第3話 初めての『政治』入門


 その人がクラヴィス家に現れたのは、午後の陽が傾き始めたころだった。


 マリアベルは応接間のソファに緊張気味に座っていた。母カトリーナが茶器を選び、侍女にお茶の用意をさせながら、マリアベルの隣で娘を静かに見守っている。

 焼き菓子の香ばしい香りと、初夏の新芽の紅茶の香りが漂う中、重くも鋭い足音が廊下を渡ってくる。


 扉が開いた。


 入ってきたのは、深緑の乗馬服に身を包んだ女性だった。

 背筋をまっすぐに伸ばし、腰まである栗色の髪を一つにまとめている。凛とした立ち姿は、まるでこの場にいる全員を試しているかのようだった。


「クラリッサ、久しぶりね」


 カトリーナが微笑んで言うと、女性もわずかに口角を上げた。


「カトリーナ……あんたは変わらないわね。相変わらず、無駄に気品がにじみ出てる」


「それ、褒め言葉じゃないわよね?」


 ふっと二人が笑う。そのやり取りに、マリアベルは一瞬だけ緊張を緩めた。

 母と対等に話す大人の女性。口ぶりは荒くても、明らかに賢い――それが彼女の第一印象だった。


「……あなたが、マリアベル・クラヴィスね?」


「はい。お越しいただきありがとうございます、クラリッサ・リース様」


「そんなに畏まらなくていいわ。私は王でも教師でもない。王宮の片隅で埃まみれの記録と格闘してるだけの女官よ」


 そう言って、クラリッサはあっさりとソファに腰を下ろす。

 紅茶をひと口飲み、眉をひそめた。


「相変わらず、この家の茶は少しぬるいわね」


「舌が鋭いのは昔からよ」


 カトリーナが肩をすくめると、クラリッサはふと真顔になった。


「――さて。マリアベル。あなた、本当に学問院に入りたいと思ってるの?」


「はい。私は政治を学びたいんです。そして、将来この国の政に関わりたいと……そう思っています」


「……まっすぐね」


 クラリッサの視線が、真っすぐマリアベルを射抜いた。


「だけどそのままじゃ、たぶん途中で潰れるわよ」


「……え?」


「女が“政治”を語るというのはね、“意見が通らない”んじゃない。

 “存在すら受け入れてもらえない”ってことなのよ」


 マリアベルは口を閉じた。カトリーナも何も言わない。


「私が学問院に入れたのは十五年前。

 今と違って、変わり者の教官が一時的に“女性枠”を作ろうとしていた時期だった。結果、同期として入った女性は私を含めて三人。正式に卒業できたのは、私だけよ。」


「なぜ……?」


「妨害、排除、無視。

 最初から“いないもの”として扱われたのよ。試験の範囲すら教えてもらえない。指導の時間は減らされる。

 “卒業されると前例になる”からってね」


 その語り口は冷静だったが、静かな怒りが滲んでいた。


「私の代の女性卒業生は私だけ。歴代でも女性卒業生は4人よ。

 たとえ卒業しても、その後はもっと酷い。王宮で女官として働いてる今でも、会議には出席できない。書類を揃えるだけで、意見は言えない。

 ――“意見が通らない”以前の問題よ」



 マリアベルは拳を握った。


 父の反対も、社会の空気も、わかっていたつもりだった。

 けれど今、はっきりと思い知らされた。――この国において、女が“政を志す”ことは、最初から存在を拒絶されることなのだ。


 


「それでも、あなたはやるつもり?」


「……はい」


 クラリッサの目が細められる。

 その視線は鋭かったが、どこか、探るような優しさも含んでいた。


「じゃあ、覚えておいて。“政治”は力じゃない。“空気”と“信頼”と“演出”で動くのよ」


「演出……?」


「そう。女が意見を通したいなら、まず“相手に譲る姿勢”を見せなさい。

 意見を一歩引いて見せて、相手を立てる。そうして“信頼”を得たあとで、本当に通したい意志を押し出すの」


「……妥協ではなく、戦略、ですね」


「気がついてるのね。そう、それこそが女に許された“戦場”よ。

 真正面からぶつかって勝てると思うなら、それは傲慢というもの」


 


 静かに流れる空気の中、カトリーナがそっと紅茶を注ぎ足した。


「――この子に、それを教えてくれる?」


 クラリッサは一瞬だけ母娘を見比べ、ふっと息を吐いた。


「……まあ、いいわ。久々に骨のある子に出会った気がするし、あんたの娘だし、ベルティーヌ様の孫だものね。……鍛えてやるか」


「ありがとうございます」


 マリアベルは頭を下げる。


「でも勘違いしないで。私は先生ができるかはよくわからないわ。あなたの“協力者”でもない。

 “戦い方”を見せるだけ。

 その先をどうするかは、あなた次第よ」


 


 こうして、クラリッサ・リースはマリアベルの家庭教師となった。


 


 翌日から、指導は容赦なかった。


 朝は王国の憲法と貴族法、午後は政治制度と財政の基本、夜には答弁と討論の訓練。

 マリアベルが疑問を口にすれば、すかさず質問で返される。正論ではなく“どう通すか”を問われた。


「意見に正しさがあっても、相手に否定する理由があれば通らない。それが政治よ」


「民のために、ではなく、“誰のために”動くのかを明示しなさい。それが交渉力になる」


 


 何度も挫けそうになりながらも、マリアベルは食らいついた。


 クラリッサの言葉が厳しいのは、すべて“現実の重み”で磨かれたものだと、日に日に理解できるようになってきたからだ。


 


「学問院に入るには、まず筆記。

 そのあとは口述。いちばん厄介なのは、身分と性別の“見えない選別”。でも……突破できなくはないわ」


「そのために、どうすればいいですか」


「私が使える資料、全部引っ張ってくる。成績だけじゃなく、“王宮で役立つ可能性”を印象づけなさい。

 あとは――自分の中に“譲れない核”を持つこと」


 


 その夜。

 マリアベルは書斎に一人残り、クラリッサの残した言葉を何度も反芻していた。


 空気と信頼と演出――それは、自分にまったく足りなかった要素だ。

 でも、学べば手に入る。

 鍵は、すぐそこにある。


 


「私は、この国の扉を開けたい。……だから、私は負けない」


 


 その言葉は小さく、けれど確かに、静かな夜に響いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る