Break this bottle

固結びメレン子

第1話

circle


「朝比奈雛」

 

 別に自分の名前に不満があるわけじゃない。けれど、たまに思う。どうして両親はもうちょっと考えなかったんだろう。

 アサヒナヒナ。本人が口にしても、なんだか冗談みたいだ。

 因みに雛の双子の弟は朝比奈櫂という。全然ふざけてないし、問題なく格好いい名前だ。

 小学校に入った頃から『アサヒナヒナ』或いは『ヒナヒナ』と呼ばれ始めた。

 まあそう呼びたくなるだろうなと思い、雛はその力が抜けるような呼び名を黙って受け入れた。

 中学に入学すると苗字呼びが台頭してきた。比率としては『朝比奈』と『朝比奈さん』がほぼ半々。

 ヒナヒナ呼ばわりするのは馴れ馴れしかったり、ギャルだったり、そんな一部の女子たちのみ。

 関係ないが、ギャル発音で「ヒナヒナぁ?」と呼ばれるのは結構好きだった雛である。


 人付き合いは、そんなに苦労しなかったと思う。弟のように目立つわけではなかったが、かえってそれが良かったのかもしれない。

 目立たず、波風も立てず、空気のように過ごす方が性に合っていた。

 そんな朝比奈雛の中学生活でひとりだけ、使う呼び名がシンプルに「雛」だった人間がいた。普通に名前を口にしているだけなのに、やけに特別に聞こえた。

 ほぼ家族しか使わない呼び名。その彼女が発音すると、小さきものを表すその意味がそのままの響きになって、少しだけ甘やかされている気分になった。


「いつも、何を聴いてるの?」


 急に目の前に顔が来て、雛はびっくりした。すぐ前の席を借りた彼女──加納環は椅子を跨いで逆向きに座っていた。驚くほど長い脚が余り、腰を引くようにして猫背になる。何をやってもサマになる人はこんな行儀の悪い仕種も格好いいのかと、凄く感心した。


「ごめん。朝比奈さん困ってる? つい気になっちゃって」

「いや、ちょっと驚いただけ。これピアノ曲なんだよね」

「へえ……朝比奈さんて大体の校則は守るけど、ソレだけは絶対学校に持ち込むからさ。つい興味持ってしまったの」


 環がソレと言って目を向けてきたのは、当時まだ真新しかった音楽プレーヤーだった。雛は制服の胸ポケットからオレンジ色のプレーヤーを取り出し「いいでしょこれ」と言いながら環の手のひらに乗せた。


「へえ。8ギガだ。こんな可愛い色もあるんだね」


 そう言って環は笑った。雛の目には眩しいほど美しかった。光が舞うようだった。

 一年生の頃から学校イチの美女との呼び声も高く、列を成して告白されたとか、スカウトされたとか、雛にさえ噂は聞こえてきていた。しかも忙しいことに、彼女は女子からもモテるのだ。

 背の高い環は、いつも人だかりの中を泳ぐように歩いていた。ひっきりなしに話しかけられ、移動しながら返事をしている様子をよく見かけた。

 得意になっているわけでもなく、嫌がっている素振りもなく、ただ少し困惑している様子が見て取れた。


「加納さんって音楽好きなの?」


 雛は思い切ってそう訊いてみた。すると環は少し考え込んだ。

 

「音楽は、これから好きになる。そんでもって、イヤホン……できればヘッドホンを使う」


 断固とした言いように、今度は雛の方が笑った。

 今となっては、彼女が外部からの刺激を遮断したいと考えるのはごく当然のことに思える。とにかく環という人は、静かな毎日を望んでいた。


「加納さんておもしろいね」

「そう? 良かったら環って呼んで」

「あ、じゃあ私も……なんとでも呼んで」


 どうせ好きに呼ばれがちなのでそう言うと、環は真剣な顔をして分かったと言った。


「じゃあ雛って呼ぶ。そう呼びたかったから」


 その時の彼女の声を雛は今でも鮮明に覚えている。

 やけに、その場にそぐわないくらい生真面目な言い方だったから。


「いい?」


 大事に呼ぶ、何度でも。貴女が、許してくれるなら。

 とても綺麗な静かな目で、環はそう伝えてきた。

 

「うん。雛でいいよ。環。タマキ……ええと、これ、聴いてみる?」


 イヤホンを外して差し出すと、環は「嬉しい」と呟き、長い髪を耳にかけた。

 ふたりが初めてちゃんと話した日。

 それは同時に朝比奈雛が、自分の作った曲を初めて人に聴いてもらった日となった。


 †

 

 

