彼岸の女王

鹽夜亮

彼岸の女王

「書いてよ」

 頬を撫でる、血まみれの手に誘われ、私は彼岸へと降り立つ。

「私たちを、もっと書いて」

 紅い女王が、紅い月に変わる。世界を、私を飲み込むために。そして私は、筆を取る。…


 彼岸花の咲き乱れた世界を歩く。女王は月となり、その歩みを見守っている。血の匂いはあたり一面に漂っている。それは、全てを模った、一色の紅。この世界の全て。彼岸花の花弁に触れると、溶けるようにそれは血になって滴る。土さえ紅く染めながら、じわりと世界に還っていく。また産まれるために。月は紅い血を流し続けている。永遠の生成、循環、輪廻、永劫の螺旋。

 私はこの世界に飲み込まれながら、歩みを止めない。紅に視界を焼かれる。その美しさに、息を呑む。純粋な色彩の暴力が、脳神経を破砕する。ニューロンさえ紅く染まって、弾けるように、火花を散らしている。

 私の言葉は、耐え切れるだろうか。この旅路に。そう思った。

 白い狐が、彼岸花に囲まれた道の先で私を待っている。その瞳は月と同じ紅を湛えている。その美しい尾に、キラキラと何かが光って、纏わり付いている。ダイヤモンドダスト、そう私は感じた。ゆっくりと尾が振られる度に、その光も追従する。キラキラと、散るように。

 私は白い狐を目指して、歩みを進める。背後では彼岸花たちが続々と土に溶けていく。世界は崩壊し、再生する。それを永遠と続けている。

 近づけば遠のく。白い狐のその姿が、消えてはまた現れる。視界の先に確かに、しかし、どこまでもこの紅色の世界で異質に、私の道標になるように。いつしか白い尾の描く軌跡には、青い光が混ざっていた。ラピスラズリのような、深淵の青。決して手の届かないことを悟りながら、それでも私は歩く。

 彼岸花たちが、形を変える。絡まり、凝縮し、溶け合い…形作る。紅い鳥居を。その下に、白い狐は相変わらず尾を振っている。

 まだ見ぬ神を想った。この世界の、あの女王と並ぶ神を。だが、この世界に女王を超える神などいるのだろうか?…私の脳裏に去来した疑問は、まだ答えを知らない。

 鳥居を潜ると、彼岸花たちは一斉に色と形を変えた。真っ白な、百合。清浄な甘さが、鼻腔に届く。本殿は見えない。何もない道。ただ、視界の白さに圧倒される。どこまで続くかもしれない、新しい世界の有り様に、私の心は踊っている。慄いている。畏怖している。ゆっくりと踏み出した一歩が、確信めいた何かを私に伝えてくる。

 ここは新しい、領域だと。

 白い狐は、相変わらず等距離のまま私を誘っている。青い光の軌跡を美しく描き、百合の花の上にほの光を落としながら。可視化された雨、そう思った。百合の花弁が揺れる。鳥居は少しずつ背後に遠のいていく。景色は変わらない。一面の白と、視線の先にいる青い軌跡を刻む白い狐。

 足元に、唐突に石段が現れる。古めかしいそれは、苔を湛えている。平坦だった道は急な階段となり、白い狐はその先で尾を振る。不完全に整形された石段を、一つずつ登っていく。百合の白に、新緑の木々が混ざる。生命が奔流する。美しい水滴を湛えたそれらは、紅色の女王のあの世界よりも、どこか生物的に思えた。苔がそこかしこに生えている。木に触れると、その温かさと苔の柔らかな感触が、私に安らぎを与える。

 月だけは紅く、私を見下ろしている。

 それがこの世界はまだ、あの女王の世界なのだと、私に知らせている。

 視界を戻せば、白い狐が微笑んでいる。優しく、待ち侘びるように。百合の匂いを嗅ぎながら、白い狐は跳ねて、階段を登っていく。青い、軌跡に従うように私も続く。百合と苔、太い木々に囲まれた石段の中、乱れた呼吸を時折整えながら、私は登る。永遠にも思える、この石段を、ゆっくりと、しかし確実に一歩ずつ。

