第6話 厳しい授業と意外な母の過去
朝から書斎に響く声は、もはや家庭教師の授業とは思えなかった。
「違う! “立憲”の意味をただ暗記してるだけじゃ、貴族たちは一言で噛み砕いて切ってくる。言葉は武器、使い方が悪ければ自分が刺されるのよ」
「……“憲法とは王と民との契約であり、それを用いて権力を制限する意志の表れ”……それでどうですか?」
「五点。腹に響かない。理屈にしか聞こえないわ」
机に肘をついて座るクラリッサ・リースは、相変わらず容赦がなかった。
だが、マリアベルはめげなかった。数週間にわたる授業は、次第に“論破されない言語力”を育て始めている。
「女だから舐められるなら、喋らせないくらいの言葉を持て。言い返すんじゃない、“飲み込ませる”の」
「……はい」
「もっと腹から声を出して」
「はい!」
クラリッサはふと口元を緩めた。
「ま、最初よりはマシになった。あんたは根っから戦うつもりなんだろうけど、政(まつりごと)ってのは『誰と手を組むか』『誰を切るか』の連続。正しさだけで勝てるなら、私だってとっくに宰相になってるわよ」
「……クラリッサさん、宰相になりたかったんですか?」
「さあね。昔は本気だった。……でも、ある時点で“女である限り、天井はある”って、思い知ったのよ」
その言葉には、明るさも暗さもなかった。ただ事実として、クラリッサの背骨を形作っている。
「マリアベル。あなたが学問院に入ったとして、その先に何があるか、考えてる?」
「……まだ、完全には。でも、“何者にもならない”ことだけは嫌なんです。自分で選べるようになりたい」
「――なら、それでいい」
クラリッサは立ち上がり、長机に並んだ書簡や草案の束を指差した。
「これ全部、王宮で実際に使われた政策草案。次の課題は、これの矛盾点を三つ洗い出して、それを貴族向けの言葉で“否定せずに否定”して」
「……“否定せずに否定”?」
「そう。政策を批判するんじゃなく、もっと“良い案”を自然に出す。その流れに持っていく。政治ってのは、喧嘩じゃなくて“誘導”なのよ」
マリアベルは思わず息を吐いた。
「難しい……でも、面白いです。私、こういうの……好きかもしれない」
ふと、クラリッサの目が和らいだ。
「だったら、向いてるわよ」
その日の夜、マリアベルは久々に母・カトリーナと二人だけの食事をとっていた。
「クラリッサさんは、本当に頭の切れる人ね。母上と旧友だったなんて、意外です」
「ふふ。そうね。あの子とは“闘志の方向”が違っただけ。私は、どちらかといえば……波を立てない方だったから」
カトリーナはワイングラスを軽く揺らしながら、窓の外を見つめた。
「――でも、ほんの少しだけ、立ち向かおうとしたこともあったのよ」
カトリーナはふと笑みを消して、懐かしむように目を伏せた。
「十九の頃ね。私は記録局の補佐として、法律文書の草案作りに携わっていたわ。
新設される都市司法庁の法典案に、意見を出したの。誰も女性の発言なんて期待してなかったけど、それでも私は、自分の手で変えたかった」
「……変えられたんですか?」
「いいえ。草案は採用されたけど、“発案者”として名前が載ることはなかった。
“どうせお飾り娘の趣味だろう”って、陰で笑われていたわ」
マリアベルは、目を伏せる母の横顔を見つめた。
「それを……どうして受け入れてしまったんですか」
「……怖かったの。名を出せば、家の評価に響く。
お母様、あなたのお祖母様は“やれ”って言ってくれたのよ。
“ここで諦めたら、女が政治に関わる芽がまた潰される”って。
でも私は……“風潮に逆らえない”って、あの時、自分で線を引いたの」
マリアベルは何も言えなかった。
「――お母様は怒ったわ。
“あなたは誇りを捨てた”って。
でもね……それでも、私が夜中に泣いていると、黙って紅茶を入れてくれる人だったの。
あの人は、強くて優しい、矛盾の中で生きた女性だった」
「……それを、お母様は覚えている」
「ええ。忘れられないのよ。だからこそ、あなたを見ていると、お母様の言葉が蘇るの」
マリアベルは言葉を失った。
カトリーナは、いつも微笑みの奥に“諦め”のような何かを抱えていた。それが今、はっきりとした形で言葉になる。
「私は“変えられない”と思っていた。……でもあなたは、“変えられる”と思っている。
それなら、母としては、応援しない理由がないわ」
その夜、母から手渡されたのは、深緑の革表紙で綴られた一冊のノートだった。
「……これ、私が記録局にいた頃のもの。もう十年以上、誰にも見せたことはなかったの」
ページを開くと、整った筆跡で書かれた文面が、時間を超えて蘇った。
王令草案、統治改革案、地方の自治制度に関する覚え書き……ページごとに日付があり、日々の政務の断片が静かに綴られている。
ところどころに挟まれた赤いインクの書き込みは、母自身の“声”だった。
──「貴族派からの反発必至。緩衝策を添えるべき」
──「この文言では民の不信を煽る。もっと“寄り添う”表現を」
──「私は本当にこれに加担していいの?」
筆圧の強弱や書き込みの位置に、若き日の母の葛藤が滲んでいる。
後半には、ある法改正草案に母自身の提案と思しき修正文がびっしり書き込まれていた。
明らかに“実務に耐えうる案”だった。けれど、そのページの下部に、小さな文字でこう記されていた。
「この案は採用された。だが、私は署名を求められなかった。
……女が出したと知られると、かえって案が潰れるから、とのこと。悔しい。でも、黙って渡した。
家のため。家の名を汚さぬため。お母様なら、笑っただろうか。叱っただろうか」
カトリーナの哀しげな筆跡にマリアベルの動きが止まる。
次のページ。そこには日付のない一文だけが書かれていた。
『私は、女だったから引いた。
あなたが、女でも進むなら。
それは、私の代わりにこの国の未来を背負ってくれること。
愛しているわ、マリア。
背負う覚悟があるなら、私はもう、止めない。』
滲む文字は、もしかしたら涙がこぼれたものだったのかもしれない。
ノートの角がわずかに丸くなっているのは、何度も開いた証なのだろう。
母は、ずっと葛藤してきた。
諦め、引き、しかし娘に託した――その想いが、そこにあった。
この家の中に、同じ想いを胸に抱えてきた先輩が二人もいた。
その想いは、たしかに今、自分の中に引き継がれている。
女でも――変えられる。
そう信じることが、私たちの“革命”の始まりなのだ。
マリアベルはノートを閉じ、席を立った。
窓の外、王宮の尖塔が月に照らされている。
その光の先には、まだ誰も辿り着いたことのない場所がある。
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