チヒロ

 高校2年生の夏休み、美術好きの祖父の家に、新しい絵画がやってきた。私と同い年くらいの少女の肖像画だ。誰が描いたのか、なんのために描いたのかもわからない、祖父曰く二束三文の安物。タイトルも不明とされているけど、カンバスの裏側に木炭で記された3文字がこの絵のタイトルなんじゃないか、と言われているらしい。


 その3文字は「チヒロ」。


 だから私は彼女のことをチヒロと呼ぶ。 


 ファンタジーの産物のような、”喋る絵画”である彼女のことを。




 チヒロが家に来たのは、ちょうど私が祖父の家にお世話になり始めた日と同じタイミングだった。


 毎年、夏休みになると私は祖父の家で過ごしている。特別な理由は何もなく、私自身昔からおじいちゃん子なのと、祖父の家が広くて綺麗だから。芸術に明るい人らしく、祖父は裕福で穏やかなのだ。


 実家から電車を乗り継ぎ、相変わらず自分の身内の家とは思えないほど立派な日本家屋に辿り着いた頃には、もう日が暮れていた。


 門に取り付けられたインターホンを押すと祖父が出てきて、大歓迎の後に豪勢な夕食を振る舞ってくれた。


 夕食をたらふく食べてひとまず落ち着いたら、祖父はいつもの如く美術品をコレクションしてある部屋に私を案内した。玄関から伸びる板張りの長い廊下をずっと行った突き当たり。祖父の家は基本的に和室で構成された家だけれども、その部屋だけは襖を開けた先にペルシャ絨毯の敷かれた洋室が広がっている。


 部屋に向かう最中、祖父は新しく買った絵画の話をし続けた。知り合いから買い取ったもので、謎だらけの品なのだと。


 ひとしきり『チヒロ』の話をしたらコレクションルームに着いたので、祖父は「それじゃあ、ゆっくり見ていってね」と言ってその場から立ち去った。美術品はまず、何の解説もなしに鑑賞するべきである。それが祖父のポリシーだった。


 そうして部屋に入った瞬間……心を奪われた。


 部屋の奥に掛けられた油彩画。大きさはだいたいA3の用紙と変わらないくらいだろうか。カンバスのサイズは決して大きくないものの、私はその絵に圧倒されてしまった。そこに描かれた少女が、あまりにも美しかったから。


 真っ直ぐな銀髪を背中まで伸ばした、抜けるように白い肌の彼女は、薄暗い洋室の隅で籐椅子に腰掛け、サッシに肘をつきながら、窓の外の世界を憂い顔でぼーっと見つめている。彼女のいる部屋の光源は、窓から差し込む一筋の陽光だけ。しかし光は力強く彼女の銀髪を、白い肌を、端正な顔立ちを照らし出している。その印象的な光の使い方は、フェルメールの絵画を思い起こさせた。


「綺麗……」


 吸い込まれるように絵の傍に寄り、思わずそう呟くと、窓の外を眺めていた絵の中の少女が、こちらを向いた。


「ねえ、あなた、誰?」


 最初、幻聴かと思った。


 しかし、絵の中の彼女がしっかりと私のいる方に顔を向け、籐椅子から立ち上がり迷いなくこちらに向かってくるのを見た途端、ああ、本当にこの子が喋っているんだ、と不思議なくらい自然と受け入れることができた。


「ねえ、誰なの?」


 少女はパントマイムでもするかのように両の手のひらをこちらに向け、私の瞳を覗き込んでくる。


「私はあなたの鑑賞者だよ」

「鑑賞者? なにそれ。わたし、見世物でも何でもないんだけど」

「でも、あなたは絵の中にいるから」

「どういうこと?」


 少女は自分が絵画だということを知らないようだった。


「あなたは絵なんだよ。カンバスに描かれた女の子」

「そんなことあるわけないでしょ。だってわたし、ちゃんと生きているもの。わたしは絵画なんかじゃない、れっきとした人間よ」


 決然と言い切った後、突然彼女は目を伏せる。


「だけどね……わたし、自分がなんなのかよくわかってないの。自分の名前さえ知らない。ただ、いつの間にかこの部屋にいたの。それで、もうずっと長い間この部屋から出られずにいる」