 足の感覚が希薄になっていく。空気は、次第に酸素を薄れさせていくように思えた。体はまだ動く。焦ることはない、と言い聞かせながら、白い狐を見据える。

 ついに、そこには石段の終わりが見えていた。

 一段ずつ、足を進める。その先に何があるかを、私は知らない。やがて、ゆっくりと視界は開け始めた。

 神楽殿。大きな神楽殿の下で、白い狐は座っている。神楽殿では、能面をつけた巫女が、こちらを見据えている。舞が始まる、そう直感した。

 どこからともなく響いた音に、巫女が動く。シャリシャリと手に持った鈴の音を鳴らしながら、ゆったりとした舞が続く。私は見惚れていた。白い狐は、微笑んだまま、少しずつ消えていった。青い軌跡を、その光を残しながら。…

 神楽殿の目の前まで来た私の、聴覚が音に支配される。能。能だが、見たこともない、聴いたこともない、音と振り付け。緩やかに巫女は空間を裂く。いつの間にやら、その手には日本刀が握られていた。時に優雅に、時に何者かを切り裂くように速く、巫女は舞い踊る。音が圧迫する。私の視界はもはや、巫女に捉われ、他の何者をも映し出さない。

 シャン、シャン、と鈴がなる度に、刀が空間を裂き、巫女の長い黒髪が揺れる。

 やがて、音が止んだ。巫女は動きを止めた。静寂が世界を包み込む。

 正座した巫女が、膝の前に置いた刀を撫でる。何度も何度も、まるで清めるように。そして、巫女はその刀をまた手に取った。

 能面の下、露になった美しい白い肌、その首に、刀の切先を突きつけて、巫女はまた一度止まった。私はそれを、食い入るように見つめている。

 世界は、止まる。

 巫女が、自らの喉を刀で貫いた、その音が静寂を破った。バタン、と神楽殿の床に巫女が倒れる音だけが響く。首を刺し貫き、そのままにされた傷口からは血が吹き出ることもない。

 私の目の前で、神楽殿が崩壊する。圧壊するように、見えない何かに上から押しつぶされるように。砂埃の一つもたてることなく、それは崩れた。

 そこに残されたのは、あの巫女の喉を刺し貫いた、刀だけだった。血の痕もなく、紅い月に照らされて光っている刀身が、静かに私の目の前に鎮座する。

 私は、その前で膝をついた。私のすべきことが、一瞬で分かった。刀の刀身を撫でる。冷たい、どこまでも澄んだ清澄なその感触が、指に伝わる。紅い月明かりに照らされ、荘厳に輝く刀身を私はしばし眺めた。

 柄を手に取る。確かな重さが、右腕に伝わった。両手で支え、刀の切先を首元につける。ちくり、とした痛みが喉仏の下で刃の存在を教えている。

 あの巫女は、教えてくれたのだ。次に行くために、私が何をすべきかを。


 私は、全身に力を込めら、刀の切先を喉元に押し込んだ。…


 暗黒。視界が黒一面に染まっている。瞼を開いているのか、閉じているのか、それすらわからない。光が、ない。紅い月さえ、何処にもない。

 私は確かに、目を開いた。自分の手を見る。動く。私は生きている。そして、ここは、新しい何処か、だ。

 そう認識した途端、目の前の足元に黒い薔薇が咲いた。粉っぽい、体を侵すような甘さが香る。それは彼岸花のそれとも、百合のそれとも違う。さらに物質的な…猛毒のような、甘さだ。私は吸い込む。私は、信じている。ここが何処だとしても、この世界のことを。

