第2章「誘い文句は海を指さして」
4月10日、月曜日。昼休み。
潮守高校の屋上は立入制限が厳しいが、条件を満たせば開放されることもある。風紀委員である麻里奈の提案で、昼休みに限り、当番制で鍵を管理することになっていた。
その屋上に、雄大は静かに立っていた。
春の風が頬をなで、海の匂いを運んでくる。遥か遠くに見える海面は、薄曇りの空の下、銀色にかすんでいた。
「いたいた」
階段の扉が開き、少し息を切らせた声が響いた。
史也が、紙パックのミルクティーを片手に現れる。
「サボりかと思ったけど、真面目に来てたじゃん」
「……昼休みだし」
「お前ってさ、思ってたより真面目だよな」
史也は、笑いながら横に並んだ。
「なに見てたの? 海?」
「ああ……。灯台、見えるかと思って」
史也は、ふと視線を遠くに向けた。風に髪をなびかせて、目を細める。
「なるほど。あの白いやつな」
「知ってる?」
「まぁな。ちっちゃい頃、親父に連れてかれた。潮守灯台。今にも崩れそうなオンボロ」
そう言って、史也はミルクティーを一口飲む。
「で? 気になるの? 灯台」
「……あのチラシ、見ただろ。修復ボランティア」
「ああ、クラス配られてたやつ。カラフルで目立ってたな」
「……あそこ、俺、昔よく行ってた。じいちゃんに連れてかれて。まだピカピカに光ってた頃」
言葉が途切れ、風の音だけが流れる。史也はしばらく何も言わず、ただ海を見ていた。そして、不意に言った。
「なあ、雄大。お前さ、灯台保存のやつ、出てみない?」
「……俺が?」
「うん。いや、お前なら向いてる気がしただけ」
史也の言葉には、意外なほど迷いがなかった。
「……向いてるって?」
「一言で言えば、真面目で一本気。ちょっと口下手だけど、丁寧。話してて、嘘がない」
「……そんな風に見えるか?」
「見える。俺、わりと人を見るの得意なんだよ」
そう言って、史也はふと笑った。
「実はさ、俺も出ようと思ってんだ」
「……え?」
「自己改革ってやつ。今までの俺って、正直、中身スカスカだったと思ってる。人の話を聞いたフリして、内心では“何の得にもなんねぇ”って思ってた。でも、最近思うんだよね。そういうの、ダセぇなって」
いつもの軽い口調ではなかった。史也の声は、まっすぐだった。
「灯台ってさ、昔は“命の光”だったんだろ? 船が帰るための目印。迷ったやつが、また岸に戻ってこられるようにって。……それって、すげぇよな」
「……ああ」
「だから、俺もやってみたい。人の役に立つっていうより……自分が何か変われるかどうか、試してみたい」
雄大は、ふと目を伏せた。
“変わりたい”――その言葉が、胸に刺さる。
「お前も、何かあるんだろ? 昔の記憶とか、あの場所への思いとか。そういうの、大事にしていいと思うよ」
史也は、軽く背中を叩いて言った。
「俺と一緒に、やってみようぜ。な?」
そして、指を差した。海の彼方を。
「ほら。あの先に、あの灯台がある。あそこが、俺たちの“はじまり”になるんだよ」
放課後、雄大は帰りの支度をしていた。
鞄に教科書を詰めながら、心のどこかにまだ午前の史也の言葉が残っていた。
――俺と一緒に、やってみようぜ。
簡単なようで、すごく重たくて、それでも温かい誘いだった。
昇降口で靴を履き替えようとしたとき、背後から声がした。
「ねえ」
振り向くと、有紀が立っていた。カーディガンの袖を引いて、ちょっとだけ戸惑った顔。
「その……さっきの、灯台の話」
「……え? 聞いてた?」
「ううん。噂でちょっとだけ。今日、何人か声かけられてたから……」
有紀は目線を泳がせながら、小さく言った。
「わたし、あんまり得意じゃないの。予定が狂うのとか、人がいっぱいなのとか。けど、あの灯台って、なんか不思議と……気になるっていうか」
「……うん」
「週末、説明会あるんだよね。……行ってみようかなって思って」
彼女の言葉は小さな一歩のようだった。でも、それは確かに、誰かの心が動いた瞬間だった。
雄大は、静かにうなずいた。
「……俺も、行く。史也に誘われたんだ」
「そっか」
ほんの少し、彼女の表情が柔らかくなった。
「じゃあ、またあそこで会えるね」
「……うん、また」
それだけで、今日はもう十分だった。
人と深く関わるのが苦手だった雄大が、誰かと“また会える”と心から思えたこと。
それが、何よりの変化だった。
外に出ると、夕陽がグラウンドを照らしていた。校舎のガラスに反射して、橙色の光が広がっていく。
その光の向こう、潮の風が吹く方向に、灯台はきっと、今も立っている。
静かだけど、確かに始まった。
春の海に、灯台があるように。
心のどこかに、ともしびがともったように。
(第2章 了)
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