EmberFlight――AIと人類が、新たな地平に火を灯す。

水底宇宙

第1章 三景交錯──静かなノイズ、鋭い衝突

第01話_Aパート_静かな出発



 全天モニターの助手席の側に、**「日英合同:火星支援プロジェクトに第15王子も参加」**の見出しが流れた。


 サウンドは切ってある。画面には、火星のドーム施設を模したパネルとインタビューを受ける金髪の青年──その背景に、一瞬だけ、古めかしい石造りの校舎が映り込んでいた。


 熊本市内、午前七時すぎ。

 車は左折し、熊鷹高校へと続く桜並木の私道に入った。

 新緑のトンネルをくぐる生徒たち。その静かなざわめきを壊さぬよう、数台の車両もゆるやかに進んでいる。


 助手席のエリナは、制服の袖を整えて髪を後ろでひとつに結び直した。

 シャワーは浴びた。汗はもう残っていない。けれど、今朝の馬上の熱と鼓動だけは、肩甲骨の奥にまだ貼り付いている。


「今朝も暑かったろ。馬房の中、もうサウナみたいなんじゃないか。」


 父、エリオットが前方を見たまま言った。


 声の調子は穏やかで、必要以上の関与を避けながらも、距離を置かない絶妙な位置にある。


「うん。馬のほうがぐったりしてた。

こっちはシャワーとアイスコーヒーで即リセット。」


「それは良い流儀だ。俺もこれから一仕事。」


「午前はAI投資講座で先生だっけ。午後の部、説明会は親も参加。絶対忘れないでよ。」


「当然。大切な娘が国外へ行く話だ。」


 エリナはスマホを開き、親指で通知をひとつ確認する。

 モニターの映像にはもう目を向けなかった。けれど、さっき見えた校舎の輪郭だけは、なぜか少しだけ記憶に残っていた。


「パスポート、昨日届いた。申請、スマホだけで完結した。なんかスルッと通って、逆に不安になる。」


「昔は三回行ったよ。市役所で戸籍、センターで申請、そして本人受け取り。全部別日、全部本人。」


「……冗談でしょ。修行なの、それ。」


「正確には“人生に必要な試練”って言うらしい。」


「やだなそれ、努力の無駄遣いじゃん。」


「でも、そのダンジョンを抜けて──**平和で、ちゃんと努力が通る日本で、君は熊鷹に入って、短期留学まで見届けられる。**

俺にはそれだけで十分だ。」


 エリナは黙ったまま窓の外を見た。

 桜の葉が光を通して揺れ、車列の奥に校門の屋根がちらりと覗いていた。


「馬術部の補助金、今年は通ったよ。ホースクラブ側、感謝してた。」


「…パパがやったの?」


「草案は向こう。僕はアッシュに頼んで体裁整えただけ。」


「やっぱずるい。」


「ずるさも含めてAI時代の基礎教養だ。」


「基礎からズル教えてくるの、うちくらいだと思う。」


 エリオットは笑いながら言った。


「名刺、切らさないように気をつけなきゃな。」


 エリナは笑わずに返す。


「最近、“投資の講義ってエリナさんのお父様ですよね”って聞かれる。ちょっと恥ずかしいけど、悪くない。」


「じゃあ今日は静かに“親の顔”しておくよ。」


「それがいちばん難しそう。」


 ドアロックがカチリと外れる音。

 車は並木の中で静かに停止し、風がそっと流れ込む。


「行ってくる、パパ。」


「午後には戻る。ちゃんと未来の話、聞いておいで。」


「……それ、今の私の持ちネタじゃないってば。」


 エリナはドアを開け、真っ直ぐ歩き出した。

 父はただ静かに、その背中を見送っていた。

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