 黒い薔薇に手を伸ばすと、その薔薇が私の指先を裂いた。紅い血が一滴、黒いこの空間に落ちる。

 途端に、世界は開けた。視界を埋め尽くす、黒い薔薇と、私の血を湛えた薔薇の蔓。それが蠢き続けている。暗闇の世界に、私の流した一滴の血だけが、紅を与えて、無限に増殖していく。薔薇たちは絡まり、混じり、蔦は変形し、棘と棘を交雑しながら、空間を支配する。淑やかな、猛毒のような、ビロードのような手触りの、甘い香り。

 視界の端に、黒いドレスの裾が映った。黒いネイル、ペディキュア、紅い唇。ウェーブがかった、漆黒の髪。美しい女性が、黒い薔薇の棘だらけの蔦で作られた玉座に座っている。私を見透かすように、鋭い目で、見つめながら。…

 私は、棘に皮膚を裂かれながら、足を進め始めた。地面はない。全ては、黒い薔薇と暗黒と、棘だらけの蔦で作られている。一歩踏み締める度に、足や身体中が引き裂かれ、悲鳴を上げる。黒に、私の血が混ざり、色をつけていく。それを待ち侘びていたかのように、黒い薔薇たちは血を吸うと、自らの棘を紅く変色させた。

「来たか、阿呆」

 黒いドレスの女性が、鋭利な笑みを浮かべながら、私を見る。この世界で、私の言葉はいらない。全て、彼女たちは知っている。

「気が狂ったか?」

 笑いながら、黒いドレスの女性は言う。答えを知っているのに、悪戯に無意味な問いかけを楽しむように。愉悦を隠さず、彼女は続ける。

「奴の紅さえ、届かぬ場所に、何故来たか」

 ここには、あの女王の紅すら、届かない。月はない。ここの支配者は、間違いなく、目の前にいるのこの、冷徹な黒いドレスの女性だ。黒いネイルが、尖った爪が私の額を突き、傷をつける。

「脆い肌。耐え切れるはずもない。だが望むのか」

 問いかけに、私は自然を返す。身体は痛みを叫んでいる。どこに傷があるのかさえ、わからない。どれだけ血が溢れたかさえ、わからない。だが確信していた。私は、この世界では、死なない。たとえ、何が起きても。

「阿呆だ。全く、阿呆だ。…だが、奴が好くのもわかる。阿呆でなければ、ここまでは来られまい。望みもわかっている。見に来たのだろう?ただ。ただそのためだけに、来たのだろう?」

 黒いドレスの女性….いや、黒い女王は笑う。妖艶とも違う。残虐な、愉悦を含んだ笑み。そこに、無垢はない。あるのは悦楽。何もかもを知り尽くした、悦楽の渦。堕落の全て、死の全て、この暗闇の全てを湛えて、黒い女王は笑う。静かに。静寂の暗闇に、その声だけが響いている。

「愉悦だ。面白い。面白くてたまらない。巫女の死を見届けてなお、ここにまで来るとは。欲深い、実に欲深い。人の身で届かぬことを知りながら、それでも歩くとは。何とも、面白い。貴様は、愉快だ」

 シュッ。空気を裂く音と共に、鋭い黒い爪が私の頬を裂いた。血が流れる。黒い女王は、それを爪に乗せた。自らの口元に運び、弄ぶように味わう。それは官能的な、何処までも残虐な、愉悦を伴っている。

