第十六話 毒入りワイン③
休憩を終えると、ヴィーニアは再び教壇に立った。
「さて──ここからが本題よ」
ホワイトボードの片隅に、新たな文字が記される。
『ソルビン酸とアラビアガム』
ペットボトルの水を飲み干すと、ヴィーニアは静かに語り始めた。
「ソルビン酸──これは保存料の一種。名前の響きだけで悪者に聞こえるけど、実はチーズにも、醤油にも、干し柿にも、ごく普通に使われているの」
「そしてアラビアガム──こちらは乳化剤。コカ・コーラには欠かせない成分よ。液体の中で、成分がバラバラにならないよう安定させる働きをしてくれる」
「どちらも、食品では広く使われているのに──ワインの世界では、あまり語られない。
むしろ“使っていない”ことが、ちょっとしたステータスみたいになっている。なぜだと思う?」
少しの沈黙の後、ひとりの男子生徒が手を上げた。
「ボルドーの一流シャトーや、シャンパーニュの有名メゾンで使っている話は、聞いたことがありません。やっぱり、味の向上を追求すれば…避けるべきものなんじゃないでしょうか?」
ヴィーニアは嬉しそうに頷いた。
「いい視点ね──うん、70点かな」
褒めた割に低い点数に、教室から小さな笑い声がもれる。
男子生徒は不服そうに眉をひそめた。
「……駄目ですか? 事実だと思いますけど」
「たしかに“事実”ではあるわ。でもね──もしあなたが将来、ワインを“つくる側”になりたいなら、その答えはあくまで一部正解」
「回答欄の残りは、未記入。だから減点。──そういう感じね」
そう言ってヴィーニアは、出窓の空き瓶の中から一本を手に取った。
ラベルには、誰もが知る“塔”の絵──あのメドック一級ワイン。
「このラベル、見たことあるでしょう? じゃあもし──この裏ラベルに、酸化防止剤としてソルビン酸やアラビアガムの記載があったら?」
生真面目そうな女子生徒が発言する。
「利益を優先するために生産性を重視したのかなって…」
「そうね、ありがとう。でもなんで、アラビアガムを入れたら儲け主義に見えるのかな?」
「もしこれが、スーパーの安ワインだったら誰も気にしないのに。なぜ高級ワインだと“裏切り”みたいに受け取られるのか?」
少し考え込んでから、女子生徒が口を開く。
「……それは、“格付けシャトー”とか、“自然派”っていう言葉がつくだけで──期待値が変わるというか…」
「ああ、やっぱりこれは入ってないから間違いのない品だって──安心したい気持ち、みたいなものがあるのかもしれません」
ヴィーニアが軽く頷く。
「順番がね、逆なのよ。アラビアガムやソルビン酸が“商業主義の象徴”に見えるんじゃなくて──
安ワインに入っているから、それが悪みたいに見えてしまう」
「だから自然派や格付けワインがそれを使ったとたん、裏切られたっていう印象になる」
「もちろん、そういう期待や信頼があるからこそのブランドなのよ。でも──使う・使わない以前に、使わないはずだって、決めつけてしまっているの。私たちの側が」
女子生徒の顔に、少し戸惑いの色が浮かぶ。
「……でも、それがわかってるなら、入れる意味無くないですか?」
その問いに、ヴィーニアはふっと微笑んだ。
「いい質問ね。たとえば──それが必要だったとしたら?」
「どんな輸送経路を通るのか分からない。どんな売り場に並ぶのかも予測できない。そんなワインたちが、それでも“美味しいまま”であってほしいって、誰かが思ったとしたら?」
「それは、品質を軽んじた怠慢なんじゃなくて──
むしろ、どんな人のもとに届いても、美味しくあってほしいっていう、ある種の願いなのかもしれないわね」
そう言って、ヴィーニアはボトルをそっと置き直す。
「親心、だと思うのよ」
「想像してみて欲しいの。高級ワインと違って、海外の蔵元から定温コンテナで運んでもらえるわけでもない、カジュアルなワインが──
40度近くまで上がるコンテナで何週間もかけて船に揺られ、日本までたどり着く」
「そこからまた、トラックで輸送されて、スーパーの酒売り場に並ぶ。
冬は暖房で店内25度、閉店後は10度以下に急降下。それを毎日繰り返すのよ」
「そんな環境に、酸化防止剤を最小限しか入れていないワインを置いたら……果たして、無事でいられるかしら?」
「“大切な日に開ける特別な一本”のために努力する作り手もいれば──
“どんな環境でも壊れず、日常に寄り添う一本”を願って、しっかり防腐処理を施す作り手もいるの」
「世の中には、ピアノや英語を習わせて感性豊かに育った子も、恵まれたとはいえない環境で、たくましく育った子もいる」
「どちらにも、親の想いがあるのよ」
教室を一瞬、静寂がつつむ。
「……誰だよアレ」
「……シラフの学園長です」
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