第4話 宮廷での屈辱
その日、マリアベルは王宮の空気を、初めて肺に吸い込んだ。
雲ひとつない空に、白い石造りの尖塔がまっすぐそびえている。王都の中心、王宮ファルメンティア。
その正門をくぐった瞬間、彼女の心臓は大きく脈打った。
母、カトリーナ・クラヴィスとともに、王宮の小規模な晩餐会に招かれた。
名目上は「若年貴族とその家族を交えた新春の懇談会」。だが実態は、王家関係者が次世代を選別する場であることは有名だった。
「緊張しなくて大丈夫よ、マリア。今日は“視察”のようなものだから」
カトリーナが優しく微笑む。
けれどその目はどこか張りつめていて、王宮という場所に対する警戒と覚悟がにじんでいた。
ホールには、すでに二十人ほどの貴族たちが集まっていた。
彩り豊かなドレスと燕尾服、柔らかな音楽と笑い声――まるで舞踏会のような華やかさ。
けれど、マリアベルはすぐに気づいた。そこに漂う視線の違和感に。
「あれがクラヴィス家の令嬢……」
「学問院に入るおつもりなんですって」
「まあ……、滑稽……」
耳に入ってくるささやき。
声を潜めたつもりの侮蔑が、まるで香水のように空間に充満していた。
「ふうん、知ってる? クラヴィス家の娘、“女文官”になりたいんですって」
「まあ! 言うだけなら自由だものね」
笑い声と視線が刺さる。
マリアベルは顔を上げ、堂々と歩いた。
だが、背中に感じるのは尊敬ではない。“異物を見る視線”だった。
控え室に通されてからしばらくして、母が他の婦人方と談笑する間、マリアベルは一人、王宮文官の一団に挨拶に向かった。
クラヴィス家は宰相家門。後継者として自分の名を知らしめる一歩になると、そう信じて。
「はじめまして。クラヴィス公爵令嬢、マリアベルと申します」
文官の男たちが顔を上げた。三十代から五十代ほど。皆一様に正装を身にまとっている。
その中央にいた初老の男が、皮肉気に目を細めた。
「ほう。噂の“女性文官候補”が、直々にご挨拶に?」
「将来、王政に携わりたいと思う者として、まずは皆様にご挨拶をと……」
「ご挨拶なら、母上に代行していただければよかったのでは?」
男は冷たく笑いながら言った。
「令嬢のような方が“携わる”などと口にされると、こちらも反応に困るのです。……どうぞ、政治の話は控えられて、笑顔で場を和ませていただくほうが、皆のためですぞ」
マリアベルの脳裏に、何かがバチンと弾けた。
今、自分は「黙っていろ」と言われたのだ。
公の場で、クラヴィスの名を冠した令嬢であるにも関わらず。
まるで、ただの飾りでいろとでも言うかのように。
「……それは、私の存在そのものを否定しておられるのですか?」
一歩も退かずに返すと、男はほんの少しだけ目を細めた。
「いいえ。どうか誤解なさらず。ただ――“女が政治に口を出すなど”という言葉が民の間に広がれば、クラヴィス家の評判に響くという配慮です」
「評判は、守るべき価値があるときにだけ、気にするものだと思っております」
「言いますね」
男が、にやりと笑った。
周囲の文官たちが、微妙な表情で視線をそらす。
「お若いのに、たいそうお強い。だが“強さ”と“軽率さ”は紙一重ですぞ、マリアベル令嬢。……この国は、そうやって女性の出過ぎた言葉に厳しい国なのですから」
マリアベルは何も言わずに一礼し、その場を離れた。
視界がにじんでいることに気づくのは、扉を閉めたあとだった。
夜、邸に戻ると、マリアベルはドレスのまま、自室の窓辺に腰を下ろした。
真っ暗なガラスに映るのは、自信を装っていた少女の、素の顔だった。
息苦しい。
悔しい。
足元がぐらぐらする。
努力してきたことが、外の世界ではただの“戯言”でしかなかった。
そこへ、ノックの音がした。
「……はい。どうぞ」
入ってきたのは、クラリッサ・リースだった。
無言で椅子を引いて腰かけ、無造作にブーツを脱ぐ。
「まあまあ、よくやったわね」
「……見てたんですか?」
「耳には入ってるわよ。王宮ってのは、何より“噂の伝達”が早い場所だから」
マリアベルは小さくうつむいた。
「……私は、思っていたより、ずっと“何者でもなかった”んですね」
「当然よ。“何者でもない”から、“何者かになろう”としてるんでしょう?」
クラリッサは足を組みながら、紅茶を持ってきた侍女に礼も言わず受け取った。
「今回のあれは、試験みたいなものよ。“私を拒絶する人々の中で、私はどう振る舞うか”――っていう、ね」
「……負けませんでしたよ。言い返しました」
「そう、それが大事。
だが、次は言い返すだけじゃだめ。言い返して、“黙らせる”の。知識と実績で」
マリアベルはそっと息を吐いた。
「悔しかった。でも、それより……あの人たちの目が怖かった。私を人間扱いしていないような、あの空気が」
「……じゃあ、やめる?」
「いいえ」
すぐに答えた。
「私は、あの空気を壊すために、ここにいるんです。壊すだけじゃなく、新しい空気を作るために」
クラリッサが、わずかに笑った。
「そう。それでこそ、“クラヴィス”よ」
マリアベルは、ゆっくりと立ち上がった。
窓の外、王宮の尖塔が遠くに見えていた。
あの塔の中に、彼女が目指す未来がある。
その道が茨でも、冷笑が降り注いでも――かまわない。
「絶対に、行ってみせる。
……その先に、私の鍵がある」
少女の誓いは、夜の静けさに吸い込まれ、どこかで確かに鳴り響いた。
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