第39章「進路指導室での沈黙」
秋が深まりかけた潮守高校の進路指導室。窓の外では金木犀の香りがほのかに漂い、廊下に柔らかな陽光が斜めに差し込んでいた。
「――推薦の最終確認、ということで、いいな?」
進路指導教諭の小松が、丸眼鏡越しに静かに言った。
目の前の雄大は、机に両肘をつきながら、数秒だけ無言のまま頷いた。
けれど、それは「はい」という答えではなかった。
紙の上には、すでに印刷された「大学名」と「水泳部推薦枠」の文字が並んでいた。
あとは、サインするだけ。それだけのはずなのに、ペンを握る指が動かない。
「……迷ってるのか?」
「はい……いえ……その、時間をもらえませんか。ほんの、少しでいいので」
視線を落としたまま、雄大がしぼり出すように言った。
小松はため息をつきかけて、それをやめた。
長年教師をしていれば、迷っている生徒の言葉には“声にならない音”があることを知っている。
そして今、雄大はまさにその状態だった。
「……おまえな、言っておくが推薦ってのはな、簡単に“時間ください”で引き伸ばせるものじゃ――」
そこまで言いかけたとき、小松は雄大の目を見て、言葉を止めた。
その目は、揺れていた。
けれど、決して「逃げ」のための猶予を求めているものではなかった。
「……わかった。ただし、最終決断は一週間以内だ。それを過ぎたら、こっちでも判断する」
「……ありがとうございます」
小さく頭を下げると、雄大はペンを置いたまま立ち上がった。
ドアの前で一度だけ振り返る。
「……俺、灯台のこと、最後までやりきりたいんです」
「……ああ、そうか。そういうことか」
小松の口元がわずかにゆるむ。
それは教師としてではなく、一人の大人としての微笑だった。
「じゃあ、悔いのない選択をしろ。後悔するなよ」
静かにドアを閉めたあと、雄大は進路指導室の前で大きく深呼吸した。
廊下の向こうでは、どこかで吹奏楽部の音が小さく鳴っていた。
――きっと有紀が吹いてる。
そう思うと、胸がきゅっとなった。
でも、痛くはなかった。
むしろ、何かを守り抜こうとする強さのようなものが、そこにはあった。
雄大はそのまま、渡り廊下を歩き出した。
目指すのは、あの灯台だった。
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