『繰り返し聴くうちに、夜が明けていました』

 

 

 雛が気の向くままに作ってきた曲は、もう二百曲を超えた。

 それらはすべてネットの海を漂っている。

 十五歳で始めた作曲を、大人になっても続けているなんて、当時は想像もしていなかった。

 ネット配信は記念でもあり、アーカイブの役割も兼ねていた。

 だから短いフレーズから長い曲まで、作った順に並んでいる。


 聴いてコメントを残してくれるのは主に常連だ。

 たまに新規も来るが、にぎわうほどではない。

 顔出しも返信もしないチャンネルだから、よほど気に入らなければ通り過ぎるだけだ。


 その夜も、雛はラップトップを開き、再生回数をぼんやり眺めた。

 三日前にアップした曲を再生する。


「うーん」


 富士山の静止画を背景にピアノ曲が流れる。

 雛が自分の曲を聴くのは、次の創作へのアイドリングのためだ。


「うーん」


 いつものように、隣の部屋へ足を進めてゆくと、イヤホンの音がノイズ混じりに変わる。

 ちょうどピアノの前に着いたところで音が途切れた。

 ワイヤレスの限界点。ここが作曲のスタート地点だ。


 先日アップした曲には初めてタイトルをつけた。

 思い入れは隠したい性格だが、結局『circle』とした。

 迷った末に、恥ずかしくなるほど露骨に。


 チャンネル登録者数は、じわじわ増えている。

 聴いてくれる人をモノ好きと思わず、好事家と解釈している。

 そう、好事家。渋い。いつもありがとう。

 最新曲以外は、十五年前から振ったシリアル番号だけで区別している。

 だから、思いつきでつけたタイトルが余計に目立った。


───よかったら聴いてください。


 概要欄のその一言。

 一切の説明はない。ずっと変えずにきたスタンスだ。

 雛は鍵盤に手を置いたが、指は音を奏でなかった。

 理由はわかっている。『circle』についたあのコメントが、頭から離れないからだ。


『繰り返し聴くうちに、夜が明けていました』


 囁くような、日記のような感想だった。


 おそらく初めて書き込んでくれたコメントだろう。

 [ten]というアカウント名は雛の記憶にない。

 普段はコメントしない人なのかもしれない。

 雛も感想は嬉しいが、返信はしないと決めている。

 配信開始時、サービスが日本語に対応していなくて、返信のタイミングを逃した。

 それ以来、正体不明でいることが自分の防御だと思ってきた。


 一音鳴らしては首をかしげ、和音を弾いては唸る。

 今夜は悪あがきしない方がいい。調子が悪い。


「…………酒持って来い」


 雛は冷蔵庫でハイボールの缶を見つけた。

 いつのか分からないが、グラスと氷を用意した。

 ここ数年、夏の終わりから秋にかけて気持ちが沈みがちだ。

 少しやさぐれてもいた。歯医者の費用が思いのほかかさんだせいだ。


 部屋の中を動くと、視界の端に濃い気配がよぎる。

 七年間、まるで時間だけが凍りついたかのように寄り添ってきた、音のない残像たちだ。


 冷蔵庫を覗き込む環の背中。

 グラスを爪で弾き、氷を揺らす癖。

 ゆっくりと瞬きをする、その長い睫毛。


「もう、七年になるんだよ。貴女が消えてから」


 一口飲むと、すごく酔いそうな味がした。

 缶のデザインに見覚えがある。なんとなく買っていたのだ。


(よくこれ飲んでたもんねえ)


 グラスを色々な方向に傾けてみると、締まった氷がカチカチと音を立てた。

 ずっと、ずっと、玄関の鍵が開き、彼女が普通に帰って来る気がしていた。───気がしたまま七年。


 慣れないアルコールはすぐに回った。

 頭を動かすと、脳が遅れてついてくる感じが楽しい。


 あのオレンジ色のプレイヤーは、もう手元にない。

 いつ手放したのかさえ覚えていない。


 失くすと取り返しがつかないものがあるなんて、子供の頃は考えもしなかった。

(いや、大人になるまで考えなかったな……ああ、この酒は良くない。飲んじゃうやつだ)

 


 ごめんね、さよなら、雛。

 元気でいてね。

 


