性寄宿舎」の設置を決定していた。

 しかし、建設も人員も間に合っていないのが実情であり、「それまでの間、女性は各家からの通学を可とする」という、あくまで暫定措置が取られていた。


 そこに制度的配慮などあるはずもない。

 講義室も図書室も男子中心に設計され、三名の女性の居場所は、どこにもなかった。



 入学から数日後、マリアベルは昼食を学内の食堂で摂ろうとしたが、目につく席はすでに埋まっていた。


 声をかけようとした瞬間、向こうの学生たちがさっと立ち上がる。


「あ、ごめん、こっち埋まってるから」


「こっちもあとから人来るんだよね」


 あからさまな拒絶ではない。けれど、拒絶であることは明白だった。


 仕方なく空いていた隅の席に一人で座った。

 手にしたスープは冷め、パンも味がしない。



 視線を上げると、少し離れたテーブルにセラフィーナの姿が見えた。

 彼女は男子学生に囲まれて楽しげに話している。

 美貌と社交性を武器に、“女”として認められているようにさえ見えた。


 アイリスの姿も見かけたが、彼女は端のテーブルで黙々と読書していた。

 誰の視線も、彼女に向いていない。


 “ここにいても、誰も同じ目線には立っていないんだわ”


 マリアベルはふと、そう思った。


* * *


 図書室の窓辺でページをめくるマリアベルの視線が、ふと掲示板の脇に貼られた一枚の紙に留まった。


《本年度進級試験要項》


 そこには、成績不振者への再試験通知や、過年度生の扱いについての細かな規定がびっしりと並んでいた。


 ――王立学問院は、“卒業できない者”の存在を前提にしている。


 学問院の課程は二年。だが、その期間を滞りなく終えられるのは、例年七割前後にすぎないという。


 進級審査、卒業論述、最終口述試問――いずれも実務に直結した厳しい評価が課される。


 さらに、文官登用や政務職を志す者には、学内での「成績上位」が事実上の必須条件とされていた。


 どれほどの家格を背負っていようと、学問院で結果を残せなければ、政務の道は開かれない。


 ――ここは、通っただけで意味がある場所じゃない。


 マリアベルは唇を引き結んだ。


 父も母も、この現実を知っていた。だからこそ、あれほど反対したのだ。


 でも――私は、もうここにいる。ならば、歩ききるしかない。


* * *


 授業も甘くはなかった。


 憲政史、法学、財政、修辞――

 講義は実務に即した内容が多く、貴族家における教育とクラリッサの指導で備えはしていたが、それでも追いつくのに必死だった。



 中でも、修辞学の授業で起こった一件は、彼女の存在をより際立たせることになった。


 担当の老教授が問う。


「では、“国家という器を、王権と民権の二流で満たす”とはどういう意味か。マリアベル嬢、答えてみなさい」


 


 全員の視線が、一斉にマリアベルに向けられた。


 突然の指名に戸惑いながらも、彼女は立ち上がる。


「……王権が国家の統率を、民権がその正当性を担うという理論だと思います。“器”とは統治機構そのものであり、どちらかを欠いては成立しない……そういう解釈です」



 教授はしばらく無言のまま、彼女を見つめた。


 その沈黙が長く感じられたあと、彼はようやく頷く。


「――型通りの回答だが、要点は押さえている。

 ……だが、他に言える者はいるか?」


 間髪入れずに、後列の男子が手を挙げた。


「国家を“器”とする比喩は、もともと中原諸国の王制批評に用いられたもので、“満たす”より“染み出す”方が問題とされていました。

 “民権が器を濁らせる”という警句もあり、王権と民権の対立こそが、器を割るのではと――」


「面白い視点だ」


 


 教授の目がほのかに光る。


 それが“優劣”をつけたわけではないのに、マリアベルには、自分の位置がはっきりと下にあると知らされた気がした。


 


 授業後の廊下、先ほどの男子が友人と話しているのが聞こえた。


「ま、答えた内容は悪くないんだけどな。タイミングと印象で負けてるよな。

 女って時点で、期待値下がってるし」


「でも、そこそこやるんじゃね? 面白くなりそう」


「ま、目立たなきゃいいけどな」


 


 “そこそこやる”

 “女って時点で”

 “目立たなきゃ”


 


 心に突き刺さるのは、怒りでも反発でもない。

 ただ、自分が“どれだけ無力か”という現実だった。

 


 マリアベルは、何も言い返さなかった。


 その晩、クラヴィス家の王都邸。


 試験用のノートを広げ、父から贈られた黒いペンを机に置いた。


 まだ使い慣れてはいない。だが、インクを吸い込ませると、手にちょうどよく馴染んだ。


 ――このペンで、どこまで書けるだろうか。


 


 その夜、マリアベルは一通の書簡を書き上げた。


「この環境が正しいとは思わない。

けれど、この場にいる限り、私は“存在”そのものを武器にして進むしかない。

一人であっても、声を上げる意味がある。そう信じてみたい」


 


 誰にも出さない“決意の手紙”だった。


 けれどその言葉が、いつか誰かの心を動かすと信じて。

 彼女は、明日もまた、学問院へと馬車を走らせるのだった。

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