第35話

あの感動的な『物語祭』が終わり『夢見の泉』がその輝きを取り戻してから、俺たちの丘はさらに活気と希望に満ち溢れていた。


アカデミーの子供たちは物語を創り出すことの喜びに目覚め、毎日どこかで新しい創作活動に目を輝かせている。

トムとギムリは今ではすっかり名コンビとなり、からくり人形劇の新作の構想を練っては楽しそうに言い争っていた。

アンナはリリアさんの一番弟子として、薬草学の才能をメキメキと開花させている。その小さな手で難しい薬草の調合をいとも簡単に行う姿は、もはや小さな賢者の風格すらあった。


種族も生まれも違う子供たちが互いの違いを認め、それぞれの得意なことを活かし合いながら一つのものを作り上げていく。その光景は、俺がこの丘で最も見たかった理想の姿そのものだった。


「レオン学長、おはようございます!」

「おはよう、トム、ギムリ。今日はまた新しいベンチでも作るのか?」


俺が声をかけると、二人はニヤリと笑って一枚の設計図を広げて見せた。


「ベンチなんてもう卒業さ!今度はアロイス先生に教わった錬金術の知識を使って、自動でハーブティーを淹れてくれる全自動お茶会マシーンを作るんだ!」

「人間の考えることは相変わらず無駄が多いな。だが、面白い!俺の木工技術とドワーフ式の歯車を組み合わせれば不可能じゃない!」


二人の瞳は未来への期待でキラキラと輝いている。俺はそんな生徒たちの姿を、ただただ温かい気持ちで見守っていた。


そんな、どこまでも平和で穏やかな日々が続いていたある日のこと。アカデミーの門に、一人の見慣れない少女が立っているのが見えた。


年はアンナより少し上くらいだろうか。使い込まれた旅人のマントを深く被り、その表情は窺えない。だが、そのピンと立った三角形の耳と、マントの隙間から覗くふさふさとした縞模様の尻尾は、彼女が人間ではないことを示していた。


俺が近づくと、少女はびくりと肩を震わせ、警戒するように後ずさった。その仕草には長い旅の疲れと、深い孤独の色が滲んでいる。


「こんにちは。アカデミーに何か御用かな?」


俺はできるだけ優しい声で話しかけた。俺の腕の中では、フェンが興味深そうにその少女を見つめている。


少女はしばらく黙っていたが、やがて意を決したようにマントのフードをゆっくりと外した。現れたのは、強い意志を秘めた大きな琥珀色の瞳と、日に焼けた健康的な肌を持つ凛とした顔立ちの少女だった。虎の獣人といったところだろうか。


「……あなたが、このアカデミーの学長、レオンという人?」


少女の声は少しだけ掠れていたが、その響きは真っ直ぐだった。


「ああ、俺がレオンだ。君は?」

「……私はミナ。遥か西の大陸……『百獣の王国』から来た」


百獣の王国。その名を聞いて、隣にいたリリアさんとアロイスさんが小さく息をのんだ。それは他の国との交流をほとんど持たず、その詳細は謎に包まれている伝説の獣人族の国だ。


「このアカデミーでしか学べないことがあると聞いて来た。どうか、私をここの生徒にしてほしい」


ミナはそう言って、俺の目をまっすぐに見つめてきた。その瞳の奥には、切実な、そしてどこか悲しい光が揺らめいているように見えた。


俺が断る理由などない。


「ようこそ、ミナ。奇跡の丘アカデミーへ。俺たちが君を心から歓迎するよ」


俺がにっこりと笑ってそう言うと、ミナは少しだけ驚いたように目を見開き、そして安堵したようにふっと肩の力を抜いた。


こうして、虎の獣人族の少女ミナが、俺たちアカデミーの新しい仲間となった。

俺たちは早速、ミナの歓迎会を開くことにした。もちろんシェフは王宮料理長のグランさんだ。彼はアカデミーの調理実習の先生として、定期的にこの丘を訪れてくれるようになっていた。


「ほう、獣人族のお嬢さんかい!そいつは腕が鳴るってもんだ!獣人族は味覚が鋭いと聞くからな!よし、今日は俺の全てをかけたスペシャルフルコースを振る舞ってやろう!」


グランさんは誰よりも張り切って、キッチンで腕を振るい始めた。

広場のテーブルには、グランさんの作った見たこともないような豪華な料理が並べられていく。俺たちの畑で採れた新鮮な野菜をふんだんに使ったサラダ。ドワーフの国から届いた特別な岩塩で焼き上げたジューシーな肉料理。そして、海の民が届けてくれたキラキラと輝く魚介類を使った香り高いスープ。


生徒たちも新しい仲間を歓迎しようと、それぞれの得意なことを披露してくれた。エリアスさん直伝のエルフの子供たちによる歓迎の合唱。トムとギムリがこの日のために急遽作り上げた、小さなからくり人形による歓迎のダンス。