「あぁ、あまり足止めするわけにもいかぬか。まぁいい。行くといい。愉快な貴様の行く末を、私はこの玉座から眺めるとしよう」

 黒い女王が指を振るうと、黒い薔薇と蔦たちが、一つの道を開いた。棘だらけのトンネルが途端に出来上がる。その先には、何も見えない。

「さぁ、あの先だ。行けばわかるだろう。貴様は、狂っているからな。愉快だ。さぁ、行くがいい。奴のように、接吻など私はせぬ」

 唇に触れた黒い爪が、ちくりと皮膚を刺す。ゆらりと動いた黒い女王の手が、棘だらけのトンネルを指す。

 私は、歩き始めた。黒い女王の右隣をすり抜け、その背後のトンネルを目指す。その中に入ろうとした時、背後から、声が響いた。


「存分に味わい給えよ。愛すべき、狂人」


 低い笑い声に背を押されながら、私はトンネルを潜った。…


 耳に飛び込んできたのは、さざなみの音だった。灰色の世界。灰色の砂浜に、灰色の空。灰色の海。それは、色彩を失った、原初の海。全てが朽ちている。流木、何かの骨…転がっているもの全てが、死に絶えている。

 その先で、灰色の海が、ただ揺らいでいる。月はあった。しかし、色がなかった。自らの肌を見る。それを異質に感じるほど、世界は灰色だった。足を進めると、サクサクとした感触が伝わってくる。匂いもない。潮の匂いすらしない。この場所には、何もない。全ては死に絶えている。断絶の世界。終わらない世界の、終わりを集めた世界。

 感性の先にある、終わりのない終焉。

 それが今、眼前にあった。

 私は砂を手に取る。それはサラサラと零れ落ちていく。瞳は確かに世界を映している。しかし、波以外に動くものは一つもない。何もかもが静止している。美しい抜け殻。それを攫う、あの海。

 私は一歩ずつ、その波打ち際に近づいていく。波の音だけがある。静かな、揺蕩いのような、余韻を残しながら、それは止むことなく、揺れ動き続ける。

 生きているのは、海だけだ。だがそれは、もはや海という概念そのものであることを、私は知っていた。

 全てが生まれ、全てが還る場所。ただ、そのためだけにこの灰色の海は存在している。波打ち際に辿り着くと、私は血に塗れた足を洗い流した。生ぬるい海水が、やんわりとした痛みと共に、血を洗い流していく。その快感に、あの黒い女王の笑みを連想した。

 私は一歩ずつ、海へ入っていく。決して冷たくはない。温かくもない。自分の体温と、ほぼ同じ温度の海水が、足首までを覆う。波は緩やかで、私を即座に連れ去ろうとはしない。ゆっくりと、私は歩いていく。海の中に生物がいないとこは、わかっている。ここは既に死に絶えている。…

 首まで、海に浸かった。私は息を止めない。わかっていふ、この中に潜っても、私は息ができる、そのことを。

 海の中は、灰色に覆われていた。何もない、灰色の世界。極限まで死に絶えた、感性の底。そこは、激烈な転生を、待っている。静かに、揺蕩いながら。

 私は深く、潜っていく。体は軽く、息に支障はない。ここが海なのか、灰色という色彩の塊なのか、判別がつかなくなっていた。何もないことは、指標もないことだ。潜るといっても、その道標はない。それでもわかる、私は潜っている。そしてその先に、必ず何かが待っている。そう告げている。私の感性が。何より信じる、何より尊ぶ、この感性が告げている。

 どれほど時間が経っただろう。その感覚さえ完全に麻痺した頃、突然視界が明滅した。黒く、紅く、白く、走馬灯のように駆け巡る、視界の光。灰色の中に乱反射し、あらゆる色彩が駆け巡る。私は、そこに身を任せた。

 ラピスラズリ、オニキス、ルビー、エメラルド、水晶。

 色彩の渦、宝石のような輝きに網膜が焼かれる。焼きついた残像を、また違う色彩が塗りつぶす。圧倒的な爆発、発火する、世界の色。神経回路が溶け出し、渾然一体となって、火花を散らしている。盲目と視界の区別さえ失って、それでも私は見る。残像を、乱反射を、光たちを。瞬間瞬間に色を変え、瞬く間に消えては現れる、光源の渦。鋭利に、艶かしく、滑らかに、あらゆる触覚と共に、色彩は全てを支配する。