「それは……」


 それは、あなたが絵だからだよ。


 そう言おうとしたけど、やめた。彼女が自分を人間だと言うのなら、それを認めるべきだと思ったから。


「……きっと、あなたはチヒロって名前なんじゃないかな」


 代わりに、私は彼女に名前を教えることにした。


 カンバスの裏に木炭で書かれた三文字。それはこの絵のタイトルとされていると同時に、この絵に描かれた少女のことを指しているとも言われているらしい。


「チヒロ……それがわたしの名前?」

「うん、多分」

「チヒロ……チヒロかぁ……」


 彼女は何度かチヒロ、と繰り返し、やがて、うん、と頷いた。


「確かに、そんな名前な気がするわ。わたしはチヒロ。うん、すごく、しっくりくる」


 そう言って、彼女は私に向かって笑いかけてくる。


「わたしの名前、教えてくれてありがとう!」


 これが、チヒロとの邂逅だった。




 それから、暇さえあったらチヒロのもとへ行き、彼女といろいろなことを喋った。


「ねえ、チヒロには私ってどういう風に見えてるの?」

「うーん……穴の中にいる人?」

「なにそれ」

「わたしの部屋には何の絵も飾られていない額縁があるの。額縁の中は真っ黒な空間になっていて、穴みたいに見える。中に手を突っ込もうとしても強力なバリアに弾かれちゃうんだけどね。その、今まで何もなかった真っ黒な空間の中に、突然あなたが現れたの」


 チヒロの言う額縁は、まるでこちらの世界と絵の世界を繋ぐ窓のように思われた。扉のように行き来することはできないが、姿を見て、言葉を交わすことはできる。きわめて限定的な、生身よりも通信に近いささやかな交流。


 しかし、チヒロにはそれしかないのだと言う。


「わたしは今まで、ずっと独りでこの部屋にいたの。ここを尋ねる人もいなければ、ここから出ることもできない。ただ、窓の外を眺めることしかできない。退屈な人生よね」


 でもね、とチヒロはふっと笑う。


「でも、今はあなたがいるから、全然退屈じゃないの」

「そう? 私、たいした話なんてできてないけど」

「くだらない話でもなんでも、話ができるってだけで面白いの」


 それに、とチヒロは付け加える。


「あなたの話は面白いわ。特に、学校っていうところの話」

「チヒロは学校ってどういうところか、本当に何も知らないの?」

「知らないわ。行ったことないもの。あー、わたしも学校に行ってみたい」

「……学校なんてそんなにいいところじゃないよ」


 決められた時間割に従うのも苦手だし、学校に行っても友達がいない。いたとしても、表面的な繋がりでしかない、薄い関係性の人たちだけ。だから私は学校という場所がそんなに好きではない。不登校になるほど嫌いってわけじゃないけど、漠然とした息苦しさがあるから。


 そう説明すると、チヒロはこう言った。


「それなら、わたしと一緒に学校へ行きましょうよ。そしたら、きっとちょっとはましになるでしょう?」

「それってさ。私のこと友達って思ってくれてるってこと?」

「うん。少なくとも、わたしはそのつもりでいたけど」


 チヒロが友達。


 私とチヒロの関係性は、言われてみれば確かに友達という言葉がぴったりはまるような気がした。


「……」


 だけど、やっぱり私にとってチヒロは絵の中に存在する女の子で、私とチヒロの間にはどこか不均衡がある。私はどうしても、チヒロのことを美術品として、鑑賞する対象として見てしまう。


 そんな私にも、チヒロのことを友達と呼ぶ資格はあるのだろうか。


「……ま、いいわ。あなたがわたしを友達だと思ってなかったとしても」


 黙り込んでいると、チヒロは肩をすくめながらそう言った。


「そういうわけじゃ……」

「いえ、いいの。どっちでも、ね。あなたがどう思っていようが、わたしはあなたと一緒に話してるのが楽しいし、あなたと学校に行ってみたい。ただ、それだけだから」


 ある種一方通行な物言いには、チヒロが今まで抱えてきた孤独が現れていた。向こう側から思いを返されなくても構わない、という諦め。いや、それを諦めと断じるのは傲慢か。


 しかし、もしチヒロが私から思いを返されることを必要としていなかったとしても、私はチヒロに思いを伝えなければならないはずだった。友達になれないにしても、私がチヒロに惹かれているのは確かだったから。