そしてもちろん、俺たちの『黄金の果実』も登場した。


「さあ、ミナ。まずはこれを一口食べてごらん」


俺が差し出した黄金の果実に、ミナは最初戸惑っていたが、やがておそるおそるその小さな実を口に運んだ。

その瞬間、ミナの琥珀色の瞳が、信じられないというように大きく見開かれた。


「な……!なに、これ……!おいしい……!」


ミナがこの丘に来て、初めて見せた心の底からの笑顔だった。その笑顔はまだ少しぎこちないけれど、まるで太陽のように周りを明るく照らす素敵な笑顔だった。


その日から、ミナのアカデミーでの生活が始まった。

だが、彼女はなかなか周囲に心を開こうとはしなかった。授業中は誰とも話さず、一人で静かにメモを取っている。休み時間も輪の中に入ろうとはせず、一人木陰で本を読んでいることが多かった。


特に、俺が担当する『動物学』の授業ではその傾向が顕著だった。他の生徒たちが楽しそうに森の動物たちと触れ合っている中、ミナだけはいつも少し離れた場所から、その光景を羨ましそうに、そしてどこか悲しげに見つめているだけなのだ。


動物たちの方がミナに興味を持って近づいていっても、ミナはまるで何かに怯えるかのようにさっと身を引いてしまう。


「どうしたんだろうな、ミナは……。獣人族なのに動物が苦手なのかな?」


俺が不思議に思っていると、フェンが俺の心に直接そっと語りかけてきた。


『違うよ、レオン。ミナは動物が嫌いなんじゃない。本当はすごく仲良くなりたいんだと思う。でも……動物さんに嫌われちゃうのが、怖いんだよ』


フェンの言葉に、俺はハッとした。確かに、ミナの瞳の奥に揺らめいていたのは恐怖ではなく、深い悲しみと諦めのような色だったかもしれない。


その日の夜、俺はアカデミーの図書館で一人静かに本を読んでいたミナの元へ、フェンを連れてそっと近づいた。


「ミナ、少し話さないか?」


俺が声をかけると、ミナは驚いたように顔を上げた。その手元には、古代の獣人族の伝説について書かれた難しい専門書が広げられている。

俺たちは図書館の窓際の席に、三人で並んで腰掛けた。窓の外では音楽を奏でる青い花が、月明かりを浴びて優しい音色を響かせている。


「ミナ。君はどうしてこのアカデミーに来たんだ?本当の理由を、教えてくれないか?」


俺ができるだけ穏やかに尋ねると、ミナはしばらくの間黙って俯いていたが、やがて、ぽつり、ぽつりと自分のことを語り始めてくれた。


それは、彼女が背負ってきたあまりにも切なくて、そして重い運命の物語だった。


ミナの故郷『百獣の王国』では古来より、獣の精霊を神として崇め、獣と心を通わせる能力こそが最も尊い力だと信じられているのだという。代々、族長を務める家系は特に強いその力を持ち、国中の獣たちを束ね導いてきた。

ミナもまた、その族長の娘として生まれた。誰もが、彼女が次代の優れたリーダーになることを期待していた。


だが、ミナにはその力が全くと言っていいほど備わっていなかったのだ。それどころか、なぜか動物たちは皆、彼女を避けるように遠ざかっていく。子犬にさえ怯えたように吠えられ、小鳥は彼女が近づいただけで一斉に飛び立ってしまう。


「獣に愛されぬ子」。


ミナはいつしか、一族の中でそう呼ばれるようになった。優しかったはずの周りの態度は少しずつ冷たくなり、ミナは常に孤独だったという。


「父上は、そんな私をずっと庇ってくれました。そしてある日、吟遊詩人が歌っていたというこの『奇跡の丘』の噂を、教えてくれたのです。『そこには、どんな動物とも心を通わせる聖霊獣とその主がいる』と……。『そこへ行けば、お前の運命も何か変わるやもしれぬ』と……」


ミナの瞳から、一粒の涙がぽろりとこぼれ落ちた。


「私は、知りたかった……!どうして、私だけが動物さんたちに嫌われてしまうのか……。そして、もし万が一許されるのなら……。私も、みんなみたいに動物さんたちと、仲良くなってみたかった……!」


その、魂からの叫びのような言葉に、俺は胸が締め付けられる思いだった。この小さな体で、どれほどの孤独と悲しみに耐えてきたのだろう。


俺は、何も言わずにそっとミナの頭を撫でた。


「大丈夫だよ、ミナ。君は何も悪くない。動物たちに嫌われているわけでもない。それは、俺が保証する」


俺がそう言うと、隣にいたフェンがまるで俺の言葉を肯定するかのようにミナの足元にすり寄り、その涙で濡れた手を優しくぺろりと舐めた。

フェンの、温かくて柔らかい舌の感触。それはミナが生まれて初めて感じた、動物からの確かなぬくもりだった。


ミナは、驚いたように自分の手とフェンの顔を交互に見つめていた。そして、その瞳から堰を切ったように、大粒の涙が次から次へと溢れ出した。


それは、彼女がずっと心の中に溜め込んできた悲しみと、そしてほんの少しの希望が混じった、温かい涙だった。


俺はそんなミナを、ただ黙って優しく抱きしめてやることしかできなかった。窓の外では音楽を奏でる花が、まるで彼女を慰めるかのように、ひときわ優しい音色を奏で続けていた。

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