第30章「言えなかった言葉、星にこぼれて」
「ここから見る夜空、いつもより近く感じるね」
有紀の声が、静寂を溶かすように灯室に響いた。
灯台最上部、ガラス越しに夜の海が広がっている。
吹き抜ける潮風と、波の音。そして時おり軋む鉄の音。
すべてが「夜勤」の名にふさわしい静けさをまとっていた。
灯台の宿直当番として、雄大と有紀はこの夜、灯りの見回りを任された。
ふたりきりで灯室に泊まるのは、これが初めてだ。
「ペルセウス座流星群、見えるといいな」
有紀は肩にかけたブランケットをぎゅっと引き寄せながら、夜空を見上げた。
天頂に広がる無数の星たち。その中に一つ、かすかに光の筋が流れる。
「あ、今――流れたよ」
雄大はうなずいたが、視線は夜空ではなく、有紀の横顔に注がれていた。
それは光に照らされた透明な輪郭。
彼女が微笑むたびに、胸の奥で何かがぎゅっと締め付けられる。
(言おう、今こそ)
そう思うたび、喉元まで出かかった言葉は消えていく。
灯台の灯りのように、そこにあるのに、届かない。
「……有紀さ」
「うん?」
声をかけた瞬間、ふいに灯室の外で風が強く吹いた。
窓ガラスが小さく鳴り、彼女の肩が一瞬すくんだ。
「……寒くない?」
「ちょっとだけ。けど、こうして空を見てると忘れるよ。なんだか、全部が許されるような気がして」
そう言って、有紀は灯室の中央、ランタンの近くに腰を下ろした。
ブランケットの端を少しめくり、隣に座るよう促してくる。
「……こっち、来なよ」
ほんの数十センチ。されど、その距離がどれほどのものか、雄大には痛いほどわかっていた。
「……うん」
彼は少しぎこちなく腰を下ろし、隣に並ぶ。
視界の端に、有紀の肩。
近すぎず、遠すぎず。
言いたい。伝えたい。けれど、怖い。
言葉にすれば、この関係が変わってしまいそうで。
「ねぇ、雄大くん」
「ん?」
「……なんで灯台を、そんなに大事にしてるの?」
しばらく黙ったのち、彼はぽつりと口を開いた。
「――祖父が、ここをよく話してくれたんだ。俺が小さい頃、“灯台の灯は、願いを照らす”って」
「……おじいさん、素敵な人だったんだね」
「うん。もう亡くなったけど。……この場所に来ると、会える気がする。そう思ってる」
それを聞いた有紀の目が、ほんの少し潤んだ。
けれど、それを見せないように彼女はそっと目を閉じた。
「……ねぇ、願ってみてもいいかな?」
「うん、いいよ」
「じゃあ、流れ星が来るまで、目つぶって待ってよう」
言われるがままに、二人は目を閉じた。
時間が止まったような沈黙。
けれどその静寂が、なによりも心地よかった。
(言うなら、今だ)
(言わなきゃ、何も変わらない)
(でも、変わってしまうのが怖い)
そんな想いが、胸の奥でぶつかり合う。
と、そのとき。
視界を閉じたままの二人の間に、ふわりと風が通った。
灯室の隙間風が、ふたりの頬をなでたように抜けていった。
有紀が、ぽつりと呟く。
「お願いごと……したよ。叶うといいな」
「……どんな願い?」
「……ひみつ」
少しだけ、口元が緩んだ。
「でも、いつか叶ったら、ちゃんと伝える。……そのときまで、待っててね」
「……うん。わかった」
流れ星が夜空をまたひとつ、静かに横切った。
灯台の最上部。冷えた空気が風の粒となって、ふたりの間をすり抜けていく。
手すりにもたれたまま、有紀はひとつ息をついた。
「……ねぇ、さっきの話。ほんとに、言おうとしてたことって……なんだったの?」
隣に立つ雄大の顔を、彼女はそっと見る。
けれど雄大は空を見たまま、なかなか口を開かなかった。
「……もし、さ。もし言ったとするじゃん。そうしたら、なんか、いろんなものが動き出しそうでさ」
「うん」
「今の関係も、全部、変わっちゃうかもしれない。変わるのが怖いって、そう思った」
遠くで、波が静かに打ち寄せる音が聞こえる。
それはまるで、「逃げるな」と問いかけるようだった。
有紀は少し、声を張って言った。
「でも私――変わってもいいと思ってるよ。雄大くんとなら。……怖いけど、逃げるのも、もう疲れたから」
その一言が、夜の帳に震えた。
雄大はようやく、ゆっくりと顔を上げ、有紀を正面から見つめた。
「有紀。俺……ずっと前から、たぶんずっと、お前のことが――」
けれどその瞬間、灯台のドアが開いた。
「……あれ、当番って雄大たちだったよな? ごめん、水持ってきたんだけど」
史也の声だった。
気まずさが風と一緒に流れていく。
有紀は少し首をすくめながら、にこりと微笑んだ。
「ありがとう、史也くん。……ちょっと涼んでたところ」
「そっか。じゃあ俺、下で待機しとくよ。終わったら呼んで」
気遣いの声を残して、史也は再び階段を降りていった。
沈黙。
言いかけた言葉は、宙に溶けた。
有紀は雄大に背を向け、少しだけ涙ぐんだまなざしで空を見た。
「……流れ星、見えるかな」
雄大も空を仰ぐ。星々のなかに、ひときわ鋭い光がすっと走った。
「あっ……!」
ふたりの声が重なる。
同じ瞬間、同じ星を見ていた。
それだけで、何かが通じたような気がした。
けれどその「何か」は、まだ名前のないままだった。
「願いごと、言った?」
「……うん。内緒」
「そっか。……じゃあ俺も、内緒にしとく」
ふたりは笑った。けれどその笑みは、ほんの少しだけ、さびしげだった。
この夜、灯台の灯りはしっかりとまばたきを繰り返していた。
ふたりの胸に灯った想いもまた、少しずつ、その輪郭をはっきりさせようとしていた。
――いつか、きっと。
今はまだ、言葉にならないけれど。
(第30章・了)
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