「……私もやっぱり、チヒロと一緒に学校行きたいよ」


 私は、そう言った後、こんな約束をした。


「だからさ。もしチヒロがこっちの世界に来れる日が来たら、学校に連れて行ってあげるよ」


 そんな日が本当に来るのかはわからない。もしかすると、来ない可能性の方が高いのかもしれない。


 それでも、約束をすること自体に意味がある、と思う。約束というのは相手の未来に責任を負うことで、それはつまり誠意を示す行動だ。そして、あなたは誠意を示したいと思うほど大事な存在なのだと、相手に伝える行為でもある。


「じゃあ、その日が来るのを楽しみに待ってるわ」


 チヒロに私の想いが伝わったのかはわからない。  

 

 だけど、晴れやかな笑顔を浮かべているように見える彼女の表情は、確かに美しかった。




  しかしながら、そういった約束をしたものの、どうしても現実的な問題として、夏休みが終わるころには祖父の家から実家に帰らないといけない。そうなると、チヒロとももう会えなくなる。


 そこで私は祖父に、チヒロの絵を持って帰ってもいいか、と聞いた。とても綺麗な絵で、気に入ったから私に譲ってくれないか、バイトでもなんでもして買い取るから、と。


 祖父は私に甘いので、欲しかったらお金なんて払わなくてもいいから持って帰ってもいいと言った。芸術品は、その作品を誰よりも愛する人が所持するべきだ、というのが祖父の考えだったというのもある。


 ただ、譲ってくれるとは言ったものの、祖父は少々近頃の私を心配しているようだった。ずっとコレクションルームに籠っているから。美に魅入られて破滅するようなことはないように、という忠告を受けた。


 ともかく、祖父に頼み込んだこともあり、私はチヒロと夏休みを過ぎても一緒にいることができるはずだった。


 ところが、状況は私が祖父の家から出ていく三日前に一変する。


 家に届いた一本の電話。その電話は、『チヒロ』の持ち主の血縁者を名乗る者からの電話だった。


 『チヒロ』という絵画は長い間、誰が、なんのために描いたか不明とされてきた。その真相は、画家とモデルとの関係にある。


 『チヒロ』という絵は、画家が病気で外に出られない妹を描いた絵だった。画家は妹のことを誰よりも大切にしていて、つきっきりで彼女の世話をしていたという。


 しかし、画家の献身も虚しく妹の病は治ることなく、わずか19歳の若さで亡くなってしまう。ショックを受けた画家は、例え絵でも妹の姿を見るのが辛く、『チヒロ』を売り払った。もう二度と自らの元へ戻るようなことがないよう、素性を隠し、何を描いた絵かということも隠して、秘密裏に。そうして、自らの辛い過去を封印した。