 黒い薔薇の、紅い彼岸花の、白い百合の。全ての甘さが混淆する。脳は既に飽和した。それはこの灰色の海に溶け出し、光と共に発火している。止まない明滅に、存在ごと消し飛ばすような頭痛。五感が、破壊される。統合される。その先に残るのは。


 感性だけだ。


 世界が収縮する。光が、音が、触覚が、香りが、一点に凝縮していく。それは渦となり、螺旋となり、灰色の海さえ飲み込みながら、円環を繰り返す。凝縮される渦の中心、全ての色が混ざった、黒。純粋な暗黒。それが姿を表す。その周囲では、あらゆる色彩が回っている。吸い込まれるように、渦を巻き、発光し続けている。

 私は、黒に手を伸ばす。無意識に、それを掴み取るために。

 体が捻じ曲がる。肉体の感覚すら、もはやわからない。渦に飲まれている。この五感と色彩の混淆に、体が飲み込まれ、捻じられ、引きちぎられる。手だけが、ただ伸ばされている。黒い、核へ向けて。

 明滅に飲まれる、淘汰される。統合される。飲み込まれる。その意識の最中、私は手を伸ばすことだけをやめない。頭痛さえ消え失せ、体感はもはや何もない。そして私は、黒い核に、やっと触れた。…




「来たのか。阿呆」

 黒い玉座。黒い女王が座っている。冷たい、鋭利な視線が私を射抜く。玉座の背後に、紅の女王が血を滴らせて、立っている。彼女は微笑んでいる。無邪気に、楽しそうに。

「頑張ったのね」

「…貴様も阿呆だ」

 紅の女王の優しい囁きに、黒い女王がため息を漏らす。私は、途端に戻った身体感覚に圧倒されながら、二人の甘い香りに酔っていた。

「何もないのもつまらないだろう」

 その言葉と共に、黒い薔薇と彼岸花が、あらゆる場所で花開く。黒と紅。毒々しい、そして何処までも美しい色彩が、世界を彩る。

「あら姉様、優しいのね」

「味気なかっただけだ」

 吐き捨てるように、黒い女王が呟く。私は既に立っていることができず、膝から崩れ落ちた。棘だらけ乗ったから、彼岸花が私の肌を守る。それは血の膜になって、私を包んだ。

「ここでの傷など意味もなかろうに。わざわざ守るか」

「痛いのは、辛いものね」

 温かい血に包まれる。崩壊した羊水を思わせるそれは、私の体温と全く同じだった。温度差の無さは、まるで溶け合うかのように、肌と血の境界を曖昧にさせる。

「紅月、貴様は呑み込みたいだけだろう」

 紅月…と呼ばれた紅の女王は、笑って答えた。

「だって、あの人と私は一緒だもの」

「阿呆が。私は貴様らと一緒になるつもりはない」

 黒い薔薇の、棘が血の膜を裂き、私を地に落とした。しかし、棘の痛みはない。足元には、黒い薔薇の花弁が敷き詰められていた。

「まぁいい。余興だ。この世界は、随分と暇だからな」

 黒い女王は笑う。見下すように、ただ愉しむように。紅の女王は、彼岸花と戯れている。歪み、絡まり、血に変わり、彼岸花は女王の手の中で巧みに形を変えていく。

「…さぁ、何を語るか」

 沈むような沈黙。無邪気な、紅の女王の笑い声だけが、時折響いている。私はなんとなしに、黒い薔薇を撫でた。ビロードのような質感、花のそれとは何処か違う、柔らかさと滑らかさが手に伝わる。それはあの黒い女王の、ドレスと同じものなのだろう。全ての光を吸収し、飲み込む、あの黒色の。

