第5話 女には公爵家は継げないという現実
王宮から帰って三日。
マリアベルはずっと書斎にこもり、クラリッサから出された政治理論の課題に取り組んでいた。
けれど、心の奥底にはあの日の屈辱と痛みが静かに沈殿している。
──あの視線。あの言葉。
「笑っていればいい」「黙っていなさい」と、堂々と突きつけられた否定。
それは女である前に、“存在する価値すらない”とされるような、沈黙の圧力だった。
その夜、父レオンが書斎を訪れた。
珍しいことだった。
「話がある。時間をもらおう」
マリアベルは姿勢を正して頷いた。
父は重い足取りで部屋に入り、真鍮の椅子に腰を下ろす。
「宮廷でのことは聞いた。……少々、出過ぎた真似をしたな」
「そうは思いません。あれが“現実”なら、それを壊すのが私の役目です」
「その“役目”は、誰に与えられたものだ?」
レオンの声は静かだったが、芯がある。
「私は、クラヴィス家の娘です。
宰相家の後継者として……」
「違うな」
その言葉は、冷水のようにマリアベルの言葉を断ち切った。
「おまえはクラヴィス“の血”を引いているが、“家”を継ぐ者ではない。女には、継げぬ」
「……どうしてですか? 他に誰がいますか? クラヴィス家を本当に理解し、担えるのは……」
「だからこそ、ディランを迎える」
父の声は動かない石のようだった。
「カトリーナの妹の子。男であり、王族との縁も遠からず、礼節も学んでいる。“次代のクラヴィス公”として、何の不足もない」
マリアベルは口を結んだ。
ディラン――優しい従兄。悪い人ではない。
だが、彼には“クラヴィスの意思”はない。ただ穏やかで、波風を立てない男。
それでいいのだろうか。
“静かに消えていく”ような、そんな継承で……。
「私は……お祖母様の想いを、継ぎたいのです」
そう口にしたとき、父の眉がわずかに動いた。
「ベルティーヌ様の名を、今さら……」
「お祖母様はこの家の“鍵”でした。
書庫の記録に残っていた。政治制度の草案、王宮改革の提案、外交書簡の草稿……そのどれもに祖母の筆跡があった」
「だが、彼女は“表”に出なかった。それが全てだ」
「出してもらえなかったんです。女だから、家の意志を語る権利すらなかった」
沈黙。
レオンはゆっくりと立ち上がり、窓辺に歩み寄った。
背を向けたまま、少しだけ声の調子を緩める。
「……おまえの目を、時々、ベルティーヌ様に重ねてしまう」
マリアベルは、はっとする。
「父上……」
「おまえはあの人に似て、前だけを見る。口も達者で、引かない気質だ。
……それゆえに、時に、傷つくのだとわかっていても、止められない」
ふと、深い息を吐いて続けた。
「私は――クラヴィスという家を守るために、ここまでやってきた。
男であれ女であれ、本当はどうでもいい。だが、“女だから潰される”現実を、おまえに味あわせたくないんだ」
それは、父の“痛み”だった。
「それでも」
マリアベルの声が震えずに出たのは、母と祖母と、自分自身のためだった。
「私は、お祖母様の意思を継ぎたい。……この家に、名前でなく、思想を残したいのです」
沈黙が長く落ちた。
やがて、父は再びこちらを向いた。
「……私の許しはやらん。ただし、止めもしない」
「……」
「家を騒がすな。名誉を汚すような真似は……許さぬ。
……そして、どれほど傷つこうとも、後悔するな。それだけは言っておく」
その言葉に、マリアベルは静かに頭を下げた。
――父もまた、この家の名と呪縛を背負うひとりだったのだ。
その夜、マリアベルは祖母ベルティーヌの旧書庫に足を運んだ。
机の奥から見つけたのは、一冊の手帳。そこには、女性が声を持たない世界で、どう“考え”を伝えるかを記した覚書が残されていた。
『私たちは“声”を奪われているのではない。
“聞く気のない世界”の前に立っているのだ。
ならば、聞かせる努力を、諦めてはならない。』
その言葉を読んだとき、マリアベルの目に熱がにじんだ。
翌日。
母に頼まれた書状を届けに、マリアベルは再び王宮を訪れた。
文官の出入り口を通り、廊下を曲がったその先――
長いマントをなびかせて歩いていた人物と、すれ違った。
王太子、カザエル・グランレイド。
鋭い銀の瞳。漆黒の礼服。整いすぎた顔立ち。
どこか空気を遮断するような冷ややかさをまといながら、彼はマリアベルに一瞥を投げた。
通りすぎる――はずだったそのとき。
「……おまえが、クラヴィスの娘か」
低く響く声に、マリアベルは思わず足を止めた。
「はい。……マリアベル・クラヴィスと申します」
「……父親に似ず、前を向く顔をしているな」
「……それは、褒め言葉と受け取ってよろしいでしょうか」
わずかに口角が動いた。
笑ったのか、皮肉だったのか、判別できなかった。
「この宮には、口よりも“目”で話す奴のほうが多い。――声を出すなら、覚悟しておけ」
そう言い残して、王太子は去っていった。
その背に、マリアベルは一歩だけ、前に進むように歩みを重ねた。
声を出すには、覚悟が要る。
でも、その覚悟はもう、ここにある。
祖母が残した手帳を握りしめ、マリアベルは再び空を見上げた。
この空の下で、彼女は自らの“名”を形作ろうとしている。
クラヴィスを継がなくてもいい。
でも、“クラヴィスの意思”は私が継ぐ。
――そう、心に刻んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます