社畜、刺されて異世界へ。もふもふと自由気ままな魔獣牧場はじめます

塩羽間つづり

第1話社畜、刺されて異世界に

 社内で利用されているチャットに怒涛のメッセージが入る。


『相山さん、こちらの企業も担当お願いします』

『ビデオ会議の日程組みますね』

『要望書送ります』


 新たにタスクが追加されていく。

 まだ了承もしていないのにお構いなしだ。


「……残業決定」


 古びたエアコンが「ゴオオオ」と唸りを上げる。

 必死に働く様が俺に似ている。頑張っても頑張っても、褒められるどころか「暑いなぁ」と文句を言われるところまで。


 相山幸太郎あいやまこうたろう。社畜歴七年。未婚。


 俺の日常にイレギュラーなんてものは起こらない。

 基本的に社畜の日々。スケジュールは、仕事、仕事、仕事。朝早く家を出て、月明かりと共に帰宅をする、そんなありふれた社畜だ。


 多少頑張ったところで、手にするのは微々たる残業代くらいなものだというのに、どうしてこうも会社に人生を捧げてしまうのか。



「おい、相山ー。例の案件どうなってんだ。早くやっておけって言っただろ!」


 今度は課長の怒鳴り声が響き渡った。


 この課長は前日に嫌なことがあると、社員に当たることで有名だ。

 ターゲットは男が多い。中でも、俺は特に目をつけられている。


 なにが気に入らないんだか、迷惑極まりない。


「それなら昨日提出しましたが? 残業までして仕上げたのに、気づかれてもいないなんて残念です」


 笑顔で皮肉を返すと、課長はピキッと青筋を浮かべた。


「提出したらなら、朝そう報告しておけよ。役立たずが」


 役立たずはどっちだよ。


 笑顔を浮かべたまま心の中で罵倒を飛ばす。


 きっちり連絡は入れただろ。

 それでいて話しかけると、無駄話をしてくるなとキレるくせに。


 不快な気持ちのまま目の前のモニターに目をやれば、見慣れたタスクリストが今日も元気に主張していた。

 ここに新たな案件か……。


 諦観に浸っている俺の背中に声がかかった。


「相山さーん、ちょっといいですか?」


 振り返れば、後輩の雨宮佐奈あまみやさなが、少し困ったような顔で立っている。

 その手には、見ただけで胃が重くなりそうな分厚いファイル。嫌な予感。


「これ、お願いできませんかね……?」


 やっぱり仕事の打診か!


「いやー、ちょっと厳しいですね。俺、今案件大量に抱えてて余裕ないですから。ほら、見ての通り、スケジュール真っ黒」


 事実をキッチリ、ハッキリと伝える。モニターを指差して、現実の共有まで試みた。


 だが相手も譲らなかった。


「でも、これならちょっと残業くらいですよね?」


 それは俺に終電退社しろと言いたいのか。


 雨宮はこの暑い中羽織ったカーディガンの袖をちょっと伸ばして、萌え袖にしながらチラッと見てくる。


「無理なら資料作成を手伝ってくれるだけでもいいんです! この取引先の方、ちょっと気難しいみたいで、前回も相山さんが上手く対応してくださったって聞きましたし……」


 ああ、あの人か……。

 あのときの胃痛が蘇る。

 「上手く対応した」というよりは、「魂を削ってなんとかした」が正しい。


 とはいえ、厄介な顧客なのはたしかだ。後輩の雨宮には荷が重いかもしれない。


 黙ったまま考えこんでいると、雨宮が思い出したように手のひらを打った。


「そういえば今日、田中さんが、出張のお土産の鳥皮を持ってきてくれたんですけど……相山さん、よかったらどうですか?」


「食べもので釣るのか?」


「そんなまさかぁ。でも、九州で有名らしいですよ。皮がパリッパリで、炭火の香りがたまらない絶品の鳥皮と、これまた絶品のチーズ。キンキンに冷えたビールに合わせたら、もう最高だって!」


「……」


 炭火焼きの鳥皮。絶品のチーズ。ビールに最高。


 ……抗いがたい響きだ。ここ数日、適当なコンビニ飯ばかり食べていた俺の細胞が、喜びの声を上げている。


「お願いします! 今日ちょっと見てくれるだけでいいんです!」


「……わかったよ」


 負けた。

 決して食べものに釣られたわけではない。


「やった! これで怒られなくてすむー! それじゃ、あとでデスクに持ってきますねー」


 雨宮は足取り軽く自分の席に戻っていく。

 ふわふわと揺れる彼女の巻き髪を見ながら、俺はガックリとうなだれた。


 自らタスクを増やして……なんて愚かなんだ俺は。



 深海よりも深いため息とともに、山積みの仕事に取りかかった。





 就業時間後、カタカタとパソコンの音がいたるところで響いている。


 俺たちと同じ残業組が、こんなにもいる会社……まさしくブラック企業。


「相山さん、これでいいですかぁ?」


 間延びした声で、雨宮がチェックを促してくる。モニターに映る資料を確認して、修正箇所を探すが、問題はなさそうだ。


「大丈夫そうだ。ただ、相手は突っこんだ質問もしてくるから、対策しておくといい」


「はぁ、胃が重い。転職しようかなー」


 ……転職か。

 俺もできたら転職でもするか?


 そんなことを思いつつ、帰り支度をする。


「あ、私も帰ります! 駅まで一緒に行きませんか?」


「いいけど、早く帰りたいから待たないぞ」


「えー、つめたぁい」


 ケタケタ笑いながら、パソコンをシャットダウンする雨宮。


 そして、そろって会社を出て、駅までの道を歩いて約百メートルほどしたところで、黒いジャンパーに黒の帽子をかぶった男が突然前に躍り出てきた。


 なんだ? 酔っ払いか?


 警戒していると、男はジロッと俺のとなり……後輩の雨宮を見た。そして、叫ぶ。


「おまえ、やっぱり浮気してたんだな!?」


「なっ、違うわよ! この人は会社の先輩! だいたい、なんでこんなとこにいるのよっ」


「会社会社って、こんな遅くまで仕事があるか!」


 こんな時間まで仕事あるんだよなー。

 さては君、ホワイト企業の人間だな?


 なんて羨ましい……。毎日定時退社。ブラック企業で働く社畜の夢だぞ。


「浮気したら殺すって言っただろ!」


「してないって、言ってるじゃない!」


 お互い肩を上げて声を荒げながら反論している。


 それにしても……これって、どう見ても修羅場だよな?

 まさか俺、巻きこまれてる?

 勘弁してくれよ。帰りたい……。


 遠い目をして現実逃避をしていると、彼氏だと思う男が、鬼の形相で雨宮の長い髪をつかみ上げた。


「痛い! 離してよ!」


 悲鳴が響き、俺は思わず間に入ってしまった。


 社会人として、懐から名刺を取り出し、まずは素性を明かしてから穏便にすませようとした。


「落ち着いてください。話し合いましょう。俺は本当にただの先輩で……」


「るせぇよ」


 ズブっ。


 そのときの音を、どう表現したらいいかわからない。


 嫌な感触がした。


 右わき腹が、燃えるように熱い。


 目の裏が赤く染まって、口からごふっとなにかが溢れてくる。


「きゃああああああ!」


 雨宮の悲鳴が響き渡った。


 口に手をやれば、自分の手のひらが真っ赤に染まっていた。


「……は?」


 まさか、刺された?

 おい、冗談だろ。


 俺は、ただ、頼まれただけで、仕事を手伝っただけ。


 間違いで殺されましたとか洒落にならんが?


 全身にかかる重力が一気に増えたみたいに、体が重くなり、前のめりに倒れた。


「相山さん! 先輩! きゅ、救急車を! だれか!」


 雨宮の声が遠くに聞こえる。


 ああ、関わらなきゃよかった。

 もう遅いが。

 ダメだ。目はもうアウト。音も……聞えなくなっていく。


 こんなことになるなら、もっと好きなことをしておけばよかったか。


 そうだ。俺、ペット飼いたかったかったんだよな。

 今は空前の猫ブーム。

 SNSで見る猫がかわいくて、俺も飼ってみようかと思ったが、残業ばかりの男の家にいるのはかわいそうかと思って、止めたんだったな。


 世界一周旅行もしてみたかったんだ。そんな時間ないからと諦めていたが、まさか死ぬことになるなんてな。


 ……そうか、死ぬのか。


 呆気ない人生だった。


 会社に人生を捧げて、社畜として死ぬのか……。


 なんて無意味な人生……。



 ふっと意識がなくなり、そして、突如意識が浮上する。


 ハッと両目を開いた。


 なんだ? どこだここは。

 うつ伏せで寝ていたようで、目の前には土と草。アスファルトではない。倒れた場所から運ばれたか?

 病院でもないってことは、あの男に連れ去られたか……。


 それにしても喉の渇きが酷い。カラカラだ。


 自分の手を喉にやろうとして、違和感に気づく。


 なんだ? なにかが、変だ。


 俺の手はもっと浅黒く、骨張って、年季の入ったおっさんの手をしていたが、ささくれ程度しかないピカピカの手だった。


 なのに、この手は豆だらけだし、切り傷も多い。それに、白いし張りがあってみずみずしい。


 そっと、顔に手をやる。

 ふにふにとして、弾力がある気はするがわからん……が、まぁ、いつもの触った感じとは違うような。

 そうだ、声だ。


「あ、あ、あー…………」


 いつものおっさんの声ではない。

 やや低めのアルト声。まだ若さを感じる青年の声だ。


 ……って、ちょっと待て、これはだれだ!?

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