 残された書き置きは短く、確かに環の筆跡だった。

 これだけで、自分の意思で消えたと分かるのだから、書き置きは必要だったのだろう。

 そんなことに、ずっと後になって気づいた。


 そしてもうひとつ。

 その書き置きを読んだとき、雛は隠した。

 彼女が振り切ろうとしたのは、仕事や環境ではなく、朝比奈雛という人間だと。

 理由は見えないままだが、それだけははっきりしている。


 十五歳だったあの日、初めて聴いてもらったのは、わずか十六小節のフレーズだった。

 聴いてすぐ、環は作った曲を全部聴かせてと言った。

 勢いに押され、雛は彼女のプレイヤーに全データをコピーした。

 習作や未完成の曲もすべて。


 翌日、環は朝一番に雛の席に来て、言った。


「夜通しずっと聴いてたの。……気がついたら夜が明けてて、びっくりしちゃった」


 長い髪に、ヘッドホンの癖がつくようになったのは、その頃からだった。

 


 †



 次の日はひどい二日酔いだった。

 朝比奈雛、三十歳。

 代謝の落ち具合いを実感しながら水を飲み、休日の午前中を無駄に過ごした。

 夢うつつの中ずっとメッセージ音が聞こえていたが、放っておく。どうせ弟の櫂からだ。


「───ダメだわ、今日髪切るんだった」


 雛は予約を入れていた過去の自分を呪いつつ、スマホで確認した。やはり今日だ。


『ひな、カットの予約入ってるよ』

『明太子もらったよ』

『お裾分けするからね』

『そういやこの前美里さんが来てくれてさ』


 ひとつも返信していないのに、構わずどんどん来ている。いかにも弟らしくて雛は苦笑した。

 人懐っこい櫂は客商売が天職のような男だ。

 高校を卒業するとさっさと東京に出て、美容師になって、ついでに伴侶まで連れて帰って来た。それも世界レベルの超一流モデル。カロリーナという赤毛のチェコ人だ。

 あのときは関係各所がたまげたらしいが、家族だって相当たまげた。


「何時予約だっけか……あと一時間もないんかい」


 雛は慌てて出かける準備をした。寝癖が酷いのでキャップを探し回った。

 大学に入る年に巡り合ってしまったこの物件。2DKプラス防音室という変わった間取りである。

 十八歳当時の雛は部屋探しサイトを眺めながらうんうんと唸った。

 家賃が高い。だがピアノが置ける。設備の割には良心的なお値段。だがやはり高い。仕送りをやりくりし、バイトをかけもちしても苦しいだろう。だがピアノが……

 その様子を横で見ていた環が突然言ったのだった。


「それじゃ家賃折半して一緒に住もうよ。私の大学も同じ沿線だし、一本で行けるから」


 今にして思えば……と、雛はその頃を振り返った。

(結局私が甘えてたんだよな。環には防音室なんか必要なかったんだから)

 友人と楽しく暮らせるのならと、雛は深く考えずに環と同居した。違う大学に通い、タイミングが合えば一緒に過ごし、時には深い時間まで話をした。

 環という人は静かで、無駄に動かず、持ち物も少なかった。

 雛が一番覚えているのはダイニングでぼうっとしている彼女の姿だ。あまりにも動かないのでたまに心配になるくらいだった。存在感はとても大きいのに生活感はほぼないのだ。雛が見ていないときは、彫刻にでも戻っているのではないかと疑ってしまうくらいに。

 

 学生時代、環はスクールカーストの上位のそのまた雲の上みたいな場所にぽつんと鎮座していて、恋人がいたのかどうかも謎のままだ。年々美人度が増すにつれ、馴れ馴れしく話しかける人間も減っていたように思う。雛にとっては雛と一緒にいた環が全てだったので、あまり詮索することもなかったが。


「こんなところに」


雛はようやくキャップを見つけてかぶった。もうあまり時間がない。

 空っぽになった環の部屋は、現在は開かずの間になっている。そこを閉じても雛の生活の仕方や動線になんの影響もなかった。


 †


 櫂が経営する美容室は、雛の家から徒歩二十分の場所にある。

 到着すると受付の若いお嬢さんに「いらっしゃいませ、ご予約……あ、お姉さん!」と言われ、雛は今度こそ彼女の名前を覚えなければと目を凝らした。だが名札を見ても読めなかった。フォントがおしゃれ過ぎて。

 櫂の美容室は、彼の趣味と美意識が隅々まで行き渡った空間だ。

 エントランス正面のガラス張りの大パネルには、櫂がスタイリングから撮影まで手がけたモデル写真が、季節ごとに入れ替えられている。受付カウンターの後ろにも、自作の写真が並び、まるで小さなギャラリーのようだった。

 写真の被写体はすべて、スーパーモデルのカロリーナ・エリシュカ。

 これは誰かと人に問われれば、櫂は「僕の奥さんでーす」と元気良く答えるだろう。その肖像は「僕の奥さん」的な響きからはあまりにもかけ離れているが、櫂は気にしない。櫂だから。

 店内にはやたらと増えた観葉植物と、カロリーナの日常を切り取った写真がそこかしこに飾られている。

 

 朝食を食べる彼女、クラブで踊る彼女、読書をする彼女。ありふれているようで、どれも特別な瞬間だった。

 それは家族による、家族の日常。櫂の目が見た女神の姿なのだ。

 (これが義妹とは、人生って分からない)

 雛は薄々と、自分はやけに美形に縁があるなあとは思っていた。だがそんな変な星回りもスーパーモデルまで行き着いたとなると、もうこの先は何が来ても驚けない気がしていた。


「櫂さん聞いてよ、めっちゃ忙しくてなかなか来られなかった! 伸びちゃってすごいでしょ」


 鏡の前に座った女性客が櫂に声をかけていた。


「長いのも似合ってますよ。上手に巻いてるなあって、いらしたときから見てました。そっかそっか、二か月ほど開いてて……じゃあ今日はどうしましょうか」


 雛は高そうなソファに埋もれ、弟の営業トークを聞きながら待った。気配を殺していたが、すぐに櫂に見つかった。


「あ、ひなー。もう少し待てる?」


 櫂が手を振りながら呼ばわるので、雛は小声で「待つから大きな声出さないの」と言い返した。案の定周りからは「なにこの人」と注目される。


「双子の姉なんですよ。あいつ変な奴で、普通にネットで予約入れて来るんです」


 店まで来なくても切ってやるのにと櫂は言う。だが雛としては身内の技術にタダ乗りするのは気が進まない。なので毎回アプリで予約を取っているのだが。


「へえ、そうなんだ。よおく見れば似てる? ウフフ。よく見ないと似てなくてえ〜でもよく見たらすごく似てる」


 結局似てるんだか似てないんだか分からない。

 

 雛はそのお客さんに会釈をして、スマホに溜まった通知に目を通すことにした。


「やっぱり…………やらかしてる」


 スパムや公式アカウントからの通知を一気に消し、自分のチャンネルにログインしてみた。


 夢だと思いたくて確認していなかったが、やはり昨夜あのコメントに返信してしまっていたのだ。

 (ああ、酒よ。何してくれるんだ)


『繰り返し聴くうちに、夜が明けていました』


 特に変わった言葉でもない。

 けれど雛にとっては泣きたくなるくらい彼女を思い出させるコメントだった。しかも迂闊にも彼女の名をつけてしまったあの曲に。

 酔っていたので細かい記憶はないが、全く普通に「ありがとうございます」と返信していた。変なことを書き込んでいなかったので一安心したが、チャンネル開設以来初めてのミスであることに変わりはない。

 コメントの主[ten]の登録チャンネルは公開されており、表示されているのは雛のチャンネルを含め、音楽系ばかりだった。

 あの曲を特別に気に入ってくれたのなら嬉しいなと思ったり、単なる気紛れかもと思い直したりする。

 何にせよ返信が目立つ。

 十五年間ひたすら曲を上げるだけだった配信者が唐突に口を開けば、気付いた常連は変に思うだろう。

 (削除するのも相手に失礼だし、いやもう、しくじったわ。どうしよう)

 迷っているうちに櫂に呼ばれてしまい、雛は案内された席に着いた。


「ひーな。キャップ預かるよ。うわ、めっちゃ起き抜けやんけ」


 寝癖を触りながら櫂に言われ、雛は頷きながらスマホをポケットに押し込んだ。ひとまず対処は先送りにし、またあとで考えようと思った。


「元気? どうするよ。いつも通り?」

「うん」

「うんじゃないよ。たまにはさあ……まあいっか」


 文句ありげな櫂と一緒に、すぐにシャンプー台へ移動した。


「はーい倒すよ。いやもう少し上だよ。座るの下手かよ」

「按配が難しいんだよこの椅子。なにもあんたがシャンプーしなくてもよくない?」


 櫂の店ではシャンプーは他のスタッフさんに任せているはずなのだ。


「他人に自分の姉ちゃん洗ってもらうのって変だろ」

「いや知らんし。知らん過ぎるし」

「頭皮が浮腫んでるんだけど」

「……昨日飲んだから」

「珍しいね。あ、俺言ったっけ? 美里さん来たの」

「LINEで言ってたじゃん。美里さん元気なの?」

「元気そうだったけど。てか、ひなの方が会うだろ。同じ職場なんだから」

「会わない。部署が違う」


「美里さん」こと点鬼簿(てんきぼ)美里は雛たちの実家のお隣さんである。雛と櫂は子供の頃からずいぶんと可愛がってもらった。

 朝比奈の両親はともに夜間勤務や泊まり込み勤務がある仕事に就いていたので、それはもう、足を向けて眠れないくらい、お世話になったのだ。

 美里は「盲」に分類される視覚障害者で、盲学校に学び理学療法士として働いている。その影響を微妙に受けたのか、雛も今は同じ病院で働いているというわけだ。但し雛が選んだ職は臨床検査技師だったが。


