第3話 記憶の迷宮

第1章 - 深まる混乱 -

催眠療法から1週間が経ったが、晴人の症状は改善するどころか、さらに悪化していた。

昨夜は18人だった。これまでで最多の人数を殺さなければならず、目が覚めたのは夜の8時。丸一日以上眠り続けていたことになる。

「晴人!やっと起きたのね」

母親の美咲が心配そうに部屋に入ってきた。

「もう夜よ。丸一日以上眠っていたの。どんなに揺すっても起きなくて、救急車を呼ぼうかと思ったわ」

晴人はベッドの上で呆然としていた。夢の中で殺した18人の顔が、まるで写真のように鮮明に記憶に残っている。男性、女性、老人、子供…。

その中に、またみゆちゃんがいた。今回は最初の方に出てきて、いつものように晴人に微笑みかけていた。

「体調はどう?熱は?」

美咲が額に手を当てた。

「熱はないけど、顔色が土気色よ。もう学校どころじゃないわね」

実際、晴人はもう2週間以上学校に通えていなかった。担任教師からは毎日のように連絡が入り、美咲は息子の体調不良と説明し続けていた。

「母さん、僕…もうだめかもしれない」

「何を言っているの。山田先生だって、時間はかかるけれど必ず良くなるって」

しかし、晴人には希望が見えなかった。催眠療法で少し記憶が蘇ったものの、それがかえって悪夢を激しくしているような気がした。

「今日も山田先生のところに行きましょう。緊急で診てもらえるか電話してみるわ」

美咲は心配そうに息子を見つめていた。この1ヶ月で晴人は別人のように痩せ細り、目の光も失いつつあった。


第2章 - 記憶の断片 -

その日の夜、山田医師は緊急で晴人を診察してくれた。

「症状がさらに悪化しているようですね」

「はい。殺さなければならない人数が18人まで増えました」

山田医師は深刻な表情で頷いた。

「前回の催眠療法の後、何か変化はありましたか?」

「記憶の断片が浮かんでくることが増えました。特に、みゆちゃんとの記憶が」

「どのような記憶ですか?」

晴人は思い出そうとした。

「公園で遊んでいる光景。砂場でお城を作っているところ。みゆちゃんの笑い声…」

「その時の気持ちも思い出しますか?」

「楽しかったです。みゆちゃんと遊ぶのは、いつも楽しくて」

美咲が心配そうに聞いた。

「それは良い記憶なのね?」

「はい。でも…」

晴人は言葉を詰まらせた。

「でも?」

「その後の記憶が曖昧なんです。誰かが来て、みゆちゃんがいなくなって…」

山田医師は慎重に質問を続けた。

「その誰かについて、何か覚えていることはありますか?」

「男の人でした。背が高くて…」

「声や話し方は?」

「優しい声でした。怖くない、穏やかな感じの」

「何と言っていましたか?」

晴人は記憶を辿ろうとしたが、その部分だけがぼやけていた。

「はっきりとは…でも、お菓子の話をしていたような気がします」

山田医師はメモを取りながら考え込んでいた。

「晴人さん、もう一度催眠療法を行ってみましょう。今度はより深く、その時の記憶を探ってみます」

「でも、前回の後で症状が悪化しました」

「確かにリスクはあります。しかし、根本的な原因を特定しなければ、症状の改善は望めません」

美咲が不安そうに聞いた。

「本当に大丈夫なのでしょうか?」

「お母様のご同意も必要ですが、現在の症状を考えると、積極的な治療が必要だと判断します」

結局、翌週に再び催眠療法を行うことが決まった。


第3章 - 第二回催眠療法 -

翌週の催眠療法では、晴人はさらに深い催眠状態に入った。

「今から、7歳の時のあの日に戻ります。公園で遊んでいる場面から始めましょう」

山田医師の声に導かれ、晴人の意識は過去へと向かった。

「どこにいますか?」

「公園です。いつもの公園。滑り台や砂場がある」

「誰かと一緒ですか?」

「みゆちゃんがいます。木村みゆちゃん」

「みゆちゃんとは何をしていますか?」

「砂場でお城を作っています。みゆちゃんが上手で、僕は手伝っているだけ」