 しかし、画家は死に瀕して、やはりどうしても最愛の妹を描いた絵を取り戻したいと考えた。だから、自らの過去を信頼できる人全てに話し、何としてもその絵を探させた。


 そして、画家の信頼できる人のうち一人——画家の孫が、『チヒロ』のありかを突き止め、うちに電話してきた、というのが事の顛末だった。


 祖父はその話の事実確認を済ませた後、私に、やっぱり絵を譲るという話はなかったことにしてほしい、『チヒロ』には他に所持すべき人がいるから、と言ってきた。


 私はその話を承諾し、チヒロに別れを告げるべく、コレクションルームに足を運び、全てを話した。


 チヒロはずっとその話を、目を閉じ、黙ったまま聞いていた。


「……だからね、もう一緒にはいられないの」


 その言葉で話を結んだ途端、チヒロは目を開いた。


「だからって……だから、なんだって言うのよ」


 チヒロは、なぜか怒っていた。


 ぞっとするほど冷たい輝きを瞳に宿し、私を睨みつけていた。


「だからっていうのは、だって、チヒロを描いた人はチヒロのことが本当に大切で」「そんな人知らない!」


 チヒロは、自分が座っていた椅子を思い切り蹴り上げた。籐椅子が真横にひっくり返る。


「わたし、言ったよね? わたしは絵じゃないって。ちゃんと生きている、れっきとした人間なんだって」

「うん」

「それなのに、あなたはわたしを絵として扱うって言うの?」

「……それは、真実の一面ではあるから」


 事実、私はチヒロが絵だという認識を拭い去れなかった。人間として扱ってほしいという彼女の想いに応えきることができないまま、接し続けていた。


「チヒロ。あなたが絵だっていうのは、変えようがないことなんだよ」

「……っ!」


 私が告げた途端、チヒロは顔を真っ赤にし、部屋の中にある物という物を破壊し続けた。


 本を床に叩きつけて、机の上に積み重なった紙を破き、窓ガラスを椅子の脚で割った。


 しかし、不思議なことに、チヒロが壊したものは全部、すぐに元通りに再生してさっきまであった場所に戻っていった。まるで、チヒロのしていることなど無意味だ、と言わんばかりに。


 それでもチヒロは何度も破壊を繰り返した。運命に抗うように、必死に。


 それから一時間ほど経って……ようやくチヒロは破壊をやめた。


 力尽きたように額縁の前にへたり込み、ただ茫然と、こちらを見ていた。


「…………ねえ、真実って、そんなに大事なのかな」


 やがて、チヒロはそんなことを口にした。


「本当のことなんて、言われてもわかんないよ。わたし自身のことでさえ、なんにもわからないのに」


 言いながら、チヒロはカンバス越しに、こちらの世界へと手を触れた。


「わたしにわかるのは、どうやったってわたしには何も変えようがないってことと、あなたがわたしに名前を教えてくれたっていう、それだけ」


 チヒロは、泣いていた。


 まるで最初からそうしていたかのように自然と、静かに涙を流していた。


 白く、なめらかな肌を滑り落ちるその雫は、水晶よりも透明に輝いていた。


 その光に導かれるように、私は、いけないことだとわかってはいながらも、そっとカンバスに手を触れた。チヒロの手のひらに、自分の手のひらを合わせるように。


「……ねえ、チヒロ」

「なに」

「私と一緒に、生きたい?」

「……うん」


 返事を聞いた途端、覚悟が決まった。


 チヒロを祖父の家から盗み出す覚悟が。





 誰にも知られないよう、真夜中に額縁ごと『チヒロ』の絵を取り外し、チヒロと一緒に祖父の家から逃げ出した。そしてひとまず、実家のクローゼットの奥に『チヒロ』をしまった。


 祖父は私が『チヒロ』を盗んだことに気づいたようだったが、深くは追及してこなかった。ただ、『チヒロ』の元の持ち主には、どうしてもやむにやまれぬ事情で絵を譲ることができなくなった、の一点張りで謝り倒したということだけを報告してきた。


 いつかきっと、後悔することになるぞ。祖父は電話口で最後にそれだけ伝えた後通話を切った。


 それから、元の持ち主がどうなったかは知らない。きっと失意のうちに亡くなったのだろう。最愛の妹を描いた絵との再会を果たせないまま。私のしたことは、許されないことだ。そんなこと、わかっている。


 だけど、私にはチヒロの声が聞こえる。私はきっと傍から見たら、美術品に魅入られて頭がおかしくなり、罪を犯した愚かな人間なのだろうけれども、確かにチヒロの声が聞こえるし、チヒロにも私の声が聞こえるのだ。


 チヒロは今、私の部屋に飾られている。家に帰ったら毎日チヒロと話している。その日学校であったことを一つ残らず事細かに教えて、くすくす笑いあったり、理不尽なことに対して一緒に怒ったりしている。


「ねえ、チヒロ」

「なに?」

「今、幸せ?」


 そう訊くと、チヒロはいつも決まってこう言うのだ。


「世界で一番幸せ!」


 だから私は信じる。


 私はここにいて、チヒロもここにいて、二人で一緒に生きているのだという、私たちにとっての真実を。


「チヒロがこっちの世界に来れるようになったら、絶対、一緒に学校に行こうね」


 そして、チヒロとの約束を果たせる未来を。


 


 


 


 


 


 


 


 


 

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