契りの花、朧に咲く

mynameis愛

第1章「神前にて、嘘の契りを交わす」

 春の夜は、まだ冷える。

 桜の花が咲ききらぬ境内を、一陣の風がすり抜けた。

「お前が……俺の“契り相手”だって?」

 健太の声には、驚きよりも戸惑いが混ざっていた。目の前に立つ少女――向葵は、褐色の肌に艶やかな黒髪、そして神子としての振る舞いなど微塵もない、自由気ままな風貌だった。

「契りっていっても、ただの儀式でしょ? ほら、さっさとやろうよ。こっちは山から引きずり降ろされたんだから、せめて早く帰りたいんだよね」

「……本当に帰るつもりなのか?」

 健太は静かに問い返した。彼は言葉を選ぶように、ゆっくりと視線を上げる。神子として祭祀を仕切る家に生まれながらも、神力は発現せず、家族からも「無能の神子」と揶揄されて育ってきた。

 そんな自分に、いきなり「結婚しろ」と命じられたのだ。

 契約結婚の目的はただ一つ。神力を受け継がせ、日紫を守る神子の再興。

 だが、そのための相手が――この、奔放すぎる少女とは。

「ねぇ、言っとくけどさ、私ほんとに恋愛とか興味ないからね。結婚なんて、特に」

「それは……俺も同じだ」

 健太の口から、思わず本音が漏れた。お互いに、恋愛も結婚も望んではいない。ただ、国と神々の都合で結びつけられただけ。

 ――だからこそ、これは「嘘の結婚」でいい。

「じゃあ、さっさと契約書に血判押して、終わりにしようよ。あ、筆とかどこ?」

「……そこにある、祭壇の上」

 向葵がぱっと手を伸ばし、紙をひっつかむ。その手つきは、まるで宅急便の受領サインのように雑だった。健太は、思わず小さくため息をついた。

「……やっぱり、本当に嫌なんだな、こういうの」

「え? 当然でしょ? そもそも、神子とか神霊とか、昔の遺物じゃん。自分の意思で何も決められないなんて、くだらないよ」

「……そうだな。でも、俺は……それでも、守りたいと思ってるんだ。この国の形を」

 向葵が一瞬、表情を曇らせた。

「……あんた、変な奴だね。まぁいいけど」

 そう言って、彼女は血判を押した。

 その瞬間、風が止んだ。

 神前に漂っていた香が、まるで呼応するように揺らめく。

 そして、健太もまた、己の指を切り、紙に血を落とす。

 二人の血が一つの印に重なると、紙が光を放った。

 神前の鈴が、ひとりでに鳴り、神域が震える。

「……っ、何だ、これは……!」

「神の契約だ」

 背後から声がした。

 振り向くと、白衣をまとった男――友希が歩み寄ってくる。

「二人の契約が、神に認められた証。これよりお前たちは、日紫の守護者として選ばれた」

「はぁ……?」

 向葵が思わず声を漏らす。

「だからさ、それが嫌なんだってば! 契約結婚って言っても、こんな大事になるとか聞いてないし!」

 健太は、友希の方を振り返った。

「友希、お前……この契約に“裏”があるって、知ってたな?」

「当然だ。だが……お前には、自分で選ばせたかった」

「……っ」

 健太は拳を握る。その後ろで、向葵は黙り込んでいた。

(私たちは、ただの「形式」だと思っていた。けれど――)