「その時の気持ちはどうですか?」

「楽しいです。みゆちゃんはいつも優しくて、一緒にいると安心できます」

「そこに誰か来ましたか?」

晴人の表情が少し変わった。

「はい。男の人が来ました」

「どのような人ですか?」

「背の高い人。優しそうな顔をしています。知らない人じゃないような…」

「知らない人じゃない?」

「どこかで見たことがあるような気がしました。でも、はっきりとは…」

「その人はあなたたちに何と言いましたか?」

「『お菓子を買ってあげようか』って」

「あなたはどう思いましたか?」

「最初は嬉しかった。お菓子がもらえるなら」

「みゆちゃんの反応は?」

「みゆちゃんも喜んでいました。『本当?』って聞いていました」

「その後、どうなりましたか?」

晴人は苦しそうな表情を見せた。

「その人が僕の方を見て、何か言ったんです」

「何と言いましたか?」

「『君はここで待っていなさい』って」

「なぜ、あなただけが残ることになったのですか?」

「分からない…でも、その人の言い方が…」

「言い方がどうしました?」

「命令ではなくて、お願いしているような感じでした。『お願いだから、ここで待っていて』みたいな」

山田医師は興味を示した。

「お願いするような口調?」

「はい。まるで、僕を心配しているような…」

「その後、どうなりましたか?」

「みゆちゃんは『晴人くんも一緒に来てよ』って言いました。でも、その人は『今度一緒に行こう』って」

「あなたはどうしましたか?」

「なんだか怖くて…理由は分からないけど、胸の奥がざわざわして」

「それで?」

「結局、僕は公園に残りました。みゆちゃんは一人でその人について行きました」

晴人の顔に涙が流れ始めた。

「それが、みゆちゃんを見た最後でした」

第4章 - 新たな記憶の浮上 -

催眠療法の後、晴人はさらに激しい頭痛に襲われた。

「前回より深い記憶にアクセスしたようですね」

山田医師は晴人に痛み止めを渡した。

「あの男性について、もう少し思い出せることはありませんか?」

「顔はまだぼやけていますが、声がもう少しはっきりしてきました」

「どのような声でしたか?」

「温かい声でした。僕に優しく話しかけてくれるような」

美咲が心配そうに聞いた。

「もしかして、知っている人だったのかしら?」

「分からない…でも、全くの他人という感じではありませんでした」

山田医師が質問した。

「その男性の服装や特徴で、他に覚えていることは?」

「スーツを着ていたような気がします。お仕事帰りみたいな」

「時間帯は覚えていますか?」

「夕方だったと思います。夕日が差し込んでいました」

「平日でしたか?休日でしたか?」

晴人は記憶を辿った。

「平日だったような…僕たちは学校が終わってから公園に来ていたので」

美咲が思い出したように言った。

「そういえば、みゆちゃんが行方不明になったのは平日の夕方だったわね」

山田医師はメモを取りながら頷いた。

「つまり、犯人は平日の夕方に子供たちが集まる公園を狙っていたということですね」

「計画的だったということですか?」

美咲が不安そうに聞いた。

「可能性は高いでしょう。そして、なぜか晴人さんだけは連れて行かなかった」

「それが一番不思議です」

晴人は頭を抱えた。

「なぜ僕だけ残されたんでしょう?」


第5章 - 症状の急激な悪化 -

その夜、晴人の悪夢はこれまで以上に激しくなった。

夢の中で殺さなければならない人数は、ついに25人に達した。そして、その最後に現れたのは、またしてもみゆちゃんだった。

「晴人くん、私を覚えていてくれてありがとう」

夢の中でみゆちゃんが言った。

「でも、もうそろそろ真実を知る時が来たね」

「真実?」

「あの日、私を連れて行った人のことだよ」

「僕にはまだ分からない」

「もう少しで思い出すよ。きっと」