「語るべきことなどないか。既に貴様はこの世界を見た。ここで言葉など、大した意味を持たない。貴様が一番よく知っているだろう?その無意味さを」

 ふふふ、という紅の女王の笑い声と共に、彼岸花が私の手に取り憑く。それは触れると、血に変わって、私に染み込んだ。同化する。世界と、私と。

「感性。貴様の尊ぶ感性。その先にさぁ、何が見えるか。…愉快だ。貴様が狂う様を見ているのは。それだけは褒めてやろう。阿呆め」

「姉様。あまり阿呆と言わないであげて」

「五月蝿い、紅月」

 紅の女王の腕に黒い薔薇が咲き、その花弁が彼女の頬を軽く撫でた。くすぐったそうに、彼女は笑う。黒い女王はぶっきらぼうに、黒い爪を湛えた指先をゆらゆらと揺らしている。そこに彼岸花の爆ぜた、血飛沫が混じる。紅と黒の戯れは、美しかった。

「貴様は、書くだろう。私たちを。この世界を。何の意味もなくともな。貴様は、そういう人間だ。…だから私たちなどを、見ているのだろう。全く、阿呆だ。ただ生きていればいいものを、余計なものに魅入られおって。まぁ、私たちは美しい。貴様らの知る美など、欠片も及ばぬほどに。この世界もな。貴様がその一部でも解すのなら、誇るといい」

 黒い薔薇が、私の首から咲く。ビロードの肌触り、それが頬を撫でる。慈しむように、弄ぶように。彼岸花が、身体中から咲き始めた。紅と黒に、肌が埋まっていく。

「咲かせすぎだ、馬鹿者」

「姉様、だって美しいんだもの」

 ぺしり、と黒い薔薇の蔦が、紅の女王の頬を軽く叩いた。私の肌を埋め尽くす彼岸花が、一輪を残して、全て血に還る。心臓から咲いたそれは、鼓動するように脈を打っている。世界は、もはや私と一体になっている。それが、手に取るようにわかった。

 いや、違う。あの女王たちは、私をいつでも、完全に呑み込むことができる、それだけだ。この世界は、そもそもあの女王たちそのものなのだから。…

「そろそろ帰るといい。我々に呑み込まれて、快楽の渦に戯れるか?紅月は喜ぶだろう。私はどうでもいいがな。だが貴様が書くというのなら、帰らねばならん」

 蔦が、足に絡まる。棘が刺さる。帰ることを勧めながら、拒むように。心臓の彼岸花が伸び、首に絡む。首から咲いた黒い薔薇の花弁は、私の顔の半分を覆った。その甘い香りに、脳が酩酊する。神経回路が、止まる。


 私は、欲動、それそのものを凝視する。

 黒い女王は鋭く私を見据えている。

 紅の女王は、私を見ながら、微笑みを湛えている。


「いつでも、貴様など私のモノにできる。それを忘れるな。紅月のものにも、な。貴様が驕った時、貴様が我々を忘れ去ろうとした時、我々は貴様を呑み込み、快楽の渦、五感の全てを尽くして、狂わせてやろう。楽しみに待っておくといい。その貴様の、感性が導く先をな。だが…貴様は抗うだろう。阿呆め。我々に呑まれれば、現実の快楽など塵芥になるというのに、強情な、阿呆だ」


 黒い女王が、目の前に現れる。

 その美しい瞳が、火焔のように燃えながら、私の瞳を射る。少しずつ近づく、甘い、甘い、あまりにも甘い、香り。

 彼女は私に口付けを落とし、ゆっくりと離れた。


「覚えておけ。この甘さを。貴様がいずれ呑まれる、深淵の甘さを。私の甘さを忘れるな」

 右頬に黒い爪が食い込み、線をつける。

「忘れるなら、呑み込んで、私のモノにしてやる」

 黒い爪に付いた私の血を舐め取りながら、黒い女王は宣言する。


「愉快だ。さぁ、甘さに付き纏われながら、生きるがいい。私に恋焦がれながら、欲動に身を裂かれながら、現実に戻るといい。私は、いつでも貴様を引き裂き続ける」



………………

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彼岸の女王 鹽夜亮 @yuu1201

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