 神の契りは、形だけでは終わらなかった。




 ――契りの瞬間、空気が変わった。

 それは“空気”という言葉では言い表せない何か――

 風でも、香でも、音でもない。

 ただ、肌に触れるような存在の“圧”が境内を満たした。

 向葵は思わず肩をすくめ、周囲を見回した。

「……なんか、やばくない? 今の音……鈴、勝手に鳴ったよね?」

「いや、それだけじゃない。今、何かが……“降りてきた”」

 健太は静かに言った。彼の瞳が、どこか焦点を失っていた。

「“降りた”? 何が?」

「“神”だよ」

 その言葉を口にしたのは、友希だった。

 白衣の袖を揺らしながら、彼は二人の前に立った。

「神は、契りを持って顕現する。この国ではな。君たちは今、神の契約者となった。名ばかりではない。正式な、“御縁守”の後継者だ」

「ちょ、ちょっと待ってよ! 私はただの巫女見習いで、しかも村でも落ちこぼれ扱いだったんだよ? 何でいきなりそんな重たい役、回ってくるの?」

 向葵は慌てて距離を取るように一歩下がった。

「その“落ちこぼれ”が、本当にそうかどうかは、神が判断する」

「なんだそれ……神頼みにも程があるってば!」

「それでも、選ばれたのは君だ、向葵。――神の眼は誤魔化せない」

 友希の冷静な口調は、抗う隙を与えなかった。

 だが、向葵の瞳には不安と怒りが混ざっていた。

「……勝手に決められてたまるかよ」

 その声は小さく、だが確かに聞こえた。

 健太は向葵のその言葉に、かつて自分も抱いた感情を重ねた。

「……俺も、そう思った」

 ぽつりと、健太は呟いた。

「“神の子”なんて呼ばれても、俺には何もなかった。何を祈っても、何の奇跡も起きなかった。ただ期待されて、裏切って、それでもまた名前だけが先を走っていった」

 彼の声には、静かな怒りと、諦めがあった。

「でも、それでも……誰かがやらなきゃいけないって、そう思ったんだ」

「……なんで?」

 向葵が問う。

「なんで、あんたはそんなに我慢して、それでも動くの?」

「それが俺の――“意思”だからだ」

 健太は正面から向葵を見据えた。

「この契りが、嘘だったとしても。意味がなかったとしても、俺は、逃げない。俺自身の意思で、ここにいる」

 その目には、強い光が宿っていた。

 一瞬、向葵はその光に、目を逸らしてしまいそうになった。

 だが、すぐに顔をしかめて、そっぽを向いた。

「……勝手にやれば」

「勝手には、しない。君が嫌なら、契りは解除できる。……ただ、それには、代償が必要だ」

 友希が割り込むように言った。

「代償?」

「この国を覆う“黒の神霊”たちが、再び目覚める。君の封印されし神魂が、この地にある限り――彼らは、力を得るからだ」

「は……?」

「向葵。君の中には、“冥紋(めいもん)”が刻まれている。かつて神々の戦により、封じられた黒の神力。それを継ぐ者が、君だ」

「そんなの聞いてないし……! 私、普通に山で薬草とか採ってただけだよ!? なんで私がそんな“重要人物”扱い!?」

「それは神が決めること。俺たちは、従うしかない」

「じゃあさ、あんたは納得できるの? 神に決められたからって、それで人生左右されていいの?」

 その問いは、まっすぐに健太へと向けられた。

 彼は、ほんの一瞬だけ答えに詰まり、それでもうなずいた。

「……できないよ。納得なんて」

「じゃあ!」

「でも、理解はできる」

 向葵の言葉を、健太が静かに遮る。

「誰かが、やらなきゃいけないことがある。俺が“選ばれた”のだとしても、それが俺の“生きる理由”になるなら、俺はそれを否定しない」

 向葵の口が、止まった。

「君にも……何か、守りたいものはないか?」

 健太は、問いかけた。

「守りたい……?」

「誰かを。何かを。あるいは、自分自身でもいい。理由なんて、後からついてくるものだ」

 沈黙が落ちた。

 向葵は、しばらくその場から動かなかった。

 その瞳の奥に、何かが揺れていた。過去の記憶か、忘れていた誓いか――あるいは、まだ形にならない感情か。

 やがて、彼女はひとつ息を吐いた。

「……なら、もう少しだけ、見てみるよ。あんたが“どうするか”を」

「……ありがとう」

 健太は、ただ静かに答えた。

 それは感謝でも、安堵でも、慰めでもなく――ただ、心からの言葉だった。

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