みゆちゃんは悲しそうに微笑んだ。

「でも、その時はとても辛いと思う。心の準備をしておいてね」

「なぜ辛いの?」

「その人は、晴人くんにとって---」

晴人は夢の中で困惑した。

「え?聞き取れないよ、みゆちゃん?」

「でも、真実を知らなければ、晴人くんは治らない」

みゆちゃんはそう言うと、いつものように晴人に殺されていった。

目が覚めたのは翌日の夜だった。ほぼ24時間眠り続けていた。

「晴人!」

美咲が泣きながら息子を抱きしめた。

「どんなに呼んでも起きなくて…本当に心配したのよ」

晴人は起き上がることもできないほど消耗していた。体重はさらに落ち、もはや別人のようだった。

「母さん…もうだめだ」

「何を言っているの!諦めないで」

「みゆちゃんが言っていた。もうすぐ真実を知る時が来るって」

美咲は困惑した表情を見せた。

「真実?」

「犯人の正体。でも、それを知ったら、僕はもっと辛くなる」

美咲は山田医師に緊急で連絡を取った。


第6章 - 入院の決断 -

山田医師は晴人の状態を見て、即座に判断した。

「これは緊急事態です。すぐに入院治療が必要です」

「入院?」

美咲は驚いた。

「現在の症状では、24時間体制での観察と治療が必要です。このままでは命に関わる可能性もあります」

晴人は力なく頷いた。

「分かりました」

「晴人、本当にいいの?」

「母さん、僕はもう限界だ。専門的な治療を受けないと…」

美咲は涙を流しながら息子の手を握った。

「分かったわ。先生にお任せします」

翌日、晴人は精神科病院に入院することになった。

入院手続きを済ませながら、山田医師が説明した。

「まずは体力の回復を図り、その後で本格的な治療を再開します」

「記憶の治療も続けるんですか?」

「はい。真実に近づいているのは確かです。中断すれば、また最初からやり直しになってしまいます」

美咲が不安そうに聞いた。

「でも、真実を知ることで、もっと悪くなったりしませんか?」

「確かにリスクはあります。しかし、根本的な治癒のためには避けて通れません」

病室に案内される際、晴人は振り返って母親を見た。

「母さん、ありがとう」

「何を言っているの。必ず良くなるのよ」

「もし僕が真実を知って、ひどく取り乱したりしても、見捨てないでね」

美咲は困惑した表情を見せた。

「どうしてそんなことを言うの?」

「夢の中でみゆちゃんが言っていたんだ。真実はとても辛いものだって」

「晴人…」

「でも、知らなければ治らない。だから、頑張る」


エピローグ - 真実への扉 -

入院初日の夜、晴人は病院のベッドで静かに過ごしていた。

薬の効果で、久しぶりに悪夢を見ることなく眠ることができそうだった。

しかし、眠りにつく直前、ふと新しい記憶の断片が浮かんできた。

あの日の公園で、男性がみゆちゃんに話しかけている時の光景。そして、その男性が自分に向かって言った言葉。

『晴人、ここで待っていなさい』

その声の調子に、何か特別なものがあった。ただの他人が子供に話しかける時の声ではない。もっと親しみのある、愛情のこもった声だった。

そして、その男性の後ろ姿。歩き方や身体の特徴に、どこか見覚えがあるような…。

いや、まだ分からない。記憶はまだ断片的で、確証はない。

しかし、真実に近づいていることは確かだった。そして、その真実を知った時、自分の世界は完全に変わってしまうだろう。

みゆちゃんが言っていた通り、それはとても辛い真実かもしれない。しかし、知らなければ自分は治らない。

明日から本格的な治療が始まる。そして、近いうちに全ての記憶が蘇るだろう。

その時、自分はどうなってしまうのか。母親はどうなってしまうのか。

不安と恐怖に包まれながらも、晴人は静かに眠りについた。

真実への扉は、もうすぐそこまで近づいていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る