めざせトップオブレディ 〜女にも未来は変えられる〜 公爵令嬢の“鍵”の物語

ひだまり堂

〜第1章〜 第1話 わたしは飾りじゃない


 空気が、まだ冷たい。

 東の空から差し込む光が、クラヴィス公爵家の庭園を静かに照らしていた。


 咲き始めの黄薔薇に朝露がきらめく。芝の上を踏みしめる音が、ほとんどしない。

 それでも、この邸の誰もが彼女の足音に気づいているだろう。

 ――ここは、格式の中に息づく沈黙の館。

 代々宰相を輩出してきた名門、クラヴィス家の令嬢にふさわしい所作と静けさを、彼女は骨の髄まで叩きこまれて育ったのだから。


 十七歳のマリアベル・クラヴィスは、今朝も自室を抜け出して庭を歩いていた。


 理由など、問われない。

 問うことも許されない。

 この家では、娘が何を考えていようと、それが“家の意志”に関係しないかぎり、誰も気に留めたりはしない。


 貴族の娘に求められるのは、意志ではなく、美しさと、従順。

 政務や学問に口を出さず、穏やかに笑い、望まれれば、家を繋ぐ婚姻の道具となる。


 そんなこと、幼い頃からわかっていた。


 けれど、――それを“受け入れる”こととは、別だった。


 


 風が、金色の髪を揺らす。

 彼女の目線の先には、クラヴィス家の書庫の小塔があった。

 父の政務日誌を、こっそりと写し取った幼い夜。

 兄の演説草稿を、侍女に隠れて読みふけった午後。

 それらは今やすべて、マリアベルの中に積み上がっている。


 名門クラヴィス家は、この国の宰相家門と称される。

 初代宰相にして王の建国を支えた“大宰相グラン・クラヴィス”を祖に持ち、以後二百年にわたって五人の宰相を王家に送り出した。

 “クラヴィス”とは、古語で「鍵」を意味する。

 国を動かす鍵を握る家――それが、彼女の生まれた家だった。

 それはこの国の歴史そのものであり、同時に“男でなければ国政を担えない”という無言の証明でもあった。


 ――この家で、女は政治に触れてはならない。

 歴史も、血筋も、常識も、そう教えてきた。


 


 けれど。


 


 「……私には、わかるのよ」


 マリアベルは声に出した。誰もいないはずの庭で。

 それは自分自身への問いかけでもあり、宣言でもあった。


「私にだって、考えることができる。理解することができる。……なのに、なぜ“女だから”というだけで、許されないの?」


 声は、静かに震えていた。怒りではなく、無力への悔しさだった。

 与えられなかっただけだ。

 選ばれなかったのではない。

 最初から選ぶ土俵にすら、上げてもらえなかっただけ。


 


 「私は、違う」


 そうつぶやいた瞬間、自分でもわずかに驚く。

 でも、心がそれを望んでいたことに、気づいた。


「私は、違う。……誰かの陰で微笑むだけの人生なんて、まっぴら」


 そう口に出したことで、何かが、動き出した気がした。


 


 そのとき――背後から声がした。


「ずいぶん早いね、マリア。……今日は何を思い詰めてる?」


 振り返ると、背の高い青年が立っていた。

 栗色の髪を無造作に束ね、厚い書物を片手に抱えた姿。

 マリアベルの従兄、ディランだった。


「思い詰めてるわけじゃないわ。……ただ、静かな場所にいたくなったの」


「“静かな場所”って、つまり家族の視線から逃れたいときの合図だろう?」


 笑うその声に、彼女もつい口元をゆるめた。

 ディランは、分家の出でありながら、マリアベルにとっては数少ない理解者だった。

 彼もまた、名門の“型”からやや外れた、変わり者である。


「ねえ、ディラン。もし私が、政治の勉強をしたいって言ったら……どう思う?」


 ディランは少し目を見開いた。だが、すぐにふっと表情を和らげる。


「……正直、ようやく言ったかって気分だよ」


「え?」


「子供の頃から、君の質問はやけに“具体的”だったろう? 『王国法第七条って何のためにあるの?』とか、『税の徴収率って地域によって変えるべきじゃない?』とか」


「……だってそれは……」


「あのときのマリア、目が輝いていたよ。侍女たちが裁縫の話をしてる横で、税率の話してたんだから」


 マリアベルは照れたようにうつむいたが、その胸の内にひとつの確信が灯る。


「じゃあ、私が“本当に”政治の道に進もうとしたら――」


「それは、命がけになるかもしれない」


 ディランは即答した。


「……この国の構造を根本から揺るがすからね。宰相家とはいえ、公爵家の令嬢が、自ら政に関わろうとするなんて。

 保守派の老人たちは卒倒するし、王宮の古株は君を“脅威”と見る。……だからこそ、やる価値はある」


 彼の声には、どこか嬉しそうな響きが混じっていた。

 理解されることが、これほど心強いとは。


「女の子だからって、黙ってうつむく時代は終わらせたい。誰が何を言おうと、私は前に出る」


 その言葉に嘘はなかった。

 覚悟の重みを、自分自身がいちばん感じていた。


 


 「じゃあ、そのためにまずはどうするの?」


 ディランが静かに問いかける。

 マリアベルは、一歩、前へ踏み出した。


「学問院に行くわ。王立学問院――男ばかりのあそこに、私が女として入ってみせる。頭を下げるためじゃない。学ぶため。……この国を、知り尽くすために」


 その瞳はまっすぐだった。

 不安も、恐れもある。けれど、それ以上に熱がある。意志がある。


 学問院は通常の学園とは異なり、「貴族や王族のための高等教育機関」である。特に政治・法・軍学・経済などの専門を学ぶ場所であり、王家の妃教育のために一時的に女性が学ぶことはあっても、卒業生に女性がいるケースはごくわずかであった。


 飾り物の令嬢なんて、もう終わりにする。

 この国の鍵を、いつか自分の手で握るために。


 マリアベル・クラヴィスの“反逆”が、いま、始まろうとしていた。

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