「んで、了が来た話とかしてさ」

「へえ。あの子帰って来てたんだ。今どうしてるの?」

「連絡取ってみれば?」

「連絡先知らない」

「マジかよ衝撃だな」


 たまに会う身内あるあるだ。手っ取り早く情報交換をしようとするので、次から次へと人の名前が出てくる。情報を持っているのは大抵櫂の方だが。

因みに了とは美里のひとり息子で、雛たちの幼馴染である。


「あとで明太子忘れんなよ。冷凍してあるから持ってって」

「うん。ご馳走様」


 シャンプーが済みまた席に戻ると、雛の視界は前よりかなり明るくなっていた。軽くマッサージされただけでこうも違うものかと感心してしまう。


「さて」


 櫂はスタッフにいくつか指示を出すと、鏡越しに目を合わせながら髪を拭く。おそらく単なるクセなのだが、雛は知っている。これだけで女性客がぽうっとなっていることを。

 櫂の顔は、パーツそのものや配置などは雛ととても似ている。双子だけあって。

 だが彼はにこやかで洒脱で、とても雰囲気がある。おまけに関わった相手に「自分のことを特別大切に思ってくれている」と信じさせてしまう何かを持っていて、昔はそれがトラブルの元になったこともあった。決して思わせぶりな態度など取らないのに、厄介な魔性なのだ。

 雛は弟が早くに結婚したことで、とてもとても安心した。なにせ、櫂は普通に健全に生きているだけなのに、周りで勝手に痴情がもつれるのだ。危ないったらない。

 櫂目当ての女性客がほとんどのこの店で、変に想いをこじらせたり、ストーカーと化したり、そんな恐ろしい被害が出ないのは、カロリーナが櫂のパートナーだと知れ渡っているからだろう。ランウェイの女神の結界は強力で、雛は姉としていくら感謝してもし足りないくらいなのだ。


「ここらへんに色入れようよ。オリーブとか似合うよ」

「ヤダ」

「何年同じスタイルなんだよ。同じような服着て、同じ部屋に住み続けて」

「私の勝手だよね」

「俺がつまんないんだよ」

「いいから二センチ切りやがれ」

「ハイハイハイハイ。で、連絡来んの? 加納さんから」

「来ない。知ってて訊かないでよ」

「訊くよそりゃ。いつまで待つつもりだって意味だから。嫌味だから。ひな、嫌味って分かる? 」


 棘などひとつもないような声。だがさすが弟。雛の痛いところを突いて来る。

 環と折半していた家賃を払い続けるのも、そろそろ限界だ。雛は臨時職員なので、それほど給料は良くない。技術職ではあるが、年次を超えて再任用されるとも限らず、次第に何でも屋のような働き方になる。この世界、経験と技術を極めてさらに認定資格を取る者も多いが、臨時の身分ではなかなかままならない。今のところ何でも屋なりに需要があるので、色々やっているわけだが。

(まあ、それもだんだん苦しくなってきたよなあ)

 昨年から今年にかけて配信用の機材が壊れたり、虫歯になったり、色々な出費が嵩んだのもある。


「……近いうちにどっか、いいとこが見つかったら引っ越すかも」

「ふうん。ピアノはうちに置いてあげるよ。実家に送り返すわけにもいかないだろ。どうせ母さんが空いた部屋は物置きにしてるだろうし」

「んん、まあ、ピアノの処分も含めて考えてる」

「電子ピアノにするの? 」

「検討中」

「───よし出来た。どうする? キャップ被るならそれ用にアレンジするけど」


 櫂がオイルを手に取ると、柑橘系のスパイスのような香りがふわりと広がった。

 キャップを被るための髪のアレンジなんて、雛には想像もつかない。だから一応首を横に振ったのだが、櫂に無視された。ダセェ髪で自分の店からは出さないということなのだろう。

 雛が適当にしまいこむつもりだった前髪は絶妙に出され、後れ毛のようなそうでないようなピロピロも散らしつつ巻く…みたいなことをされる。

 こんなピロピロした毛束にまで手間をかけるなんて、美の世界は本当に容赦がない。



※全六話です

毎日20:00に更新します


 

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