第7話 沈黙の贈り物で扉を開ける日


 言葉にしない想いがある。

 それでも届くものがある。

 それを受け取ったとき、人は初めて、自分の力で扉を叩けるのかもしれない。



 王立学問院――

 この国のすべての政(まつりごと)を支える“頭脳”を育てる場所。

 だが、その門は暗黙の了解で“男たちのためにある”、とされてきた。


 女性が学問院に入るには、特例枠を用いるほかない。

 だがそのためには、いくつもの条件を満たす必要があった。


 一つ、貴族家としての家柄――これはクラヴィス家が担保してくれる。

 一つ、文才と実務的な筆力――これはクラリッサによる指導と、試験官向けの事前提出課題によって示した。

 一つ、学問院側の受け入れ枠と、王室からの“黙認”――こればかりは、運と時節もあった。


 その“時節”を読み切って手を打ったのは、クラリッサだった。


 彼女は、王宮記録局内の有力な文官二人に、マリアベルの作文と模擬答弁記録を渡した。

 「個人的な参考」として、慎重に慎重を重ねて。


 すると、あるひとりが反応を示した。

 かつて祖母ベルティーヌとともに記録局を支えた、老文官。

 その人物は、マリアベルの言葉に“あの方の思念が窺い知れる”と気づき、静かに王宮内で動いてくれたのだ。


「――推薦こそ出さないが、学問院に『判定に手を加えない』という指示なら、出せるかもしれん。

……その代わり、彼女がそもそも試験に失敗すれば“すべて無にする”という覚悟で臨ませろ」


 この動きにより、正式な許可ではないものの、“王宮が異を唱えない”という空気が通った。

 それはこの国で、特例枠が“動く”という意味だった。


 学問院の門を仰ぎながら、マリアベルは胸の内に誓った。

 この門の先に、変えるべき世界があるのだから。


* * *


 入学試験の前日。

 その夜、母カトリーナがマリアベルの部屋を訪れた。


「緊張してる?」


「少し。でも、不思議と静かな気持ちなんです。

 やるべきことはやってきたって……今はそう思えるから」


 母は微笑みながら、小さな包みを差し出した。


「これ……あなたに。お父様からよ」


「……え?」


「直接は渡せないんですって。

 そういうところ、不器用よね」


 マリアベルは包みを開けた。

 中から現れたのは、漆黒の軸に銀の装飾が施された、上質なペンだった。

 王宮の記録局でも重用される、軽くて手に馴染む“実用の品”。


 そっと手に取ると、母が言った。


「昔、父様もこれと同じペンを使っていたわ。文官だった頃、“これで書いた契約文は訂正されたことがない”って、誇らしげだった」


「……でも、父上は私の学問院行きを否定していたのでは?」


「ええ。そうね……。認めてはいないと思うわ。

 でも“書きやすいものを持たせてやれ”って言ってたわ。“あの子は、言葉で戦うつもりだろう”って。

 あなたが戦うことは支えてやりたいと思ったのではないかしらね」


 マリアベルの指先が、わずかに震えた。

 父が声に出してくれたわけではない。だが、これはたしかに“願い”だった。


「伝えてください。ありがとう、と……でも、私は訂正するかもしれないって」


 カトリーナが、くすっと笑った。


「それでこそ、マリアベルよ」


* * *


 試験当日。


 学問院の門前に集う志願者たちの中で、マリアベルはひときわ目を引いた。

 貴族の令嬢が、女である彼女が、真剣な眼差しでそこに立っていることに。


 入学試験のテーマは「王国の三権分立の矛盾点と、その改善案を論じよ」。


 ――クラリッサとの模擬問答で何度も対策した題だ。

 迷いなくペンを握る。


 銀の先が走るたびに、自分の中の“声”が紙の上に映し出されていくようだった。


「権力が分かたれているようで、実際は相互に監視機能が弱い。

王政における三権分立とは“相互不干渉”ではなく、“責任の共有”であるべき。

そのためには、貴族による合議制の一部公開化、及び庶民からの請願手続きを議会内に設ける制度改正が不可欠だ」


 時間を使い切り、最後の一文を書き終えた時、マリアベルはゆっくりと息を吐いた。


 


 退出の廊下、ふと顔を上げると、見慣れた姿があった。


 クラリッサ。

 審査官の一人として名前を連ねていた彼女が、目線だけでマリアベルに“よくやったわね”と伝えてきた。


 そして、もう一人――


 王宮からの使者として訪れていた、あの銀の瞳の青年が、廊下の奥に佇んでいた。

 王太子、カザエル・グランレイド。


 彼は一言も発さなかったが、マリアベルが頭を下げると、ほんの僅かに首を傾けて応えた。


 その目には、はっきりと“関心”の色が宿っていた。


* * *

 

 その夜、試験結果の速報がクラヴィス邸に届けられる。


「合格――ですって!」


 母の声に駆け寄ると、封筒の中には“特例女性枠合格”の文字。

 そして推薦元として、クラリッサの名だけでなく、王宮記録局からの“期待”を示す一文が添えられていた。


 知らせを受け取り、屋敷は静かな祝福に包まれていた。


 母と二人で少し祝いの夕食を摂った後、マリアベルが廊下を歩いていると、書斎の扉がわずかに開いていた。


 中を覗くと、父・レオンがひとり机に向かっていた。

 明かりもつけず、窓からの月光だけを頼りに、何かを手にしている。


 それは――マリアベルが母経由で贈られた、あの黒いペンと同じ型のものだった。


 父はそれを静かに見つめていた。

 指先で転がすように動かしながら、何かを思い出しているようだった。


 厳しい横顔に、ふとごくわずかな微笑が浮かぶ。

 それは、一瞬だった。けれど確かに――誇りと、安堵と、ほんの少しの寂しさが交じる表情。


 マリアベルは息を止めたまま、静かに立ち去ることにした。


 声をかけることはしなかった。

 それが今は、いちばんの“理解”だと感じたから。


 自室に戻り、父から贈られたペンを自分でも握ってみた。

 ペンを見つめ、彼女は静かに呟いた。


「――私は、ここから変える。自分を。家を。この国を」


 その声は、小さく、しかし確かに世界の輪郭を揺らし始めていた。

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